偽史邪神殿

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シルヴィア・モレノ=ガルシア『メキシカン・ゴシック』感想 / 混交するもの されるもの

 

 

 

 1950年のメキシコを舞台にしたゴシック・ホラー。うら若き令嬢ノエミ・ダボアダは、田舎に嫁いだ従姉妹からの助けを求める手紙に応じ、彼女の住むドイル家の屋敷に向かう。しかしそこにはおぞましい秘密があった。

 

 あまり大きな動きがないまま話が進んでいくので前半部はどう読んだら良いのかわからなかったけど、途中でペダンチズムや細部の五感の描写に着目して読むように心がけたら上手くハマった気がする。終盤はかなり色々起こるので、ゴシックというよりモダン・ホラーだけど、作者のやろうとしていることは一貫しているのでそれはそれで良い。

 本書においては優生学血統主義に囚われた悪しき者たちと、銀鉱山を中心に発達した街の歴史が絡み合っている。ノエミがドイル家の秘密に迫るにあたって、その全貌が次第に明らかになっていくのが見どころだろう。かなり細かい部分への説明も多いが、後の展開への布石として必要なことを的確に論じている印象があった。

 

 メキシカン・ゴシックという言葉の対義語はアメリカン・ゴシックだろう。アメリカン・ゴシックの意味するところは広汎だが、英語圏の読者がまっさきに思いつくのはグラント・ウッドの絵画だと思われる。この絵はピューリタン清教徒)の厳格さや、不動の開拓者精神を描いたものとして評価されている。*1

 アメリカン・ゴシックと比較したときのメキシカン・ゴシックの特徴はなんだろうか。まず宗教について、メキシコは宗主国スペインの影響を受けたカトリック(旧教)国家だ。作中でも、ノエミが修道女から教育を受けていることや、聖職者である伯父の影響を受けていることが言及されている*2。そしてもうひとつ、メキシコにおいて欠かせないのはアステカ文明の信仰である。中南米最大の文化的特徴は人種と文化の混交であるから、宗教に関してもカトリックと現地信仰の混交は当然ながら起きている。*3

 本書におけるドイル家はきわめて排他的だが、それでいて当主のハワード・ドイルは、利用できるものはなんでも利用してやろうとする貪欲さを兼ね備えている。かれの思想にはアステカの信仰が深く関わっているし、その優生学は単なる白人至上主義ではない。ドイル家はあまりにも狂っているのだが、そこにメキシコという風土の特異性が象徴されているということになるだろう。*4

 

 一点、わからなかったのはドイル家がイギリス系移民だというところ。このテーマでいくならドイル家は侵略者であり征服者でもあるスペイン人のほうが相応しいのではないかとも思える。とはいえ優生学の始祖とされるダーウィンやフランシス・ゴルトンはイギリス人だし、人種の混交というテーマを描くにしても、ピューリタニズムとの比較をやるにしてもイギリス系家族を描くのは適切なのかもしれない。

 ノエミは先住民の血を引いているが、カタリーナはフランス人の血を引いている。英仏はスペインとともに19世紀のメキシコ出兵に介入した国で、作者はそういう歴史的経緯をふまえて書いているようにも思った。

 

 以下、ネタバレ。

 

 

 本書のモチーフのひとつとしてヨモツヘグイがあることは、物語後半になってから明示される。

ペルセポネはザクロの種を数粒食べてしまい、これがハデスの支配する影の世界に彼女をつなぎとめることになった(P259)

 改めて振り返ってみると、本書では食事の場面がきわめて重要になっている。この後の展開で、フローレンスがノエミの食事に「毒」を混ぜていたことが発覚するが、物語序盤からその疑惑は示されている。

 ドイル家を訪れて最初の夕食の場面を見る。

ノエミはキノコをフォークで皿の脇によけながら(P41)

 ここは読み返していてけっこう驚いた部分だ。かなり直球でキノコの話が示されているし、ノエミは直感的に危険を回避している。しかし、同じ場面で次の描写もある。

注がれたワインはどす黒い色をしていて、妙に甘ったるく、好みの味ではなかった。(P41)

 極端に甘いワインというのは本書で何度か出てくるモチーフであり、これがキノコのせいなのはもはや言うまでもない。ノエミはいちおう本能的に危険を察知しつつも、完全にはそれを回避できずにいる。ヨモツヘグイで言うなら、この時点で冥界の柘榴を食べさせられていて、後戻りができなくなっているということだ。

 もうひとつ驚いたのは次の場面。ドイル家に来て二日目の朝だ。

ここの紅茶には、それとわからぬ程度だが間違いなく、フルーツの風味がつけられていた。(P53)

 レモンティーとかだったら誰でも一発でわかるはずなので、なんらかの変わったフレーバーティーだったのだろうと初読時はてきとうに読み流していたが、その後、こういう描写が来る。

「アンズタケ。すごくうまいんだ。(略)地元の人たちはドゥラスニーリョ(桃)って呼んでいる。においを嗅いでごらん」

(略)「甘い香りがするわ」(P135)

 実際に紅茶に入っていたのがアンズタケなのかもっとやばい何かなのかはわからないが、ここはある種の匂わせに読める。フルーツの香りを持つキノコが存在していて、(有害性は置いとくとしても)それをノエミは知らず知らずに飲まされているかもしれないというわけだ。*5

 その後も、ノエミは夕食の場面であまり食事に手を付けなかったりだとか、煙草を吸いまくったりだとかして、ドイル家の食事をできるだけ口にせずに済むような振る舞いをしているものの、本人はキノコが危ないということに気づいていないしドイル家も巧妙なので結局回避することはできていない。そういう「ドイル家vsノエミの直感的な危機回避」の水面下の攻防が本書のもうひとつの見せ場かもしれない。

 

 あと、ノエミとルースの関係もきわめて神話的な(というより聖書的な)モチーフとして描かれているらしい。ノエミ(ナオミ)とルース(ルツ)は旧約聖書のルツ記の登場人物で、ナオミが姑、ルツが嫁という関係にあたる。

 正直、旧約聖書にはあまり詳しくないのだが、ルツ記で描かれているのはユダヤ人の血の継承の逸話だ。そもそも創世記から始まって聖書は家系図的な繋がりを重視する物語であり、ルツ記もその例に漏れない。ルツ記の物語が『メキシカン・ゴシック』と表裏をなす……というのは言い過ぎにしても、ドイル家の狂気の原点が、そうした子孫繁栄の寓話にあるということはできそうだ。

 この話の肝はもうひとつあって、ルツがユダヤイスラエル)人ではなくモアブ人だということだ。モアブ人は独自の信仰を持っている。そしてモアブの国王メシャは自分の息子を生贄に捧げたという逸話で知られている。そんなモアブの出身であるルツがユダヤ人であるナオミとともにユダヤの世界観で生きていくことを選ぶルツ記の物語は、やはり本書と深い繋がりがあるといえる。

 

 ところでノエミとフランシスの関係についてはどう考えてもうまくいく気がしない。だってフランシスの出自が特殊すぎるでしょ。まあ本人たちが良いならそれでいいけど。

 

 

 

*1:ところで、この絵が一見して夫婦を描いているようでありながら、実のところ父娘の肖像として描かれている、という逸話もどこか示唆的だ。本書もまた父娘(ノエミとその父)の会話から始まり、最後にはそれと対極的な父娘(ルースとハワード)にもつれ込むのだから。

*2:P122

*3:もちろんアメリカ人も先住民信仰の影響を受けているが、メキシコのそれとは違う。アメリカン・ゴシック(的思想)はあくまでピューリタンのものなのだ。

*4:逆にアメリカン・ゴシック(文学)がきわめて強い白人至上主義に裏打ちされていることについては、巽孝之の指摘を見るとよくわかる。推薦文・アメリカン・ゴシック1

*5:というわけで、この感想の題につけた「混交するもの」というのは人種・血統のことで、「混交されるもの」というのは飲み物に混ぜられたもののことです。もちろん、作中でも示されている通り、ワインは聖体拝領の際に聖餅とともに使われる「キリストの血」なのでこのあたりのモチーフは一貫している。なお、P347で「聖餐式」という訳語が出てくるけど、ノエミはカトリック信徒なので「聖体拝領」ないし「ミサ」が相応しいように思う。原文ではsacramentだろうか。