偽史邪神殿

なんでも書きます

ギャンブル漫画としての『根こそぎフランケン』の感想

 

『根こそぎフランケン』を、かなり面白く読んだ。

 中心人物はふたり。図体がでかくて頭は悪いが、力でねじ伏せる麻雀を打つ天才・フランケンと、頭も良いし麻雀も上手いがとある挫折体験をして以来、本気で麻雀を打っていない中年男・竹井。そこにさらに何人かの強者を絡めて話が進む。

 物語は大きくわけて二部構成で、前半が竹井の過去の因縁を決着させる「レネゲ編」、後半が竹井vsフランケンとなっている。

続きを読む

(自分用)kindle unlimitedで読める本リスト

 

www.karzusp.net

 

はい。そういうわけでやっていきます。

キンリミで何が読めるのか調べるの、難しすぎる。

別に読んでる本を紹介するわけとかではなく、なんとなく読みたいやつを挙げるだけです。

めんどうくさいので、小説本はシリーズとか作家でまとめて読めるやつだけピックアップします。

ミステリー多め。

続きを読む

サーシャ・フィリペンコ『赤い十字』感想 / 赤黒いファミリーヒストリー

 

「もしこの惨状を全世界に知らせなかったら、半世紀後には自らの意思でシャベルからものを食べようとする人間が出てくる。
(…)その人たちが囚われているのはもはや収容所ではなく、その人自身なんだからね」(P175)

 

 

 ロシアからベラルーシの首都ミンスクに移住してきた語り手サーシャは、アパートの隣の部屋に住む老婆に話しかけられる。老婆の名タチヤーナ。90代で、アルツハイマー病を患っている。彼女は自分の部屋がわからなくならないようにするため、アパートの共用部分のドアに「赤い十字」を勝手に書き込んでいた。

 老婆はなかば強引にサーシャに話しかけ、頼まれてもいないのに自らの半生を語りだす。ロンドンで生まれ、モスクワに移住した少女時代。ソ連黎明期から第二次大戦までの激動。言語が得意で外務省にて働いていた彼女は、日夜外国から送られてくる文書の翻訳作業に従事していた。そしてある日、赤十字から送られてきた捕虜のリストに自分の夫の名前を見つける。ロシアにおいて捕虜は裏切り者も同じだ。夫が捕虜になったと明らかになれば、自分や娘はどんな目にあうだろうか。彼女はそのリストを翻訳すべきかどうか苦悩しはじめる──。

 

 歴史の証言者である老人の語りと、現代の青年である主人公の日常とが交錯する物語だ。同じような空気を持った作品としては、エマヌエル・ベルクマンの『トリック』や、ベルンハルト・シュリンクの『オルガ』が思い浮かぶ。しかし本書はそれらと共通したところがありつつも、もっと淡白で簡潔であり、感動よりもやるせなさのほうが色濃い。それというのも、本書で描かれている出来事がすでに通り過ぎた「歴史」などではなく、現に今ここにある「現在」だからだ。

続きを読む

シルヴィア・モレノ=ガルシア『メキシカン・ゴシック』感想 / 混交するもの されるもの

 

 

 

 1950年のメキシコを舞台にしたゴシック・ホラー。うら若き令嬢ノエミ・ダボアダは、田舎に嫁いだ従姉妹からの助けを求める手紙に応じ、彼女の住むドイル家の屋敷に向かう。しかしそこにはおぞましい秘密があった。

 

 あまり大きな動きがないまま話が進んでいくので前半部はどう読んだら良いのかわからなかったけど、途中でペダンチズムや細部の五感の描写に着目して読むように心がけたら上手くハマった気がする。終盤はかなり色々起こるので、ゴシックというよりモダン・ホラーだけど、作者のやろうとしていることは一貫しているのでそれはそれで良い。

 本書においては優生学血統主義に囚われた悪しき者たちと、銀鉱山を中心に発達した街の歴史が絡み合っている。ノエミがドイル家の秘密に迫るにあたって、その全貌が次第に明らかになっていくのが見どころだろう。かなり細かい部分への説明も多いが、後の展開への布石として必要なことを的確に論じている印象があった。

続きを読む

エルヴェ・ル・テリエ『異常(アノマリー)』感想 / 死後評価されることについて

 

 死後評価されたい。

 

 オタクなら誰でも一度は夢見ること……つまり「死後評価されること」について考えてみたい。

 不遇の天才だとか不世出の逸材とか、世に色々な「報われない才能」というのはあるけれど、中でも一番かっこいいのは「死後評価される」ことだ。ただ残念ながら、生きている間に自分が死後評価されたかどうかを確かめる術はない。

 でももし自分が死後評価されて、それを知ることができたとしたら……? そんな状況を描いたのが本書だ。

 

続きを読む

どうして漢文を学ぶのか

 

 

 数年前に学校で漢文についてのレポートを書く機会があって、自分自身何を書いたのかほとんど忘れていたのだけれど、ふと思い立って改めて読み直してみたら割と真面目なことを書いていた。当時の自分はけっこう真剣に勉強していたらしい。実際、このレポート自体はそこそこ良い成績だった。

 ここ数年は漢文には触れていないし、なんなら中国語にもあまり触れられていないが、当時の初心を思い出すべく、ここに一部を抜粋することにしてみる。けっきょく、漢文って何が面白いのか。なぜ漢文を学ぶのか。そういう話を通じて、改めて自分の中の漢文に対するモチベーションを上げていきたいと思う。*1

 分量としては5000字弱。今見るといろいろ直したいところもあるけれど、当時の表現を尊重するため特に直していません(怠惰)。妙に引用が多いのは、当時のレポートがそういうレギュレーションだったからであって、筆者に引用癖があるからとかではありません。

 

一 漢文と「知」について

 英語で「知る」を意味する「know」は、少し変わった性質を持っている語だ。何かを「知る」という行為を意味していながら、実際のところは「知っている」という状態を表すことが多い。「I am knowing something」という表現は不自然である。

 この単語はまた、「you know」という形で英語の日常会話において頻繁に登場する。この場合の「know」は特に意味をなさない。しかしこの「ご存知のように」という言葉は、誰か他者との対話のなかで、相手の「知」を確認するような意味合いがあるのかもしれないと感じることがある。

 いかなる言語形態においても、「知」というのはある種の「運動」であるということを考えてみたい。

 あるものについて、それを「知っている」か否かというのは容易には測り難い。「知」はひとの脳内で起こっているものであるうえ、テストや問答を通じて測定することにも限界があるからだ。そもそも「知る」という行為に終着点があるのかどうかも怪しい。「走る」という行為の終着点は「走り終わる」ことであり、「喋る」という行為の終着点は「喋り終わる」であるが、では「知り終わる」ということはあるのか。

 これは、単に状態動詞と動作動詞の違いという次元の問題ではない。一般的な文法解釈にならい「知る」を状態動詞と仮定しても、同じく状態動詞である「住む」や「生きる」とは異なる。なぜなら「住む」や「生きる」という行為には転居や死による終着点があるが、「知る」には「知らなくなる」という終着点が(記憶喪失にならない限り)想定できない。

 知る、ということは、物事を「知り始めて」からずっと継続する動作なのではないか。ある人物と知り合ったときから、私たちはその人物についての情報を学習し続ける。「某さんのことは知っていますよ」というとき、私たちは某さんのことについて知り始めていて知る途上にあることは間違いないが、決してすべてを「了解」して「知り終えている」わけではない。

子曰、「由、誨女知之乎。知之爲知之、不知爲不知、是知也。」

論語 為政第二]

 論語の中では、右のように「知らざるを知らず」となすことこそ「知」であるとする考えが述べられる。「何かを知る」という行為は、「それまで知らなかったこと」を認識する行為であり、それはすなわち「未知のなにものかが存在することを認める」というような行為でもあるだろう。日常生活においても、「学べば学ぶほど分からないことが増えていく」ということは多い。

 ではもし「不知を不知となす」ことができなければ、そのひとにとって「知」の運動は起こりえないのだろうか。何か新しい出来事が起こったとき、「こういうことが起こりうるのか」と感得してみずからの未知のものとして事態と向き合おうとするひとと、「何も目新しいことではない」と断じてみずからの既知のものとして事態を扱おうとするひとでは、どのような違いが出てくるだろうか。

 東日本大震災が起こった際、「想定外」という言葉が取り沙汰にされたことは、まだ記憶に新しい。この「想定外」という所感は、「不知を既知となしてしまったひと」の末路の好例ではないだろうか。「想定外」という言葉の言外に表れている「想定していないこと、未知のことに対処するのはあまりにも困難だ」という意図は、まさに未知のものを未知のものとして扱う知性を育んでこなかった者の発言のように思われる。

 これはもちろん、来る災害を想定しその備えをすること自体を批判しているわけではない。ただ、人間の想定には限界があり、いかなる場合においても万全な備えなどありえないということを留意しなければいけないはずだ。荘子にも次のように述べられている。

小知不及大知、小年不及大年。

荘子 逍遥遊]

  人知にも言語にも限界がある。そのことは事実として認めなければならない。しかし「想定外のことには対処できない」というような立場を取ってしまうことは、未知の出来事が起こってもそれに対して今までどおりの知の枠組みで対応しようとしてしまうことを意味する。それでは不十分なのではないか。不測の事態に際して意識せず既存の枠組みの中で物事を考えてしまう危険性については、『三国志』から見ることもできる。数字上の劣勢を覆して官渡の戦いにおいて袁紹に勝利した曹操は、次のように述べている。

公曰、「吾任天下之智力、以道御之、無所不可。」

三国志巻一 魏書一 武帝紀]

 ここでいう「天下の智力」こそ、曹操を激励した荀彧に代表されるような、既存の知の枠組みを刷新しながら新事態と向かい合う知性ではないか。未知の出来事が起こった際、「不知を不知となす」ことによって自らの知の枠組み自体を更新していかなければ、未知の出来事に対応することはできない。

 しかし、必ずしも「不知」を標榜していれば良いというわけではないのが、難しいところだ。

弼曰、「聖人體無、無又不可以訓、故言必及有。老荘未免於有、恆訓其所不足。」

世説新語 文学第四―08]

 王弼は、無を体得している聖人もそれを言葉にしてしまえば有になってしまう、と述べている。「無」という概念があまりにも漠然としているため解釈は容易でないが、「知」についても同じようなことがいえるのかもしれない。つまり、己の「不知」を明瞭に認識していることが望ましいが、だからといって「私は何も知らない」と嘯くのは知性でもなんでもないということだ。大切なのは自分の「知」に対する姿勢であって、「不知」であり続けることではない。

「不知を不知となす知」は、回転し続けるエンジンのように私たちの脳で稼働している。会話の中で「you know」と差し挟むとき、私たちは他者の「知」のエンジンが稼働していることを期待し、確認しているのではないか。終着点のない「知」の行為の中で、みずからの「知」のエンジンを回し続けることが「知」と向き合う学びに際して求められている。

 

二 漢文・中国古典を学ぶ意味

 高校の時分、漢文が好きだった私は、この科目があたかも無益な科目であるかのようにいわれるのが悔しかった。だから、私はこうした言説に反論するべく、理屈を考えた。それは以下のようなものだった。

「漢文とはただ単に中国古典を読む行為ではなく、中国古典を読解しようと試みた過去の日本人の思考の痕跡をたどる作業だ。白文に返り点を打ち、それを読んでいく作業は、日本人が中国の文献からあらゆるものを読み取り、みずからの文化に取り込んでいった歴史を再現する行為である。そうした形で中国古典と、そして日本人の思考の歴史をたどることは、きわめて特殊な意味合いがあり、漢文なしに日本文化の歴史を追うことはできない」

 現在においても、この主張は我ながらある程度の説得力を持っているように思うが、同時に一面的な解釈であるようにも感じられる。そこでいまいちど中国古典を学ぶことの意味というものと向き合ってみることとしたい。

天寒鳥已歸

月出山更靜

土空延白光

松門耿疏影

躋攀倦日短

語樂寄夜永

明燃林中薪

暗汲石底井

……

[杜詩詳注巻七「西枝村尋置草堂地夜宿贊公土室二首」其二]

天寒く鳥已に歸り/月出でて山更に靜かなり/土室 白光を延き/松門 疏影耿かなり/躋攀して日の短きに倦み/樂しきを語りて夜の永きに寄す/明らかに燃ゆ 林中の薪/暗きに汲む 石底の井 

 右の杜甫の詩は、「靜」と形容される情景を詩文によって表現しようとした試みだ。講義の中では、それそのものの性質上言語化することができない「靜」という概念について様々な検討がなされた*2。靜というのは、その静謐な空間で感覚を研ぎ澄ます自己がなければ成立せず、誰かに説明されて納得するようなものではないからだ。さて改めて見てみると、杜甫の詩はこの問題をしっかりクリアしているように思われる。五言詩の僅かな情報量だけでは、そこに描かれている情景をありありと描写することは難しい。必然的にそこには読み手の想像力が必要となる。そして読み手はそこに並んだ文字から風景・情況を想像し、見出していく。その行為は実際の景物を見るのとよく似た感覚器官のはたらきを要求しているように思われる。だからこそ、この漢詩文を読むという行為には必然的に感覚を研ぎ澄ます読み手の靜が成立している。

春眠不覺暁

処処聞啼鳥

夜来風雨声

花落知多少

[孟浩然「春暁」]

春眠暁を覺えず/処々に啼鳥を聞く/夜来風雨の声/花落つること知んぬ多少ぞ

  この詩は、科挙に合格せず惰眠を貪る作者の境遇と、それとは無関係に訪れる春の日夜を想起させる。起句で「暁を覺えず」と詠み、転句で「夜来風雨の声」と詠むところからは、夜遅くまで眠れず風雨の音に耳を傾け、しまいに朝まで寝過ごしてしまう作者の毎日が感じられる。そうした「自分の生活など気にも留めずに回っていく自然や世間」が切り取られている詩である、というのが私の印象だった。

 杜甫と孟浩然のこれらの詩を見ると、両者がともに言葉の余白、つまり語られていないことを詩歌の重要な要素として機能させていることに気付く。杜甫の詩に顕著に表れていた「読み手が感覚を研ぎ澄ます必然性」は、春暁の詩にも多少なりとも存在している。それは詠み込まれている景物のすぐそばに必ずあるはずの、しかし直接的に言及されない孟浩然自身の有様であり、その余白に思いを馳せたときこの詩はいっそうの深みを持つ。

何處秋風至

蕭蕭送雁群

朝來入庭樹

孤客最先聞

[劉禹錫「秋風引」]

何処よりか秋風の至る/蕭々として雁の群れを送る/朝来庭樹に入り/孤客最も先に聞く

山鳥飛絶

萬逕人踪滅

孤舟蓑笠翁

獨釣寒江雪

[増広註釈音弁唐柳先生集巻四十三「江雪」]

千山 鳥飛ぶこと絶え/万逕 人踪滅す/孤舟 蓑笠の翁/独り釣る 寒江の雪

 そうした視点を踏まえて、右の二詩も見てみたい。劉禹錫の詩は比較的明快に情景を説明しているが、「秋風」「雁」「庭樹」という風に視点が移動したあとで最後になって感受者である「孤客」が登場する。孤客は「最も先に聞」いたあとで、秋風の来歴を想像しているはずなのに、詩中の描写はそれとは逆に風の流れる順序に沿って進んでいく。この奇妙な食い違いが詠み手である劉禹錫と読み手である我々の一筋縄ではいかない関係を強烈に意識させる。そしてまた、同時に風に乗って進むような独特の視点移動を生み出していることも間違いない。手法の妙によって読み手に対し、余白部における重層的な読みを可能にしているという部分に注目したい。

 柳宗元の詩は起句、承句で人気のない情景が説明され、その中にひっそりといる蓑笠の翁と、その視線の先にあるであろう雪景色が描かれる。孤独な環境は丁寧に説明されているのに対し、その具体的情景については読み手に委ねられているようにも感じられる。

 

 結局のところ、中国古典を読むことの意味合いとは何か。日本語話者にとっては、中国古典こそ日本語文化の最重要のルーツであり、それをたどることで日本人の思考の歴史を追うことができるというのは先述した。しかし、それだけではない。日本も含めた世界各地であらゆる文学があるなか、あえて中国古典を読むことで感じられるのは、「親近感」かもしれないと思う。

 中国と日本は東アジアの中でも特に近い文字文化を共有している。そうした文化的な「親近感」の話でもある。そしてまた、ここまで見てきたように中国古典には書き手の言葉の余白を、読み手が補っていくような性質が色濃く表れている。これはつまり中国古典を前にしたときの読み手(特に漢文成立の事情とは一歩引いた視点に立つ日本の読み手)が、ただ受動的ではありえないということを意味する。これによって読み手はある程度能動的な関わり方で文章に接することになり、読み手は書き手と近い立場になっていくのではないか。中国古典の与えるもうひとつの「親近感」とは、遠い立場にあるはずの古の中国の書き手と、現代の日本の読み手の間に生まれる親近感だ。

*1:ブログタイトルも魏志倭人伝から取ってるんだし、たまには漢文の話をしてもいいでしょ

*2:そういう授業だったんです

オッドタクシーとHIPHOP

「オッドタクシー」は2021年春絶賛放送中のアニメだ。脚本・映像感覚・テンポなど様々な点で優れている作品であり、特に個人的にはミステリ的な興趣に心を惹かれるのだが、そうしたドラマ面での面白さについてはいつかどこか別の場所で話すとして、今回はHIPHOPの話をしたいと思う。

 なおこの記事ではマニアックな話をしていくけれども、「オッドタクシー」自体はなーんにも考えずに楽しめる最高のアニメなので、この記事がつまらなからといって愛想を尽かさないでほしい。本当に万人におすすめできる良いアニメです。

 


www.youtube.com

 

 さてこの「オッドタクシー」というアニメ。自分の身の回りではあまり話題になっていなくて、第六話放映時くらいまで名前すら知らなかったのだが、見るきっかけになったのが上の動画(My Name is - ヤノfeat.PUNPEE)だ。

 元々個人的にHIPHOPが好きだというのもあって、もちろんPUNPEEやSUMMITのこともなんとなく追いかけてはいたんだけれども、そんななかで唐突にこの動画が出てきたわけである。なんだこれは。聞いてみると「オッドタクシー」というアニメの登場人物であるヤノの作中曲的位置づけらしい。しかもPUNPEE本人がhookを歌ってる! さらに言えばヤノ役はプロのラッパーであるMETEORと来てる。

 そんなアニメがあるのか!

 さらに調べてみると「オッドタクシー」はあの「セトウツミ」で有名な漫画家・此元和津也が脚本をつとめるミステリーだという……なんという奇跡的なコラボレーション……アボガドと醤油みたいな海を越えたマリアージュ……いや海は越えてないが。

 で、このアニメのすごいところはPUNPEE、METEORをはじめとするHIPHOPアーティストが、単に楽曲提供というだけでなくがっつり製作に関わっていることである。そのあたりの細かいところは↓の記事に詳しい。

kai-you.net

 また↓の記事にはアニメ製作チームとHIPHOPサイドの協力体制の深さが書かれている。

【座談会】木下麦 × OMSB × PUNPEE × VaVa 『オッドタクシー』| アニメのサントラの作り方 - FNMNL (フェノメナル)

 ……という感じで、専門知識的なところは上の記事を読めばかなり良くまとまっているので、この記事では個人的に「すげー」と思ったところをまとめていこうと思う。

 

生のHIPHOP

 そもそも皆さん、ラップって聞きますか?

 HIPHOP≒ラップミュージックは米国では最も流行っている音楽ジャンルだと言われているし、日本でもかなり理解が進んでいる(現在進行系)と思うが、それにしてもやっぱり門外漢からすればよくわからない存在であるのは間違いない。特にアニメという媒体でHIPHOPを扱うことの難しさには、やはり「HIPHOPに対する無理解」という問題が巨大な壁としてそびえ立っている。

 そもそもカッコいいHIPHOP、イケてるHIPHOPというものを「体験」したことがないひとにとってはラップ自体がなんかギャグっぽく映ってしまうのはしょうがないことだと思っていて、実際ドラマとかアニメとかでラッパーが出てくるとそれだけでギャグになってしまうことは多い(皆さん思い当たることがたくさんあるでしょう)。


www.youtube.com

↑「ゾンビランドサガ」のラップバトルはかなりよく出来ていた部類だと思うけど、これを見てHIPHOPへの理解が深まったりするわけではないと思う。

 一方で、「ヒプノシスマイク」のように割とHIPHOP文化をよく理解した上でコンテンツとして組み上げてくる作品も出てきている*1。だがヒプマイはかなり独自色の強い世界観の作品であり、作中人物たちを取り巻く環境が現実のHIPHOPの状況とは大きく異なる。それがヒプマイの魅力でもあるのだが、同時に「ねじれ」でもあると思う。ヒプノシスマイクにおいては作品世界にHIPHOPをなじませるために、HIPHOPの尖った部分を少なからずマイルドに「変換」しているし、HIPHOP的な文脈を作中のストーリーに「翻訳」する処理がなされている。

 要するに、翻訳とか変換とかを挟まずに「生(き)」HIPHOPを摂取できるようなアニメが欲しかったのだ。

f:id:orangecosmos20:20210616135117p:plain

http://www.taikaisyu.com/27-03/28.html

 そこで出てきたのが「オッドタクシー」だったわけである。この作品ではなんといっても本物のHIPHOPアーティストが製作に噛んでいる。楽曲提供のみならずサントラに至るまで。しかもSUMMITやSIMI LABというHIPHOPの中でも特にアングラとサブカルを縦横無尽に行き来するユニット(レーベル)が関わっているというのが衝撃的だった。*2

 

HIPHOPとの距離感

  そしてもうひとつ感心させられたのはHIPHOPとの距離感だった。

 感覚的な話になってしまうが、これまでHIPHOPの絡むアニメ等では「ラップやってます!」感というか、HIPHOPやってます!」感が強すぎたのではないかと思う。特にメディアにおけるラップのイメージをダサくしているのが、いかにも「ラッパーでござい」みたいなファッションとかラップの仕方(フロウ)なのはもう明らかであって、そういうステレオタイプな演出に視聴者はもう飽き飽きしていたんじゃないだろうか。

 そこを行くと「オッドタクシー」のヤノは異色だ。なんていうか……ラッパーが演じているのにラッパーじゃない! もちろんヤノはHIPHOP文化に強い憧れやリスペクトを持っているキャラなのだが、本職はギャングスターであってラップはあくまで彼の「言語」にすぎない。

 ヤノは喋るとき必ず韻を踏みながら喋る、という癖がある。まぁ実際に文字起こしを見てみよう。

しつこいし長げーしうるせーよ着信音
こっちだって色々抱えてんだよサブミッション
ある依存症の薬キメて寝てぇけどコンテナ船
もううるせー
もうしませんもうしませんって
そろそろ名申しません? そんで誰

あぁおかよマネージャー a.k.a. 山本
ちょっとおせーじゃ ねーか
抱えてる案件ヤマ)もっと
たくさんあるんだろうけど
Time is money じゃあねーのかよマネージャー
早いとこ来ねーとあいつの二の
そうこの前言った倉庫の前

 ヤノの喋り方にはかなり癖がある。いわゆるオーソドックスなラップの仕方として一般的に想像されるのは偶数小節末で韻を踏むやつ*3だと思うが、ヤノの韻はかなり混線している。しかも韻を強調した喋り方をあまりしない上に、いわゆる子音踏み*4や語感踏み*5が極端に多いため、かなり玄人好みの韻だといえる。

 もうひとつ特徴的なのはヤノのフロウ(歌い方)で、これはかなり日常会話に近い抑揚でラップをしている。先述の「韻をあまり強調しない」というのもそうだが、ヤノはあくまで日常生活の中で言語としてラップを取り込んでいるので、音楽的な聞き心地を優先して歌謡っぽい発声をしたりはしない。演者であるMETEORのフロウが元々かなり独特というのもあるが、それだけでなくこれは演出的な要請ではないかと思う。ヤノの喋りはあくまでラップミュージックと日常会話の中間なのだ。

 ちなみに普段喋るのと同じようなテンションでラップするラッパーはそこそこいるのだが、代表的なのはやっぱり漢a.k.a.GAMIだと思う。特に漢さんは普段喋ってるだけでもなんかラップしてるみたいな風格があるし、実際フリースタイルラップをやってるひとは多かれ少なかれ日常会話の中にもフリースタイルを意識していると思うので、そういう意味でヤノがラップっぽい日常会話をするのはすごく「っぽいな」と思う。*6

 

 そしてこの「日常とラップの中間」というのが非常に重要だと思う。HIPHOPってライフスタイルだから、普通に日常生活の中に取り込まれているべきものなんだよ。「俺、ラップやってます……!」みたいなのがなんか違うのはそういうところで、「普通に生きていること自体がHIPHOP」みたいな、そういうのがよりHIPHOP的だと思う。*7

 で、ヤノは本当にそういう意味でHIPHOPなキャラで、もちろんアウトローとしてのかれの生き様みたいなのもそうだし、息を吸うようにラップのことを考えてそうなのもそうだし、何よりそれがひとつの個性として作品全体を通してみてもあまり「浮く」ことなく光っているのが素晴らしいと思う。

 ついでに言えば、ヤノを取り出してみるまでもなく、「オッドタクシー」のサントラはHIPHOPアーティストたちが作ったHIPHOPサウンドなわけで、そういう意味で視聴者は「いつの間にか」HIPHOPの世界に巻き込まれている。PUNPEEが手掛けるOP曲は当然ながら、三森すずこだってEDでラップ調の歌い方をしてるし、ミステリーキッスの楽曲を作ったのも(にわかには信じられないけど)バチバチHIPHOP出身のVaVaだし、そういう濃淡のあるHIPHOP表現へとシームレスに視聴者を誘導しているのがこの作品なのである。

「オッドタクシー」は視聴者とHIPHOPとの間にあったはずの距離感をいつの間にか「無化」している。気がつけばHIPHOPの中に自分がいる。そんな不思議な感覚をくれるのだ。

 

アウトロー文化

 あと忘れちゃいけないのは、さっきも書いた通り、ヤノがギャングスターで犯罪者であるということ。HIPHOPアウトロー文化は切っても切れない関係であり、この作品はしっかりそこも意識している。別にHIPHOPって不良だけの音楽ではないと思うんだけど、ただそういうイリーガルなものを無視しない、そういうのを直視していく、というような社会的な要素の含む音楽であることは間違いない。

 それこそPUNPEEやMETEORはぜんぜんギャングスタ・ラップのスタイルではないし、もっと明るい(?)作風のプレイヤーだが、でもそういうかれらが作り上げた作品が、しっかりギャングスタの文脈を押さえているというところが尊い

 それに、ヤノのみならず「オッドタクシー」には犯罪を計画したり加担させられたりする登場人物たちが多数登場する。この作品はデフォルメが効いてるけど、描いていることはけっこうシビアな社会そのものだ。そういう硬派なところもある作品だからこそ、HIPHOPを扱うのに相応しいと思う。

 HIPHOPのイリーガル性というのは、「法に抗うことのカッコよさ」みたいなのも多分あるのだが、でも別に不良礼賛とかそんな単純な話ではなくて、「ただそこにある現実」を綺麗事抜きに、あるがままに語ろうとする試みなのではないかと思っている。「オッドタクシー」の製作チームはおそらくそのことをちゃんと理解しているし、だからこそこういう作品が作れる。その意識の高さに感心させられるのである。

 

 おわりに

 最後に、これはちょっと単なる個人的な好きポイントなんだけど、ヤノが喋りだすときだけBGMにキック&スネアが入ってHIPHOP色が増すのがめちゃめちゃ好き。でもこれ視聴者だからビートが聞けるけど作中現実ではビートはないからヤノがずっとアカペラで喋ってるだけなんだよな……と思うとちょっとおもろい。METEORさんはこれを機に「ヤノEP」とか出してどんどんビッグになってほしいな……。

 というわけで絶賛放送中の「オッドタクシー」だが、第12話のサブタイはなんと「たりないふたり」だった。漫才とHIPHOPが好きなひとなら、この言葉の重みがわかるはずだ。まさにこの作品を象徴するような言葉でもある。

 本編も完結目前だ。しっかりと見届けたい。

 

*1:ヒプマイのことはめっちゃ好きです

*2:個人的に、SIMI LABのメンバーがアニメの製作に関わっているという事実は、漢a.k.a.GAMIがフリースタイルダンジョンに出演して以来のビッグニュースだと思う。

*3:俺がNo.1 HIPHOP dream、不可能を可能にした日本人、みたいなやつ

*4:同音異義語で踏むこと。「そうこの前」「倉庫の前」みたいなの

*5:完全に母音が揃っていなくても語感で踏むこと。「そう戦友だったよ昔はな」「ボスの前に咲く二人花」のように文頭と文末だけ韻になってるケースなどが多い

*6:あとフリースタイル(即興)だと韻が小節末とかに限らず思いついた順に発せられることも多くて、ヤノの喋り方はそういう点ですごくフリースタイルっぽい。

*7:ZORNじゃん