オッドタクシーとHIPHOP

「オッドタクシー」は2021年春絶賛放送中のアニメだ。脚本・映像感覚・テンポなど様々な点で優れている作品であり、特に個人的にはミステリ的な興趣に心を惹かれるのだが、そうしたドラマ面での面白さについてはいつかどこか別の場所で話すとして、今回はHIPHOPの話をしたいと思う。

 なおこの記事ではマニアックな話をしていくけれども、「オッドタクシー」自体はなーんにも考えずに楽しめる最高のアニメなので、この記事がつまらなからといって愛想を尽かさないでほしい。本当に万人におすすめできる良いアニメです。

 


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 さてこの「オッドタクシー」というアニメ。自分の身の回りではあまり話題になっていなくて、第六話放映時くらいまで名前すら知らなかったのだが、見るきっかけになったのが上の動画(My Name is - ヤノfeat.PUNPEE)だ。

 元々個人的にHIPHOPが好きだというのもあって、もちろんPUNPEEやSUMMITのこともなんとなく追いかけてはいたんだけれども、そんななかで唐突にこの動画が出てきたわけである。なんだこれは。聞いてみると「オッドタクシー」というアニメの登場人物であるヤノの作中曲的位置づけらしい。しかもPUNPEE本人がhookを歌ってる! さらに言えばヤノ役はプロのラッパーであるMETEORと来てる。

 そんなアニメがあるのか!

 さらに調べてみると「オッドタクシー」はあの「セトウツミ」で有名な漫画家・此元和津也が脚本をつとめるミステリーだという……なんという奇跡的なコラボレーション……アボガドと醤油みたいな海を越えたマリアージュ……いや海は越えてないが。

 で、このアニメのすごいところはPUNPEE、METEORをはじめとするHIPHOPアーティストが、単に楽曲提供というだけでなくがっつり製作に関わっていることである。そのあたりの細かいところは↓の記事に詳しい。

kai-you.net

 また↓の記事にはアニメ製作チームとHIPHOPサイドの協力体制の深さが書かれている。

【座談会】木下麦 × OMSB × PUNPEE × VaVa 『オッドタクシー』| アニメのサントラの作り方 - FNMNL (フェノメナル)

 ……という感じで、専門知識的なところは上の記事を読めばかなり良くまとまっているので、この記事では個人的に「すげー」と思ったところをまとめていこうと思う。

 

生のHIPHOP

 そもそも皆さん、ラップって聞きますか?

 HIPHOP≒ラップミュージックは米国では最も流行っている音楽ジャンルだと言われているし、日本でもかなり理解が進んでいる(現在進行系)と思うが、それにしてもやっぱり門外漢からすればよくわからない存在であるのは間違いない。特にアニメという媒体でHIPHOPを扱うことの難しさには、やはり「HIPHOPに対する無理解」という問題が巨大な壁としてそびえ立っている。

 そもそもカッコいいHIPHOP、イケてるHIPHOPというものを「体験」したことがないひとにとってはラップ自体がなんかギャグっぽく映ってしまうのはしょうがないことだと思っていて、実際ドラマとかアニメとかでラッパーが出てくるとそれだけでギャグになってしまうことは多い(皆さん思い当たることがたくさんあるでしょう)。


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↑「ゾンビランドサガ」のラップバトルはかなりよく出来ていた部類だと思うけど、これを見てHIPHOPへの理解が深まったりするわけではないと思う。

 一方で、「ヒプノシスマイク」のように割とHIPHOP文化をよく理解した上でコンテンツとして組み上げてくる作品も出てきている*1。だがヒプマイはかなり独自色の強い世界観の作品であり、作中人物たちを取り巻く環境が現実のHIPHOPの状況とは大きく異なる。それがヒプマイの魅力でもあるのだが、同時に「ねじれ」でもあると思う。ヒプノシスマイクにおいては作品世界にHIPHOPをなじませるために、HIPHOPの尖った部分を少なからずマイルドに「変換」しているし、HIPHOP的な文脈を作中のストーリーに「翻訳」する処理がなされている。

 要するに、翻訳とか変換とかを挟まずに「生(き)」HIPHOPを摂取できるようなアニメが欲しかったのだ。

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http://www.taikaisyu.com/27-03/28.html

 そこで出てきたのが「オッドタクシー」だったわけである。この作品ではなんといっても本物のHIPHOPアーティストが製作に噛んでいる。楽曲提供のみならずサントラに至るまで。しかもSUMMITやSIMI LABというHIPHOPの中でも特にアングラとサブカルを縦横無尽に行き来するユニット(レーベル)が関わっているというのが衝撃的だった。*2

 

HIPHOPとの距離感

  そしてもうひとつ感心させられたのはHIPHOPとの距離感だった。

 感覚的な話になってしまうが、これまでHIPHOPの絡むアニメ等では「ラップやってます!」感というか、HIPHOPやってます!」感が強すぎたのではないかと思う。特にメディアにおけるラップのイメージをダサくしているのが、いかにも「ラッパーでござい」みたいなファッションとかラップの仕方(フロウ)なのはもう明らかであって、そういうステレオタイプな演出に視聴者はもう飽き飽きしていたんじゃないだろうか。

 そこを行くと「オッドタクシー」のヤノは異色だ。なんていうか……ラッパーが演じているのにラッパーじゃない! もちろんヤノはHIPHOP文化に強い憧れやリスペクトを持っているキャラなのだが、本職はギャングスターであってラップはあくまで彼の「言語」にすぎない。

 ヤノは喋るとき必ず韻を踏みながら喋る、という癖がある。まぁ実際に文字起こしを見てみよう。

しつこいし長げーしうるせーよ着信音
こっちだって色々抱えてんだよサブミッション
ある依存症の薬キメて寝てぇけどコンテナ船
もううるせー
もうしませんもうしませんって
そろそろ名申しません? そんで誰

あぁおかよマネージャー a.k.a. 山本
ちょっとおせーじゃ ねーか
抱えてる案件ヤマ)もっと
たくさんあるんだろうけど
Time is money じゃあねーのかよマネージャー
早いとこ来ねーとあいつの二の
そうこの前言った倉庫の前

 ヤノの喋り方にはかなり癖がある。いわゆるオーソドックスなラップの仕方として一般的に想像されるのは偶数小節末で韻を踏むやつ*3だと思うが、ヤノの韻はかなり混線している。しかも韻を強調した喋り方をあまりしない上に、いわゆる子音踏み*4や語感踏み*5が極端に多いため、かなり玄人好みの韻だといえる。

 もうひとつ特徴的なのはヤノのフロウ(歌い方)で、これはかなり日常会話に近い抑揚でラップをしている。先述の「韻をあまり強調しない」というのもそうだが、ヤノはあくまで日常生活の中で言語としてラップを取り込んでいるので、音楽的な聞き心地を優先して歌謡っぽい発声をしたりはしない。演者であるMETEORのフロウが元々かなり独特というのもあるが、それだけでなくこれは演出的な要請ではないかと思う。ヤノの喋りはあくまでラップミュージックと日常会話の中間なのだ。

 ちなみに普段喋るのと同じようなテンションでラップするラッパーはそこそこいるのだが、代表的なのはやっぱり漢a.k.a.GAMIだと思う。特に漢さんは普段喋ってるだけでもなんかラップしてるみたいな風格があるし、実際フリースタイルラップをやってるひとは多かれ少なかれ日常会話の中にもフリースタイルを意識していると思うので、そういう意味でヤノがラップっぽい日常会話をするのはすごく「っぽいな」と思う。*6

 

 そしてこの「日常とラップの中間」というのが非常に重要だと思う。HIPHOPってライフスタイルだから、普通に日常生活の中に取り込まれているべきものなんだよ。「俺、ラップやってます……!」みたいなのがなんか違うのはそういうところで、「普通に生きていること自体がHIPHOP」みたいな、そういうのがよりHIPHOP的だと思う。*7

 で、ヤノは本当にそういう意味でHIPHOPなキャラで、もちろんアウトローとしてのかれの生き様みたいなのもそうだし、息を吸うようにラップのことを考えてそうなのもそうだし、何よりそれがひとつの個性として作品全体を通してみてもあまり「浮く」ことなく光っているのが素晴らしいと思う。

 ついでに言えば、ヤノを取り出してみるまでもなく、「オッドタクシー」のサントラはHIPHOPアーティストたちが作ったHIPHOPサウンドなわけで、そういう意味で視聴者は「いつの間にか」HIPHOPの世界に巻き込まれている。PUNPEEが手掛けるOP曲は当然ながら、三森すずこだってEDでラップ調の歌い方をしてるし、ミステリーキッスの楽曲を作ったのも(にわかには信じられないけど)バチバチHIPHOP出身のVaVaだし、そういう濃淡のあるHIPHOP表現へとシームレスに視聴者を誘導しているのがこの作品なのである。

「オッドタクシー」は視聴者とHIPHOPとの間にあったはずの距離感をいつの間にか「無化」している。気がつけばHIPHOPの中に自分がいる。そんな不思議な感覚をくれるのだ。

 

アウトロー文化

 あと忘れちゃいけないのは、さっきも書いた通り、ヤノがギャングスターで犯罪者であるということ。HIPHOPアウトロー文化は切っても切れない関係であり、この作品はしっかりそこも意識している。別にHIPHOPって不良だけの音楽ではないと思うんだけど、ただそういうイリーガルなものを無視しない、そういうのを直視していく、というような社会的な要素の含む音楽であることは間違いない。

 それこそPUNPEEやMETEORはぜんぜんギャングスタ・ラップのスタイルではないし、もっと明るい(?)作風のプレイヤーだが、でもそういうかれらが作り上げた作品が、しっかりギャングスタの文脈を押さえているというところが尊い

 それに、ヤノのみならず「オッドタクシー」には犯罪を計画したり加担させられたりする登場人物たちが多数登場する。この作品はデフォルメが効いてるけど、描いていることはけっこうシビアな社会そのものだ。そういう硬派なところもある作品だからこそ、HIPHOPを扱うのに相応しいと思う。

 HIPHOPのイリーガル性というのは、「法に抗うことのカッコよさ」みたいなのも多分あるのだが、でも別に不良礼賛とかそんな単純な話ではなくて、「ただそこにある現実」を綺麗事抜きに、あるがままに語ろうとする試みなのではないかと思っている。「オッドタクシー」の製作チームはおそらくそのことをちゃんと理解しているし、だからこそこういう作品が作れる。その意識の高さに感心させられるのである。

 

 おわりに

 最後に、これはちょっと単なる個人的な好きポイントなんだけど、ヤノが喋りだすときだけBGMにキック&スネアが入ってHIPHOP色が増すのがめちゃめちゃ好き。でもこれ視聴者だからビートが聞けるけど作中現実ではビートはないからヤノがずっとアカペラで喋ってるだけなんだよな……と思うとちょっとおもろい。METEORさんはこれを機に「ヤノEP」とか出してどんどんビッグになってほしいな……。

 というわけで絶賛放送中の「オッドタクシー」だが、第12話のサブタイはなんと「たりないふたり」だった。漫才とHIPHOPが好きなひとなら、この言葉の重みがわかるはずだ。まさにこの作品を象徴するような言葉でもある。

 本編も完結目前だ。しっかりと見届けたい。

 

*1:ヒプマイのことはめっちゃ好きです

*2:個人的に、SIMI LABのメンバーがアニメの製作に関わっているという事実は、漢a.k.a.GAMIがフリースタイルダンジョンに出演して以来のビッグニュースだと思う。

*3:俺がNo.1 HIPHOP dream、不可能を可能にした日本人、みたいなやつ

*4:同音異義語で踏むこと。「そうこの前」「倉庫の前」みたいなの

*5:完全に母音が揃っていなくても語感で踏むこと。「そう戦友だったよ昔はな」「ボスの前に咲く二人花」のように文頭と文末だけ韻になってるケースなどが多い

*6:あとフリースタイル(即興)だと韻が小節末とかに限らず思いついた順に発せられることも多くて、ヤノの喋り方はそういう点ですごくフリースタイルっぽい。

*7:ZORNじゃん

『文学少女対数学少女』を読んでなぜ鳥肌が立ったのか〈感想〉

 

文学少女対数学少女 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
 
「気持ちを証明するにはどうしたらいい?」
「さあね。それには昔からみんな悩んできたんだ」
 ──桐野夏生「独りにしないで」

  

 陸秋槎の推理小説文学少女対数学少女』を読んだ。鳥肌が立った。

 それはなぜなのか。

 以下、感想をつらつらと書いていく。

 まず本書におけるミステリ的技巧について概略した上で、それが具体的にどのような形で実行されているかを確認し、さらには作者が仕掛けたトリックがいかにして炸裂したのか、そしてその意味するところはなんなのかを本文の記述を拾いつつ実践的に観察していく。

 なお、作中のトリック・オチについて触れる箇所があるので、未読の方には基本的におすすめしない。

  また、本書には作者と同姓同名異性の「陸秋槎」が登場するが、区別のため、以下では作者の方を「作者」登場人物の方を「語り手」と呼称する。

 

1. エラリー・クイーン 対 陸秋槎  (EQ問題について)

 まず本書を語る上でぜったいに避けては通れない話題がある。

 犯人当て、そしてフェアプレイの問題だ。

 ここで取り沙汰されるのはいわゆる後期クイーン的問題というやつだが、この単語を出すと時と場合によっては命の危険が生ずる*1

 作者もそのことについてはおそらく自覚的であったはずで、事実として本書では「後期クイーン的問題」という語を正面から直接扱うことを巧妙に回避している*2

 しかしながら、本書を考える上で、この問題から目を背けることもまた不誠実だ。そこで、語を明確にするためここで一度再定義を行いたい。以下では推理小説において真相を推理するのに必要十分な情報が与えられたことが断言できるかどうか」という問題を、仮に「EQ問題」と呼称することにする。

 EQ問題が具体的に表面化するのはたとえばこんなときだ。(※この段落はややこしいので読み飛ばしても良い)。ある事件が発生して、探偵が手がかりを集める。Aという手がかりの集合から合理的に推理を展開した場合、A’という真相が明らかになるとする。しかしここで新たにBという手がかりが発見されたとき、このBがA’と矛盾するB’という真相を導いてしまう危険がある。このことを考え始めると、A’を否定しかねないB1とかB2といった手がかりの「不存在」を証明しないかぎりA’は証明できないということになってしまう。つまりこれは要するに「悪魔の証明」になってしまう。

 要するにA’の完全な証明が、すなわち悪魔の証明となってしまうときにEQ問題は発生する

 現実の犯罪事件でもEQ問題は生じうる。たとえば殺人事件が起きたとして、現場から容疑者Xの髪の毛が発見されたとする。Xは被害者に常々恨みを抱いており、事件当時はアリバイがなく、その上現場近くで目撃されていた。さらにXの自宅からは凶器のナイフが発見された。こんなときXは限りなくクロだが、しかしX=真犯人であることを否定する証拠Bが存在しないことを証明することはできない。

 でも、だからといってXを犯人として立件できないことはない。実際の犯罪捜査の現場においては、たとえXが犯人ではないという抽象的な可能性(つまり証拠Bが存在する可能性)があったとしても、Xが犯人であることについて「合理的な疑いを差し挟む余地」がなければ有罪の立証ができるのである。*3

 これは実務におけるEQ問題解決の一手法といえる。だから現実の世界ではEQ問題は生じるが、実際にそれによって誰かが困ることはほとんどないと云って良い。

 

 ではフィクションの世界(特に本格ミステリ)ではどうか。

 まぁその話を詳しくし始めると長くなるのである程度かっ飛ばすとして、ここで扱うべきは本格ミステリの中でもいわゆる「犯人当て」というものである。問題編の文章を読んで、さぁ犯人は誰ですか?と読者に当てさせるものだ。これらの作品にはたいていの場合は「読者への挑戦状」が挿入されている。

 結論から云うと、犯人当て小説においてEQ問題は発生しない。なぜか? 作者が明確に答えを設定して書いているのだから、そもそもEQ問題は生じないのである

 ……とか適当なことを云うとクイーン問題と真剣に向き合っている怖い大人たちに絞め殺されてしまう危険性があるが、少なくとも『文学少女対数学少女』はそのような問題意識に立脚して書かれていることは間違いないと思う。

 犯人当てというのは、なぞなぞとかクイズの亜種だ。たとえば「パンはパンでも食べられないパンはな〜んだ?」と聞いたとき、その答えがパンダなのかフライパンなのかはさておき「腐ったパン」みたいなつまらない答えはそもそも設問者から期待されていない可能性が高い。この場合、回答者に求められているのは「設問者の思い描く解答が出せるか」という点であり、問題に対して論理的に正しい答えを出すこととは必ずしもイコールではない。

 だから犯人当て小説においても作者の期待する答えを出せるかどうかが問題であって、その小説から論理的に導き出せる答えが作者の期待するそれとズレていた場合は、たとえその論理的推理に瑕疵がなかったとしてもあまり好ましいとは云えないのである。云い換えると、犯人当てに関しては「作者の想定した解答として合理的な疑いを差し挟む余地のない回答」を出すことがゴールであり、そこにEQ問題が生ずる余地は本来ないはずだ。

 以上のような意味で、本書は作中作(犯人当て)を使うことによってEQ問題を回避している。

 

 ここで、作者・陸秋槎がこれまでEQ問題とどのように向き合ってきたのかを簡潔に振り返っておきたい。以下、ネタバレはないが、作品テーマに触れているので神経質な方は注意。

 デビュー長編『元年春之祭』においては、二度の「読者への挑戦」が挿入されていた。ただ、率直に云えばこの読者への挑戦は歪なものだったと云わざるをえない。漢代の中国を舞台にしたこの小説において、読者への挑戦で突如として現代人の作者が読者の眼の前に登場し、ミステリーの作劇の苦労を語り出すのはいかにも不自然である*4。本書において読者への挑戦は一定程度の演出上の効果があった一方、作品の虚構性を強調するという好ましくない効果をも齎していた。

 二作目『雪が白いとき、かつそのときに限り』においては物語の結末において、作者と同姓同名の陸秋槎が突如登場し、物語を総括するという構成が取られていた。いちおうこの点については物語的必然性・必要性があったのだが、やはり『元年春』にも見られた作者の介入による「説話っぽさ」「作話っぽさ」を感じずにはいられない。

 さらに三作目『桜草忌』(本邦未訳)において、作者は本格ミステリたることを半ば放棄する。この物語は少女の自殺を発端に進んでいくのだが、物語の中核をなす自殺事件の真相について、非常に強引な真相開示方法が採られている。作者は「ホワイダニットをいかにフェアに演出するか」という点について『元年春』以来、様々な趣向を試みているが、『桜草忌』の解決方法はある意味で本格ミステリの外に解決法を見出すものだといえる。

 そして四作目が本書『文学少女対数学少女』となる。ここにおいて作者は、これまでの作品で課題となっていた「作者の極度の介入によって強引に本格ミステリを成立させる」という点を、メタミステリの構造を持ち込むことによって回避する。

 ポイントは本格ミステリとしてのジャンルを保ちつつフェアプレイについてのEQ問題を回避した点にある。

 なおホワイダニットとフェアプレイの関係については、後述の通り本書の根幹に関わる問題でもある。ひとまず頭の片隅に留めておいて欲しい。

 

2. 犯人当て 対 数学少女 (数学とミステリについて)

 ……という感じで本書で描かれている犯人当てとEQ問題との関係は、数学の知識などいっさい無視してもこのように理解することができる。では本書の中での数学の知識は単なる虚仮威し/ページを埋めるための模様/不必要な論理なのかといえばそんなことはないはずだ

 

 皆さんも幼いころは砂場で遊んだことがあるはずだ。本書は譬えるなら「犯人当て」という砂山に対し、二人の少女が数学の側とミステリの側の両方から掘り込んでいって真ん中で握手するような構造を採っている。

 特に本書を手に取る読者は「ミステリマニア」的なひとがマジョリティだろうから、ちょっと注意の必要なところではあるが、本書は語り手が数学の知識を知る物語であると同時に、数学マニアがミステリと出会う物語でもある。その点が象徴されているのが「フェルマー最後の事件」だ。

 ここで韓采盧は語り手にフェルマーの最終定理を説明するために、あえて語り手にとって馴染みの深い犯人当て小説を比喩的に使用している。面白いのは、韓采盧が犯人当ての解法として設定された「色覚」のネタが、ミステリマニアである語り手にとってはある種タブー的なトリックであったという点*5

 韓采盧は「大して推理小説を読んでない」(p.123)のだから、彼女がこのトリックを使うことになんの躊躇いもなかったのは当然なのだが、ここで韓采盧と語り手の犯人当てに対する美意識の差が顕著に表れているのが面白い。

 つまるところ「フェルマー最後の事件」の作中作は本格ミステリとしては成立していない。探偵役と読者を同じ条件に置き、同じだけの情報から結論を導けるように作成するのが本格ミステリの基本であるところ、ここではフェルマーと読者はまったく別の方向から事件に切り込むことになる。清涼院流水の『コズミック』の終盤においても、様々な特殊能力を持つ「探偵」たちがそれぞれの能力によってまったく別の道筋から事件の真相に辿り着くという場面があるが、これはもはや本格ミステリの趣向というレベルから乖離しているのだ。*6

 しかしながら、たとえ本格謎解きの観点から「禁じ手」と見えるものであっても、「犯人当て」という記述形態自体は本格のルールから離れて成立しうるものであって、その可能性を追求することにも面白さはあるのではないか。韓采盧は非ミステリ者の立場から犯人当て小説に取り組むことで、その可能性を無邪気に提示してくれる。

 そしてそれは、ミステリ者である語り手、あるいは読者に対して投げかけられた問題提起でもある。このことが後述の内容に深く関わってくるので、注意して欲しい。

 

3. 文学少女文学少女 (文学少女について)

 本書を読んだ読者の大部分が感じるであろう疑問について指摘したい。

この語り手は本当に『文学少女』なのか?

 という点だ。

 少なくとも、語り手は天野遠子的な意味での「文学少女」ではない。*7。なんなら文学的な教養に関しては韓采盧の方が上に見える部分もある。*8

 語り手はミステリ小説を愛し、自らも小説を書くことを愉しみとしているが、せいぜい「推理少女」とか「ミステリ少女」というのが正しく、「文学少女」というにはいかにも相応しくない。

 一説には、タイトルに書かれている「文学少女」は語り手ではなく、陳姝琳のことではないかという指摘もある*9。「グランディ級数」の展開を見れば、なるほど、この指摘は一定程度の合理性があると思う。ただ、ここで自分としてはもうひとつの解釈を書いておきたい。

 作者・陸秋槎が評価する日本のミステリ小説の中に、木々高太郎の「文学少女という短編がある*10。以下、この作品について、結末に直接触れることはしないがざっくりとしたあらすじを見ていく。

文学少女」は1936年に発表された作品だ。主人公の少女ミヤが文学に惚れ込み、家父長制の逆風の中で文学を志し、藻掻き苦しむ様を描いた悲劇である。精神科医・大心池(おおころち)が登場する連作のひとつだが、ミステリーというよりも女性の一代記としての側面が強い。

文学少女」にて描かれているのは、文学に対する無理解への嘆きと、そして自身の言葉が読者へと伝わり評価されることの喜びである。ミヤを取り巻く人間たちは、その大半が彼女の文学熱、創作愛を理解していない。無論、女性の立場が弱かった時代が背景にあるし、そもそも芸術家は常に周囲からの無理解と戦わざるを得ない。

 そんな彼女の才能を理解できたのが、医者である大心池と小説家である丸山莠である。大心池はこの作品における「探偵役」に近い存在であり、また丸山は「莠」という名前が表す通り善性と悪性の入り混じるキャラクターとして描かれている*11。このふたりの対照的な「理解者」との関係が物語の鍵を握る。

 この短編の白眉は終盤の怒涛の展開とともに語られる創作論についての激白である。そして『文学少女対数学少女』に引き継がれている問題意識もやはりこの点にあるのではないだろうか。物語の末尾において文学少女・ミヤはこう語る。

文学に懊(なや)んだものは、それを見出してくれた人に、生涯の一番の感謝を捧げる

 これこそ「文学少女」におけるもっとも切実な叫びである。思い出して欲しい。『文学少女対数学少女』における語り手の立場も、程度の差こそあるものの、やはりミヤと重なるのである。「連続体仮説」において犯人当ての瑕疵を指摘された語り手は「私の脳内に存在していた伽藍たちも、こうして音を立てて崩れた」(p.75)というほどのショックを受けている。

 しかしながら韓采盧はただ語り手の創作の瑕疵をあげつらったわけではなかった。韓采盧はミステリの読者ではなく、あくまで数学徒だ。韓采盧にとって「犯人当て」の評価基準は「ミステリとして優れているかどうか」ではない「数学的な示唆が感じられる」かどうかであるはずだ。だからこそ、韓采盧は「連続体仮説」のラストで「君がそう言ったとき、かつそのときに限り」犯人当ての唯一完全な解が成立することを語り手に伝える。

 韓采盧のこの言葉に対する直後の語り手の反応は記述されていない。だが、その後もふたりの関係が続いていることを考えれば、おそらく語り手は韓采盧に励まされたはずである。何より、数学を愛する韓采盧にとって語り手の書く「犯人当て」はそれなりに面白いものであったはずだし、語り手はそうした韓采盧の素直な反応を間近に見ていたのである。

 語り手は、ミヤが大心池に感じたような「生涯の一番の感謝」を韓采盧に抱いたのではないか。

 

4. 文学少女 対 数学少女  (陸秋槎と韓采盧について)

 さて。正直ここまでの話は前座である。あくまで本題の前提に過ぎない。

 本書で一番ヤバい短編はどれかといったら、それは間違いなく「グランディ級数」だ。

「グランディ級数」において語り手が書いた小説は、「明確な単独解を持たない犯人当て」であった。語り手はフェアプレイを徹底することを諦め、「より面白い答えを正答とする」という独自ルールを導入する。ここにおいて、語り手は本格ミステリとしての厳密さを放棄し、自らが行うべき労力をさぼるために気軽な手法を選んだかのように見える。

 しかし、本当にそうなのか?

 この短編においては、語り手が犯人当てを制作している最中の苦悩が描かれている(pp.266-267)。そしてその途中、良いアイデアが思いつきそうになった瞬間に韓采盧からの電話が掛かってくる。この場面に注目したい。語り手は韓采盧が電話をかけてきてくる前の時点で、犯人当ての冒頭のシーンを死体発見の場面にすることや、犯人当てに複数解を設けることを思いついている。しかしこの段階では犯人当ての全貌を思いついたわけではないし、犯人当ては未完成だったはずだ。

 語り手は、韓采盧から電話がかかってきた後に、この犯人当てを完成させているのである。

 この時系列は些末なようでいて非常に重要だ。なぜならば、この事実によって、語り手は韓采盧を犯人当て読書会に連れて行く前提で犯人当てを作成できたのであるから。

 このことから、ひとつの仮説が導ける。

「語り手は、最初から韓采盧の推理した結末を最適解とするつもりだったのではないか?」

 さて作中作に登場する「山眠荘」の見取り図を見て欲しい(p.245)。

 読者は「ぜったいに」この形に見覚えがあるはずだ。

 そう。「フェルマー最後の事件」の見取り図である(p.103)。

 いやいや。どっちも左右に三室ずつ部屋が並んでいるだけじゃん、と思うかもしれない。だが横に並んだ三部屋ずつの行き来がロジックに組み込まれていること、および、一方の列が三室すべて埋まっているにもかかわらず、もう一方の列は両端が空き部屋となっているという構造の一致を無視することができるだろうか。

 もっとも、ここまでであれば偶然の一致といえるかもしれない。だが「グランディ級数」の現実パートをよく読んで欲しい。喫茶店「小宇宙」における登場人物たちの席順が執拗なほどに正確に記述されていることに気付くはずだ。

 そしてこの席配置もまた、3×2の六人の配置なのである*12。作者は明らかに自覚的にこの配置を行っている。*13

 ここまで執念深く同じ構造を繰り返すのはなぜか。ここでひとつの仮説を提出したい。これらの奇妙な一致は、「山眠荘」の事件が「フェルマー最後の事件」での韓采盧の犯人当てに対するアンサーであることを暗示しているのではないか。さらにいえば、「山眠荘」は「韓采盧のための事件」なのではないか*14

連続体仮説」において韓采盧から作劇の瑕疵を指摘された語り手は、大きなショックを受けていた。しかし、物語が進むに連れて韓采盧と語り手の関係は変化している。先述の通り、語り手は韓采盧に「生涯の一番の感謝」の念すら持っていた節がある。

「グランディ級数」に至り、語り手は韓采盧を探偵役として接待するため」にこの犯人当てを書いたのではないか。そうだとすれば連続体仮説」と「グランディ級数」では語り手が犯人当てを創作した「理由」が見事に対になるのである。

 本書において韓采盧は李懐朴を犯人として指名する推理を行っている。だがもし別の犯人を指名したとしても、陸秋槎は韓采盧の推理がいちばん「面白かった」として褒め称えるつもりだったのではないか?*15

 この点について、明確な反証はないものの、かといってここに指摘した以上の有力な論証をするのは(少なくとも筆者の読解力では)難しい。だがもし、陸秋槎が冗談めかして語る「後期クイーン百合」というものが「そういう」意味なのだとすれば、この点まで含めて本書が記述されたとみるのは……あながち見当違いでもないかもしれない

フェルマー最後の事件」「不動点定理」においては、作中作の構造と現実の事件とが呼応するようになっていた。「グランディ級数」においても、陳姝琳の「間違った推理」の真意の不確定性がグランディ級数の特徴と重ねられている。だが本当にそれだけなのか。グランディ級数のアイデアはそのように局所的な推理においてのみならず、もっと大きな、作品全体のレベルで仕掛けられたものだと考えることはできないのか。

 韓采盧に対して語り手が犯人当てを出題したことの真意。それによって本書全体が語り手と韓采盧の交流の物語として再解釈される可能性。そこに作者の意図的な「余白」が用意されているように思えてならない

 

5. 読者 対 語り手  (陳姝琳について)

 だが、ここで終わっていればまだ「幸せ」なのである。

 真の問題はここからなのだ。

「グランディ級数」において読書会が無事終了した後、現実世界で本当に殺人事件が発生してしまう。そしてその殺人事件の真相は(いちおう合理的な説明はされるものの)最後まで明かされないまま終わる。

 これがこの物語のもっとも凶悪な点である。

 鍵を握るのは語り手のルームメイトであり、語り手と韓采盧との間で三角関係を担うことになる陳姝琳だ。

 まず前提として陳姝琳は語り手と韓采盧の仲が深まることについて、嫉妬に近い感情を有している。陳姝琳は語り手の親友であり、また唯一の理解者でありたいと願っているように見える。

「グランディ級数」の結末において、陳姝琳は語り手だけを警察の取調から解放させるためにあえて「間違った推理」を展開した(と語り手は解釈している)。これによって恋敵である韓采盧は蚊帳の外に追いやられ、思いがけず画面の端から登場した第三の女が勝利して終わる……ように見える

 だが本当にそれだけなのか。

 ここで問題となるのは、本書が語り手による一人称小説であるということだ。そしてまた、語り手と作者が同姓同名である擦れっ枯らしのマニアである作者がこの点について、なんの問題意識も持たなかったとは思えない

 ひとつの疑問がある。

 この「語り手」は「信頼できる」のか?

 

 p.258を見て欲しい。陳姝琳が大学に合格した後も予備校で英語の勉強をしている、という説明の場面である。陳姝琳の英語力について、語り手は「外国語学校の生徒に負けないレベルだったはずで、予備校になんか行かなくてもかまわないように思える」と述べている。

 p.304を見て欲しい。陳姝琳の服装を説明する場面である。「とても授業を受けに行ったようには見えず、パーティに参加するというほうがうなずけた」とある。

 そしてこの後、陳姝琳は驚くべきスピードで事件の全貌を理解し、(間違っているとはいえ)推理を展開し始める。事件発生当時その場にいた韓采盧や語り手よりも、早く

 これらの点を見れば分かる通り、陳姝琳の挙動は明らかに「不審」である。というより、これが通常のミステリー小説であれば「最有力容疑者」であるといって良い*16

 作中において陳姝琳が容疑者とされていないのは、予備校でのアリバイがあるから(p.305)だが、これについて警察は特段の裏付け調査をしていない。また、そもそも陳姝琳が口でそう云っているだけで、そこにトリックの入り込む余地があるかどうかすら読者には明示されていない。

 注意して欲しいのは、ここで「陳姝琳が真犯人だ!」と指摘しようとしているのではないということだ。*17

 あくまで、その疑いがあるだけで十分なのである。

 先述の通り陳姝琳には何点か不審なところがある。

 そして語り手である陸秋槎は、語り手だからこそこれらの不審点を知覚していたはずであり、よって陳姝琳が容疑者である可能性を思考の片隅に浮かんでいたはずなのである。しかし、本文中では陳姝琳=真犯人の仮説がいっさい触れられていない。検討すらされていない。

深追いしないほうがいいことというのはある」(p.316)

 語り手は陳姝琳=真犯人とする仮説について、言及することすら、検討することすら避けている

 友人を疑ってしまうことそれ自体を恐れているのかもしれない。それによって友情が壊れてしまうかもしれないから。あるいは、もし陳姝琳が狂気の殺人者だった場合、真相に気付いた語り手を口封じする可能性を恐れているのかもしれない。「フェルマー最後の事件」における神の存在証明同様に、真偽を抜きにして「検討すべきではないから検討しない」という命題はあり得るのだ。

 無論、陳姝琳犯人説ならびに語り手の真意については、どちらも憶測の域を出ない。「どちらも正しい」、「どちらも正しくない」、あるいは「どちらか一方だけ正しい」……あらゆる可能性が想定できる。

 だが、ここで改めて、先ほどの言葉を繰り返そう。

「後期クイーン百合」というものがもし「そういう」意味なのだとすれば、この点まで含めて本書が記述されたとみるのは……あながち見当違いではないかもしれない。

 

 本書の巧妙な点は、これらの想像の余白を残しておきながら、見せかけのオチ(陳姝琳が嘘の推理によって語り手だけを連れ出したこと)によって余白の存在自体を隠蔽している点にある。

 読者は信頼できない語りのせいで、どこまでが信ずるべき記述で、どこまでが作中人物の真意なのかを測れなくなっているにもかかわらず、表面的には信頼できない語りの存在自体が隠蔽されているがゆえに、命題の存在にすら気づかないおそれがあるのだ。一見、作中作たる犯人当てにのみ生じていたかに見えるEQ問題が、その一個上の次元である作中現実のレベルでも成立し、さらに作者と読者の間にも発生している。ここにおいて読者=本書の謎を読解すべき探偵役は、一度作中作において(「連続体仮説」におけるロジックにおいて)無力化されたはずのEQ問題と再度向き合うことになってしまう

 このレベルまで掘り下げることによって、本書ははじめて真の牙を剥くのである

 

 そしてここまで考えると、語り手-韓采盧-陳姝琳の三角関係にも新たな意味が見えてくる。「連続体仮説」において語り手と韓采盧を引き合わせるきっかけを作ったのは陳姝琳だった。しかしそれゆえに彼女は、語り手の作った犯人当ての唯一の査読者としての特権的地位を失ってしまう。そしていつしか語り手は「犯人当て」を韓采盧のために創作するまでになる。「グランディ級数」における犯人当て読書会の場には陳姝琳が排除されていた

 なんたる皮肉だろうか。

 

 語り手から韓采盧に向けた「犯人当て」に込められた真意。

 そして、語り手から陳姝琳に向けた語られざる疑念。

 この二点について、本書は仄めかしをしつつ決定的な描写をせずに終わる。

 単に読者の「想像」に委ねられているだけではない。

 読者に求められているのは「推理」なのだ。

 この構造こそ、陸秋槎が作り出した究極のホワイダニットである。

 

 もし、この感想文で語った以外の手がかりがあるのならばぜひ教えて欲しい。

 かくいう筆者も、陸秋槎の仕掛けた迷宮の中に囚われたままなのだ。

 存在しないアリアドネの糸をずっと探しながら。

 

*1:具体的には淫祠邪教の烙印を押され、口から大量の水を流し込まされて火炙りにされる危険がある

*2:本文中ではクイーンは言及されど後期クイーン問題は言及されていない。

*3:最判平成19年10月16日。参考

*4:同様の趣旨の指摘は他所でもなされている。

*5:別に色覚異常をミステリに使うことがタブーなわけではないが、いかんせん古臭い手法なのでこれが出てくると馴れたミステリ読者はちょっと背筋がゾクッとする。

*6:それはそれとして、二種類の合理的な推理から同じ結論に至るということ自体はあり得る。ここで問題となっているのは、探偵役が説明不能な推理方法を採っているにもかかわらず読者に合理的なロジックを求めることのフェアネスである。

*7:あるいは腐川冬子的な意味での文学少女でもない

*8:p.182 韓采盧は平然と『ジェーン・エア』をジョークに含ませているが、語り手はいかにも自信なさげだ。

*9:https://miniwiz07.hatenablog.com/entry/2020/12/25/065943

*10:https://twitter.com/luqiucha/status/605321565530554368?s=20

*11:莠 | 漢字一字 | 漢字ペディア

*12:ちなみに、席の配置は東南の角に座る陸の列が、順に陸、韓、凌。陸の対面に座る梁の列が、順に梁、段、袁

*13:注意すべきはこの配置を意図して行っているのが作者であるということ。語り手・陸秋槎は山眠荘が韓采盧の作った犯人当て見取り図と類似していることに気付いていない可能性もあるし、別に気付いていなかったとしても関係ない。大切なのは、作者・陸秋槎が意図的にこの構造を作出しているというという点である

*14:ここは三門優祐氏のレオ・ブルース『ビーフ巡査部長のための事件』巻末解説を意識した表現です

*15:タイトルは挙げないが、実際に日本の本格ミステリ作品の中で、ある特定の人物の推理を正答とするために犯人当ての構造を捻じ曲げてしまうという話は存在する。

*16:ついでに云えば、喫茶店小宇宙は一見の客が簡単には来れないような場所にあるにもかかわらず、陳姝琳が迷ったかどうかが明言されていない点もトリッキーだと思う。陳姝琳がタクシーで現場に赴いたという点にも何か作為が感じられる。

*17:たとえば、陳姝琳には動機がない。ただし本文に書かれていないだけで、殺人の動機はいついかなるときも生じうる

プリズン・ブレイクに学ぶ おすすめ脱獄法10選

 

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 ここ数ヶ月はずっと『プリズン・ブレイク』にハマってて、二六時中そのことを考えていた。(残りの十二時間は『天牌』のことを考えていた)。ずっと家に引きこもって生活しているのだから脱獄に思いを馳せるのもむべなるかな。おそらく皆さんの中にも、脱獄に対する抑えきれぬ憧憬を抱きながら日々引きこもっている方々がいることだろう。

 これからのトレンドは「脱獄」なのだ。

 というわけで、今回はおすすめの脱獄方法をランキング形式で紹介していく。脱獄とは知性と体力の限界に挑むエクストリームスポーツのようなものであり、これまで多種多様な脱獄法が考案されてきている。その中から特に秀逸なものを選りすぐって見ていこうと思う。

 すでに収監されているみなさんだけではなく、将来逮捕される予定の方々にも参考になるハウツーなので、ぜひ最後まで読んでほしい。

 では第10位から。

 

 

第10位『暴動を起こす』

 現実に海外の刑務所とかでたまにあるやつ。法治国家制度が進むと犯罪者への取締が厳しくなり、やがて収監者の増加及び刑務所の管理能力のパンクが問題となることが知られている(法社会学的知見)。そうなってくると受刑者たちによる暴動で、刑務官が殴り倒され、強引に脱獄が行わることが起こりうる。特にひねりはないが、ひたすら『力』によって脱獄するという単純さに加え、一度に大勢の脱獄が見込めるためシンプルにして最強の脱獄法だ。デメリットとしては脱獄後すぐに軍隊が投入されてさいあくの場合射殺される可能性があるという点である。あと、同じ受刑者であっても暴動に巻き込まれて死ぬ危険がある

 ちなみに応用例として「火災を起こす」というものもある。火災を起こすこと自体はわりと容易だし、火が出れば消防を呼ばざるを得ないし、囚人たちも避難せざるをえない。だが同時に、閉鎖された刑務所内に閉じ込められる危険もあるため、あまりおすすめはできない。

 また特殊な例として『あしたのジョー』で矢吹丈が少年院から逃げ出すために、院内で飼われている豚たちを暴走させてその隙に逃げ出そうとしたという例があるが、これは失敗している。以降、現在に至るまで豚を利用した脱獄の成功例はない。未来の脱獄犯に期待したいところだ。

難度★ 応用可能度★ おすすめ度★

 

 

第9位『身体の関節を外して檻から脱出』

 網走から脱出した昭和の脱獄王・白鳥由栄が得意とした手法。この男は4回も脱獄に成功しており、まさにリアルプリズン・ブレイクを体現している人物。様々な媒体で扱われている著名人だから知っているひとも多いと思う。一説によると頭さえ通過すればどんな場所からも脱出できたらしい。格闘漫画っぽい設定。なお関節外しはかなりの練度を必要とする技術なので素人はぜったいに真似してはいけない。関節を外しすぎるとどうなるかについては『TOUGH』を読んで勉強しよう

難度★★★★ 応用可能度★★ おすすめ度★★

 

 

第8位『脱獄したと見せかけて大騒ぎになったところで騒ぎに乗じて脱獄』

 完璧な密室から脱出した!……と見せかけて実はどこかに隠れておく。脱獄が発覚すると刑務所は厳戒態勢になるが、同時にそこには刑務所内の警備に対する死角が生じる。その死角を突いて本命の脱獄をするという手法だ。

 アルセーヌ・ルパンのような怪盗や、トリックを仕掛けてくるタイプの知能犯が得意とするミスディレクション脱獄法であり、エレガンスな知性を感じさせる妙手といえる。だが実際にやるとなるとこれは難しく、他の手法との組み合わせがなければ不可能だろう。危険性を度外視して脱獄の鮮やかさを求める向きにおすすめ

難度★★★★★ 応用可能度★★★★ おすすめ度★

 

 

第7位『刑務官を手懐ける』

 禁じ手のようではあるが、割と有効な手法。

 刑務官は文字通り囚人を管理する立場の役職だが、必ずしも正義の味方とは限らない。暴力的な刑務官もいれば、金になびく悪徳刑務官もいる(偏見)。そういう輩に上手く取り入れば、きっと頼れる仲間になってくれるはずだ。

 具体的な方法としては「①他の囚人のまとめ役になり刑務官と団体交渉する」「②溢れる財力で買収する」「③圧倒的な実力で跪かせる」というパターンが考えられる。②はマフィアのボスとか、③はビスケット・オリバとかしか出来ないやつなので、現実的なラインとしては①を狙うのが妥当だろう。

 ちなみに密告役として刑務官に取り入る方法もあるにはあるが、これはバレたときに囚人と刑務官の双方から見放されるのでおすすめしない。

難度★★★★ 応用可能度★★★★★ おすすめ度★★★

 

 

第6位『病気のフリをする』

 多くの刑務所には医療設備が併設されているが、入院や緊急治療を必要とするほどの疾病には対処できない。そこで重病を装って刑務所から病院へ移送されることを狙うという手法がある。症状の偽装については命の危険がない程度の毒物を服用するなどが考えられる。

 また発狂した演技により精神疾患心神耗弱を装うという応用パターンもある。

 ただし、たとえ病院に移送されたとしても、そこから脱出するには別の方法が必要だし、場合によっては通常房より厳重な警備施設へ移されるリスクもある。あくまで他の方法と組み合わせて使うことが推奨される。

難度★★★ 応用可能度★★★ おすすめ度★★★

 

 

第5位『鍵を奪う・こじ開ける』

 刑務所というのは無数の錠で出来ている。囚人を覆う檻は二重三重にめぐらされており、容易には脱することができない。そんな情況では、いくつかの鍵をこじ開ける技術が必要となってくる。

 もしあなたにスリの技術があれば、刑務官から鍵を盗みとり、そこから簡易な合鍵を作ることもできる。また、あなたにクラッキングの技術があれば、電子解錠システムの穴を突くこともできる。などなど鍵開けのスキルというものは様々な可能性があり、持っていて損はない。もしあなたにそういうスキルがなかったとしても心配は無用だ。刑務所には空き巣やスリの常習犯が必ずいる。そういう人物たちと仲間になっておけば、必ず役に立つ。もちろん、刑務官たちもその点には注意しているから鍵を開けただけでは脱獄できないように厳重に監視しているものの、鍵開けが基礎テクニックとして役立つことは間違いない

難度★★ 応用可能度★★★★ おすすめ度★★★★

 

 

第4位『檻を薬品で溶かす』

プリズン・ブレイク』『十三号独房の問題』などで登場する手法。刑務所内では意外にもいろいろな道具が手に入るのでDIY能力が高ければ様々な便利アイテムを作ることができる。化学薬品もそのひとつであり、持ち前の知識と工作能力によって金属部品を破壊するのは、脱獄学における中級テクニックともいえる。この技術を応用してより高度な脱獄に挑戦しよう!

 ちなみに先述の白鳥由栄は味噌汁を手錠に掛け続けて金属部を腐食させるなどの奇想トリックも編み出している。金属を溶かす手法は、単に鍵をこじ開ける手法に比べて応用の幅が大きく、また刑務官たちの予想を裏切る技術でもある。是非、押さえておきたい。

難度★★★ 応用可能度★★★★★ おすすめ度★★★★

 

 

 さて、ベスト3の発表の前に、惜しくも10選に選ばれなかった脱獄法を番外編として紹介しておこう。難点はあれど、捨てがたい脱獄法を集めてみた。

ヘリコプターを使って脱獄

 刑務所の上にヘリコプターを寄越してそのまま吊り上げてもらえば逃げられるだろう、という安直な発想。ふつうに乗り込むタイミングで刑務官に撃たれるリスクがある。『プリズン・ブレイク』でも一瞬だけこの方法が登場するのだが、禁じ手に近い。

人質をとって脱獄

 刑務官や医者を人質にして脱獄するケース。暴動パターンの亜種ともいえる。一度人質にとってしまえばかなり優位に立てるが、現場の判断次第で即射殺される可能性も高い。また、人質を制圧できるだけの武器を入手するのが難しく、リスクの割に微妙な方法だ。

ミステリー小説のトリックで脱獄

 だれもが一度は考えるが、ぜったいに上手くいかないやつ。世の中に密室トリックはありふれているが、脱獄法として実用できるものは限りなく少ない。また、応用できるものであっても実現に必要な条件がきわめて限られており、最終的にすべてがFになってしまう可能性も高い

死んだフリをして運び出される

 本家『プリズン・ブレイク』でもボツ案として登場する。日本ではふつうに火葬される。

 

 などなど、アイデアとしては悪くないものの、いまいち脱獄法としてはおすすめできない方法だ。ではここから、ついに脱獄法ベスト3を発表しよう。

 

 

第3位『移送時に脱出』

 そもそも脱獄というのは非常に難しい。ならば、監獄からの脱出にこだわる必要はないのではないか

 そんな発想の転換から生まれた手法がこれだ。囚人は裁判所との行き来や、刑務所への移送時に警察官や刑務官の付添の上で車に乗せられる。このときに協力者の助けを借りるなどして車を襲撃してもらい、脱出するという手法がある。この方法は派手で大胆ながら成功率が高く、『K─20』『ダークナイト』など様々な映画に登場する。ただし、あなたがジョーカーや怪人二十面相のように心強い部下を持っていない限り成立しないし、下手をすると死人が出る方法なので、人を選ぶ手法であることは間違いない。

難度★★★★ 応用可能度★ おすすめ度★★★★

 

 

第2位『穴を掘る

 いわずと知れた脱獄の代名詞。『ショーシャンクの空に』『大脱走』などの往年の名画でもお馴染みであり、脱獄と聞いてまず穴を思い浮かべる方も多いはずだ。

 古典的にして間違いのない方法であり、かつ穴を掘ること自体は非常に簡単なので脱獄初心者にも安心しておすすめできる。しかし、掘削のための道具の選定(歯ブラシやスプーン、釘などを改造して使う)や、掘削時に必ず出る削りカスや砂の処理など、実現にあたっての困難は多く、また他の囚人にバレる可能性も高い。また単純に掘るだけだと、脱獄までに十年以上かかることになってしまう。

 そこで、協力者を募ったり、事前に建築に関する知識を深めたりするなどの入念な準備が不可欠でもある。万全の態勢で穴掘りに挑もう。

 脱獄のバイブル『プリズン・ブレイク』では、あくまで穴を手段のひとつとして利用し、要所で使うことによってそのリスクを最小限に抑えている。プリズン・ブレイク』は脱獄初心者には必見の入門書となっているはずだ。

難度★★★ 応用可能度★★★★★ おすすめ度★★★★★

 

 

第1位『無罪を立証する』

 最強の脱獄法とは恩赦、ないし無罪放免である。

 ……なんて書くと「ふざけるな!」と怒るひとがいるかもしれないが、これは事実だから仕方ない。それに『プリズン・ブレイク』の視聴者であれば、この無罪の重みがよくわかるはずだ。ゴールは脱獄ではなく、無罪なのだ。

 ここまで紹介してきた方法によって脱獄に成功したとしても、そこからえんえんと逃亡生活が続くことは避けられない。『プリズン・ブレイク』を全話視聴したうえでわかるのは、やはり法的に赦される以外に完璧な脱獄は成立しないということである。無罪の立証にあたっては、論理によって無実を主張しても良し、ペリイ・メイスンよろしく法廷闘争をしても良し、あるいは本当は自分が真犯人なのに、嘘の論理によって無罪放免を勝ち取るという方法もあり得る。また日本であれば天皇即位時、米国であれば大統領の交代時期恩赦が出されるため、軽犯罪であればここで救われることもありうる。

 というかドナルド・トランプと仲良くなっておけばたいがいどうにかなる

 いずれにしても、無罪立証や恩赦には様々な抜け道があり、自分に合った方法を見つけることができるだろう。簡単ではないが、最強の脱獄法だ。脱獄学の行き着く先として、力強くおすすめしておきたい。

難度★★★★★ 応用可能度★★★★★ おすすめ度★★★★★

 

 

 いかがだっただろうか。

 一口に脱獄と云っても、その手法は様々であり組み合わせも無限大だ。ここに書いたのは代表的な例だけであり、おそらく今後も独創的な脱獄法が有志によって編み出されることだろうと思う。今まで脱獄に興味のなかった皆さんも是非、脱獄に挑戦してみてほしい。

 

 

 

 

だましだまし、華文ミステリを読もう!

 どうやら世間では中国の現代小説というのがひそかなブームになってるらしい。華文ミステリというジャンルもここ数年やたらもてはやされるようになったし、『三体』もようやく和訳されて中国現代小説の面白さというのがいよいよ浸透しつつあるのかな、と思う。

 でもそうはいっても華文ミステリの日本への紹介はあまり進んでいない。作家単位でちゃんと訳される動きがあるのは香港出身の陳浩基とか日本在住の陸秋槎くらいなもので、バリバリに本土で活動している作家は島田荘司チルドレン数名くらいしかまともに訳されていない。ちょいちょい訳されるとしても一作家一冊くらいが限度だ。

 きっと日本の本格ミステリジャンキーたちはこう思ってるはずだ。「もっと華文ミステリ寄越せよ!!」。そういうあなたのために、本記事は書かれた。

 読めばいいじゃん。原書で。

 

中国の書店

 

 しかしいきなり中国語の本を原書で読むというのは、なかなか心理的ハードルもあるし、どうしたら良いのかわからないとこだと思う。そこで、今回は華文ミステリを原書で読むハードルをひとつひとつ突破する方法を書いていく。これを読めばあなたも「だましだまし」で華文ミステリが読めるようになる!

 もちろんミステリに限らず、他の中国現代小説を読む上でも応用できる話だけど、いちおう焦点はミステリに絞っておく。

 あと注意点として、この記事を書いている筆者も、べつに大して中国語の本を読んでいるわけではない。半年前に原書を読み始めて以来、丸々読んだのは三冊だけだし、あとはせいぜいネットで中国語のサイトを巡回してるくらいしか中国語に触れてない。

 なので中国語玄人のひとには本当に申し訳ないけど、これはあくまで初心者による初心者へのアドバイスということで。

 

①語学力

 なんといってもこれ。

 中国語をすでに習ったことがあるひとはこの項目を読む必要はない。さっさと原書に手を伸ばしてほしい。

 中国語を習ったことはないひとも焦ることはない。なんせ中国語というのは、日本人にとって非常に学びやすい言語だからだ。文法は英語に類似しているし、漢字はもはやお馴染み。簡体字さえ憶えてしまえば、見たことのない単語であってもだいたい意味が類推できる。これほど楽なものはない。

 唯一にして最大の難所はピンイン(発音)だが、読書に関してはこれを無視できる。もちろんウォアイニーくらいはわかってたほうがイメージとしても良いのだけど、無理して憶える必要はない。

 初学者が中国語の本を読むためには、とりあえず文法書と単語帳を一冊ずつ用意すればこと足りる。巻末に発音CDがついてる分厚い本を買う必要はない。

 なお筆者は一年弱中国語を習っていたが、テストでは毎回カスみたいな点数を取っていたし、発音に関してはほとんど雰囲気で乗り切ってるだけでロクに憶えていない。それでも、文法と最低限の基礎単語さえ把握していれば本は読める。本を読む上で言語力のさらなる向上も期待できるから、実は語学力はあまり問題にならないのだ。

 華文ミステリを読むうえで語学力の心配がいらない理由がもう一つあるのだけど、それは後で説明する。

 

②本を入手する

 意外にも面倒なのがこっち。本の入手法。

 ベストの選択肢は、実際に中国本土へ渡航して現地の本屋で買うことである。

 何をバカな、と思うかもしれないけど、真実だから仕方ない。中国のペーパーバックはだいたい日本の文庫本と同じかちょっと安いくらいの値段だ。ただしそれは現地の書店での話であって、日本の書店で中国語の輸入書を買うとなると2000円とか3000円とかふっかけられることになる。筆者も神保町の東方書店や内山書店にはよくお世話になってるけれど、この値段の高さだけはなかなか厳しい。

 それに、輸入本は種類が少ない。日本人作家の中文訳とかはやたら揃えてあるわりに、中国人作家の作品はよほどの売れ線以外は置いてないというのが通常である。あたりまえといえばそう。

 しかしだからといって中国の書店に日々通うというのも現実的じゃない。中国に友達でも住んでいれば良いのだが、そう都合良くもいかない。中国からの通販を依頼するという手もないわけではないが、やはり割高だし、しかもいつ届くか信用できないという問題もある。

 そこで役に立つのが、電子書籍だ。

 中国語の書籍はkindleみたいなサイトにはあまり出回っていない。代わりに何を使うかというと、豆瓣(douban)というサービスを使う。

book.douban.com

 豆瓣はかんたんに説明すると「kindle読書メーター」みたいなサービスで、中国の電子書籍業界においては覇権を握っているアプリだ。日本からでもアプリストアからかんたんに入手できる。iOS版はこれ。しかも中国のめぼしい現代小説はたいていこれで手に入る。

 何よりうれしいのが値段。中国語の本が現地で安価なのは先述の通りだが、電子書籍はさらに安い。セールが組み合わさると一冊180円くらいはザラにある。これは中国語の本が基本的に日本の本よりちょっと薄いのと、編集がわりとざっくりしてるのと、まぁいろいろ理由はあるのだけど、とにかく安い。

 買うときもアプリ内課金でかんたんに購入できるのでレートを気にする必要もない。少なくともAppleが中国アプリを規制するまではこの調子で使えるはず。レスト・イン・ピースTikTok

 ちなみに豆瓣ではkindleについているような機能はだいたい使える。メモ機能や辞書機能はあるし栞も使える。欠点は本文検索機能がないことくらい。

 あとひとつ困ったことに、電子版だと元の本に載っていた図面が省略されていることがある。館の見取り図とか。館ものや密室ものじゃなければ何の問題もないけど、トリックの図解があったりすることもあるので、これは要注意ポイントというか、覚悟して買わなくてはいけない。200円足らずで買えるのだし、よく本文を読めば図がなくてもなんとかなるので、ここらへんで妥協しなくてはいけないのかもしれない。

 

③華文ミステリを読むうえでの注意点

 さて、では実際に華文ミステリを読む段階で注意すべきことはなんなのか。

 ふつう馴れない言語の本を読むときに使われるテクニックとして、「わからない部分は飛ばす」という手法があると思う。いちいち辞書なんて引いていたらいくら時間があっても足りないし、物語の大筋を捉えるためにも飛ばし読みはある程度有効だ。

 でもミステリについてはこれはあまりオススメできない。特に本格ミステリだと一文の描写が物語上重要になってくることなんてよくあるし、細かい論理は拾い読みだと理解しきれない。できる限り丁寧に読まないと意味がない。

 じゃあ華文ミステリを原書で読むのは難しいってこと……?と思うかもしれないが、そういうわけでもない。

 なぜなら華文ミステリは日本の推理小説の「お約束」に強く縛られているからだ。

 中国語圏では東野圭吾宮部みゆきのようなベストセラー作家や、綾辻行人島田荘司のような本格謎解き作家が非常によく読まれている。したがって華文ミステリの多くもそれらの作品の強い影響下にあり、展開が日本のミステリと酷似したものになりやすいという性質がある。

 特に本格ミステリではある種の様式美といっても良いようなお約束展開がいくつもある。たとえば「探偵役がワトスン役の誤推理を一刀両断する」とか「脇役のなにげない一言から真実が明らかになる」とか。華文ミステリにはそういうお約束展開が沢山出てくる。

 だから、日本のミステリ読者にとっては非常にわかりやすい。作者の意図を読み取りやすいのだ。「館」とか「密室」が出てくるような、いわゆる「本格推理」ものほどこういう傾向は強く、だからこそ華文ミステリは日本人にとって非常に読みやすい内容だといえる。

 他に華文ミステリを読むうえでの注意点としては、特殊な語彙とかだろうか。「绑匪(誘拐犯)」とか「阿里比(アリバイ)」とか「约翰·迪克森·克尔(ジョン・ディクスン・カー」とか、ミステリ以外ではめったに見ないような語彙が登場する。そのあたりに不安があれば、日本のミステリ作家が書いて中文に訳された本とかを練習がてら読むと良いかもしれない。和ミステリの中文訳はやたらと充実しているので、中国語初学者には格好の教材になる。日本に限らず世界の短編ミステリを集めてきた傑作集とかも売ってるのでオススメです。

 

④で、何を読むか?

 せっかくなんだから日本で紹介されていない作家を読みたいところだ。

 どうやら華文ミステリの中には翻訳権ごと中国の出版社が掌握しているものがいくつかあって、そのあたりは日本で紹介される予定がまるで立っていないらしい。まぁ陳浩基とか陸秋槎とかはほっといてもいつか訳されるだろうから良いとして、やはり日本にぜんぜん紹介されていない作家を読んで「通」ぶりたいところ。

 そんなあなたに良質な情報をくれるのが阿井幸作さんのブログだ。華文ミステリの有名所を網羅的に紹介していて、おそらく日本語で読めるもっとも詳細な華文ミステリ紹介記事だと思う。ちなみに阿井幸作さんは翻訳ミステリー大賞シンジケートでも毎月華文ミステリ事情を紹介する連載を持っていて、こちらもヘッズ必見の内容になっている。

 そのほかにも、先ほどの豆瓣に書き込まれた感想コメントを辿っていくという方法もある。豆瓣は読書メーター的機能もあるので、中国のミステリオタクたちが何をどう面白がっているのかを読むことができる。中文版の青崎有吾作品を読んでるオタクがどういう華文ミステリを普段読んでるのかとか、そういうふうに調べていくと学びがある。

 あとこれはミステリの話じゃないけれど、中国のSF界隈とかになるとネットで連載している雑誌があったりして、業界の先端を行く作家たちの作品が無料で読めたりする。興味があれば調べてみると良いかもしれない。

 などなど。とっかかりは色々ある。とりあえず筆者はここで紹介されている本格ミステリをぼちぼち読んでいこうと思ってる。

 ちなみに個人的にオススメの華文ミステリは『凛冬之棺』。次から次へと密室が登場して、それぞれに驚愕のトリックが仕掛けられているというザ・本格推理という感じの一冊だ。国内本格好きだったらかなり高い確率で盛り上がれる内容なので、ぜひ読んで欲しい。

中国のジョン・ディクスン・カー

book.douban.com

 

 

 ……いかがでしたでしょうか(呪言)

 華文ミステリは日本に比べるとまだ歴史も浅く、エンタメとして成熟しきっていないような作品もある。それは事実だ。しかし一方で華文ミステリを読んでいると、日本の国内本格とはまったく違う方向へとその芽を伸ばしていっているような気配も感じられる。ジャンル黎明期のフレッシュなパワーを直接肌で感じたければ、原書で読むのがうってつけだ。

 既訳の華文ミステリに満足できないあなた。国内本格には毒が足りないと感じているあなた。そしてなんでもいいからとにかくヤバい本格ミステリ寄越せ!と思ってるそこのおまえ!

 だましだましでいいから、華文ミステリ読んでみませんか。

 

 

 

小説/テキサス・タイプライター

 

 バチバチバチバチバチバチ
 カシャッ。
 バチバチバチバチバチバチ
 カシャッ。

 その頃の名残は、一葉のセピアの写真と、そして無数の赤茶けた紙片から見て取れる。


Type A, Please

 テキサスタイプライターと正式に呼ばれる道具は存在しないのだが、テリー・ハートフィールドと彼の用いたタイプライターはたしかに実在したし、彼がそれをテキサスタイプライターと呼んでいたことも事実である。彼の残した物語を信じるならば、事実といえるという意味なのだが。
 文献の信憑性について至らぬことを考えてみる。それはあるいは疑いだせばきりのないことであって、ゼリーの上でダンスするくらい見た目には不安な動きだ。でも、こんなことを云ってしまうとこの文章を読んでいるあなたにもいらぬ疑心を求めてしまうかもしれないし、本当はこんなことを書くべきではないのかも。
 だがテリー・ハートフィールドならばおそらくこんな弱気なことは書かないに違いない。彼は自分の文章を信じていたし、それを読む誰かの視線など恐れていなかった。だからテリーに敬意を表して彼の記述を信じようと思う。

Type B

 テリー・ハートフィールドという名前にはおそらく聞き覚えがないと思うが、これでも彼は一斉を風靡した作家だった。とても多作でセールスのチャートには毎年のように名を連ねていた。最近では似た名前の別の作家が有名になったこともあって、彼の名前はほとんど聞かないし書店でも見ない。テリー・ハートフィールドは多くの作家の例に漏れず自分と同世代の読者のために本を書いていたのであって、見たこともない電子機器を操る未来人どもの相手をする気なんてさらさらなかったに違いない。
 テリー・ハートフィールドは非常に多作だった、というのは先程書いた。彼は二週間に一冊の長編小説をものした。ストーリーを考えるのに三日。キャラクターを考えるのに三日。そしてやる気を出すのに一日挟んで、あとは六日で書き上げた。残りの一日は出版社に原稿を送るための予備日である。ハートフィールドは慎重な男でもあった。
 テリー・ハートフィールドは多作だった、ということは分かってくれたと思う。これはつまり小説家にとって天下無敵であることを意味している。しかしながら、テリーにはひとつだけ弱点があった。
 彼はタイプライターを打てなかったのである。

Type C

 タイプライターには二度驚かされる。一度目はその大きさ。両の掌に収まるサイズに縮められた機械工学の叡智。その精巧な大きさに驚かされる。
 二度目は音。そのけたたましい音に驚かされる。小さな子どもほど声が大きいのとよく似ている。いくつもタイピストを並べて合唱させたならば、それはもう耳が割れんばかりだ。
 タイプを早くやるのは難しく、それなりに根気のいる作業だ。打ち損じるわけにもいかないし(直すのは打つのの何倍もめんどうだ)、キーはそれなりに重いからずっとやっていると両手が攣ってきてしまう。
 めんどうな作業なので、当然それを仕事にする者たちがいる。馴れればそこそこ楽だという説もあるが、本当だろうか。

Type D

 ハートフィールドはタイプができなかった。正確に書けばできないこともなかったが、彼のおそるべき執筆スピードにはとうてい追いつかなかった。
 そのため、彼はタイピストを雇わざるをえなかった。口述筆記というものだ。彼が物語の筋を喋り、それをタイピストがライターに乱打する。
 さてここで、先述のスケジュールを振り返ってみよう。ストーリーを考えるのに三日。キャラクターを考えるのに三日。そしてやる気を出すのに一日挟んで、あとは六日で書き上げる。残りの一日は出版社に原稿を送るための予備日。
 長編を書くのにテリーが使う日数は実質六日間。この間、彼は夜通し喋り倒し、タイピストがぶっ倒れるまでタイプをさせる。
 休めばいいじゃない。ある記者はかつてテリーにそう云ったが、テリーはこう答えたという。
「六日間。それは僕が作中人物に感情移入していられる限度なんだ」
 この答えは若干、的を外しているといえた。なぜならばテリーの問題は感情ではなく身体にその本質があったためだ。
 テリー・ハートフィールドは三十三歳にして口述筆記中に卒倒し緊急搬送された。医師の診断は睡眠不足だった。このときハートフィールドのキャリアは十年目であり、ついでに云えば掛りつけ医師のキャリアは三十年だった。
 テリーが倒れるまでに腱鞘炎を起こして辞職したタイピストは五十人だった。

Type E

 マギンティ刑事シリーズはテリー・ハートフィールドの代表作だ。マギンティ刑事(このチャーミングな名前は彼の妻が考えた)は無頼派だがユーモラスな男で、どんな困難な状況も頓智とトンカチで切り抜ける。トンカチを持っているのは彼が大工の家に生まれたからであり、これがテリー作品ならではの聖書的モチーフであることは今更説明するまでもないだろう。
 マギンティ刑事シリーズ第三シーズンの十五巻(あまりに巻数が多いので通しナンバーと呼ばれることはほとんどない)、『マギンティと不機嫌な嘱託殺人者』にはこんな一節がある。

『「おい、マギンティ」アルフレッドは云った。かれの眼は嘱託殺人に失敗した死に損ないのように冷たい、というのがマギンティの第一印象であり、実際これは当たっていた。「おれの邪魔をしたということが、どういうことかわかってるよな」
「邪魔?」マギンティは不敵に笑った。「すまねえな。母親には人の家の食卓にあがりこんじゃ失礼だとは習ったんだがな。あいにく嘱託殺人中にあがりこむなとは習わなかったでね」』

 原文では「食卓(Dining)」と「嘱託殺人中(Dying)」で押韻している箇所である。
 マギンティ刑事はどんなときもユーモアを忘れぬイカした男だったが、テリーはどこか物憂げな芸術家肌のベジタリアンだった。

Type F

 過労で倒れたテリーは強制的な療養生活に突入した。彼の妻子と編集エージェントはテリーを病室に監禁し、鉛筆や紙といったものをすべて没収した。いざとなればテリーは自分の血で小説を書き始めることもできたわけだが、それをしなかったのは彼が他の物事に気を取られていたからに過ぎない。
 それはまだ見ぬ彼にとっての相棒。彼の執筆を手伝ってくれる相棒だった。
 マギンティ刑事シリーズにはナッシュという相棒の刑事が登場する。彼は第五シーズン十八巻で立て籠もり強盗に射殺されるまで、マギンティの公私での親友として活躍した。彼が射殺されたのは、ドラマ版でナッシュを演じた俳優が薬物問題で降板をしたからである。
 テリーはその後、ローグという名前のキャラクターを新たに登場させてマギンティの相棒にあてがったが、このローグという青年は少々完璧すぎてマギンティとはあまり仲良くできないようだった。マギンティは教師と仲良くなれない身勝手な問題児タイプだったから。
 それはテリー自身も同じだった。

Type G

 療養三日目。テリーはテレビを見ることを許可された。キャリア三十年の医師としてはテリーをできる限り外界から遠ざけておきたかったが、テレビというのはいわば最大限の譲歩だった。その当夜、マギンティシリーズのドラマ第八シーズン二十五話が放映されていたのは想定外だった。
 この回の原作は『マギンティのシカゴ旅行』という本である。スポンサーにはシカゴの旅行社がいたことは云うまでもない。テリーはなんの気もなしにテレビ画面を眺めていた。

『おい! 待ちやがれ、マギンティ。てめえのバッジも北部じゃ通用しねえぜ』(目出し帽を被った男が人質に銃をつきつける)
『それはどうかな』(ここで無言で人質犯を射殺するマギンティ役の役者の顔が大写しになる)

 なお、このシーンの原作での描写は次のようであった。

『「おい! 待った方がいいんじゃねえか、マギンティ。人殺しにはなりたくねえだろ」
 男の手にある拳銃が娘のウエストに食い込んだ。マギンティは片眉を上げる。
「おれが殺しをやったことがないと思うか? おれはどんなときも上手くやってきた(原文ではI always go great guns, men.)」』

 テリーは些細な原作との違いなど意に介さなかったが、一点に興味を惹かれた。それはテレビの中の人質犯が手にしている銃であり、それはテリーが書いたような拳銃ではなくトミーガンだった。
 その出会いは銃で撃たれたように鮮烈だった。

Type H

 トミーガン、つまりトンプソンサブマシンガンはある時期まで非常に一般的な銃であったし、今でも昔の映画の中で沢山見ることができる。その迫力ある造形と機能美に魅了されたギャングも多いはずだ。
 トミーガンは連射性能に優れ、その特徴的な銃声からある愛称で呼ばれた。
 シカゴ・タイプライター。

Type I

 それはシカゴ・タイプライターにとても良く似た外見をしている。シャープな銃身も、スマートなグリップも。
 でもそれは銃ではなくタイプライターだ。
 銃の内部には弾の代わりに玉が込められていて、銃口を上下させればこの玉が内部でゆらゆらと揺れる。引き金を引くと弾倉からは薬莢ではなく紙片が飛び出す。紙片には発砲時の玉の位置によってさまざまな穴が開く。
 連射をしてみる。するとトイレットペーパーのように細長い一連の紙が銃身から溢れだす。そこには無数の穴が開けれれている。銃を傾け、撃つ方向を少しずつ微調整していく。するとまた何種類もの穴が紙にえんえんと開けられていく。穴あけの残骸である極小の丸い紙片もついでに空中に舞い散る。
 穴の種類をそれぞれアルファベットにあてがう。そうすれば一連の紙は突如、アルファベットの文字列に変わる。そこには文章が生まれる。
 サブマシンガンの連射速で繰り出される多量の文字列。それを可能にするのがこの道具だった。

Type J

「こんなものを作って何になる?」
 いいからいいから、とテリー・ハートフィールドは云った。
 退院したテリーは真っ先に知り合いのエンジニアに会いに行った。マギンティシリーズのテレビ撮影で小道具を作っている男で、ドラマに出てくる改造モデルガンを用意しているのもこの男だった。
 マシンガンのように早いタイプライター。テリーがほんとうに欲しいものはこれだった。そうこうしている間にもテリーの脳内には無限の言葉と物語が湧き出ていた。
「金なら用意できる。だから作ってくれよ」
「できないことはないが……、そんなもの作っても使いづらそうじゃないか」
 それがどうした?という顔をテリーはした。彼が求めていたのは速さであって可用性ではなかった。

Type K

 完成したその銃を、テリーは愛しげに触った。手に取り、構え、撃った。
「片手で持てるな。もう一挺あれば両手で使えるのに」
 エンジニアの仕事が増えた。
 テリーはその日から再び仕事に取り掛かった。

Type L

 作家がほんとうに書きたいことがなんだったのかを推し量るのは難しい。それはきっと作家自身にもわからないに違いないし、そもそもそんなものがあるのかわからない。岸辺から見える金字塔の蜃気楼と同じで、信じようと思えば信じられるがチンチロと同じで芽が出るまでわからないのが創作のT字路というものだ。
 彼がマギンティ刑事を愛していたかというとたぶん愛していたし、その愛は母親が子にかける愛と割と近しいものであった。つまりちょっと過保護ちっくの愛だったということである。だが彼にとって自分の書いた小説は子供であってもファムファタルではなかった。
 キャリア三十一年目に差し掛かった医者はキャリア十一年目に差し掛かったテリー・ハートフィールドにこう云った。
「引きこもって本なんて書いてないで、外に出たらいいじゃないか。旅に出るのがいいだろう」
 テリーはこの発言を誤解した。医師の「ないで」という言葉は「引きこもって本なんて書く」という部分に掛かっていたが、テリーは「引きこもって」の部分のみに対応しているものと誤読した。
 良い作家が良い読者であるとは限らないことと同じくらいの蓋然性で、患者というものは医者の発言を誤解するものだ。

Type M

 テリーは大地を踏みしめた。両手には銃。撃ち出すのは言葉の弾。彼はけたたましい音を立てながらトリガーを引き続け、四方に銃口を向けながら歩いた。文字は際限なく紡がれた。
 たぶんきっと彼には迷いがあったのだと思う。彼の人生はご存知の通り物語そのものだったし、彼の頭はいくらでも言葉を生み出し続けた。彼は神速のタイプライターでそれを文字にし、右手ではドラマを、左手ではジョークを綴り続けた。でもそれで良いのかという思いはずっとあった。ほんとうにそれは自分がやりたいことなのかどうかはもうわからなかった。それは彼らしくもない弱気だった。
 彼はテキサスの実家から歩みだし、幹線道路沿いを歩み、草原を越え、やがて渓谷まで来た。その間に彼は三冊の長編小説と十五の短編をものした。
 渓谷の崖淵に立ち、彼は足を止めた。そこから先にもはや道はなく、わずかに足を滑らせれば赤茶けた石がぼろぼろと崖からはるか下の大地へと吸い込まれるのが見えた。足がすくんだ。このとき彼は自分の両の腕が震えているのを感じた。その震えは銃把に伝わり、銃の中の玉に伝わり、そして打ち出される文字へと伝わった。それは彼のそれまでの著作の中でもっとも真実らしい言葉だったかというと決してそんなこともなかったし、優れた文章表現があったかというとそんなこともなかったし、個性的でも普遍的でも高踏的でも良識的でもなかったが、でも彼にとっては小説の女神と目があった瞬間だった。

Type N

 彼はそれをテキサス・タイプライターと名付けた。

Type O

 彼は二挺のテキサス・タイプライターを手に世界を巡った。時には戦場で本物の銃声の中で言葉を綴った。あるいは滝壺に落ちるまでに水がすべて蒸発してしまうほど高い滝の頂上からそれを連射した。遠い国で彼そっくりの小説家と面会したときもそのグリップから手を離さなかった。
 彼が書いていたのはリアル志向の社会派小説でも私小説でもエッセイでもない。ずっとずっと小説であり、どこまで行っても小説であり、形はどうあれ小説だった。ある種の真実は嘘の物語によってしか著述できない。高速の著述はフレーム単位で彼の内心の思考を切り取り続け、それによって彼は限りなく真実に近いトーンで法螺を吹き続けた。
 戦場で命がファストフード的に食い散らされる様を見ながら、彼はマギンティ刑事の物語を書き続けた。砲声を間近にしながら、マギンティはやはり以前と同じくスマートな軽口を叩いていたが、しかし決定的に以前とは違っていた。

Type P

 それはいわば完璧な法螺であった。速さを増すテリー・ハートフィールドの小説は、ひたすら濃密になっていった。登場人物の思考、挙措、筋肉の痙攣。すべてをハイスピードカメラで捉えるように著述し、その場で目撃したかのような臨場感で描いた。その言葉は映像より鮮明に動きを追い、コンピューターより正確に本質を捉え続けた。
 書き続けなければならないという執念が、テリーをここまで連れてきた。
 彼は世界をめぐり、新たな景色を目にしてはそこで得たインスピレーションをすべて創作につぎ込んだ。彼の物語は誰かに読ませるものではなく、書くこと自体が目的であった。書くという行為がすべてであった。
 テキサス・タイプライターはテリー・ハートフィールドの言葉を撃ち出し続けた。

Type Q

 ここに一葉の写真がある。テリー・ハートフィールドを語るうえで必要な写真はこれだけだろう。
 それはテリーの著作の裏表紙に必ず印刷されていた顔写真の、その原本だ。椅子に座った大男。無精髭の生えたその顔は当然ながらカメラマンを見ていない。なんでもいいから早く撮ってくれ、こっちは忙しいんだよとでも云いたげだ。
 テリー自身が写真というものについて書いていることを引用しよう。マギンティシリーズの後期の作品だ。(この頃になるともう作品数が多くて誰もが数えることを放棄していた)。

『写真は嫌いだが、写真を撮るひとのことは嫌いじゃない。』

 テリーの遺影にも使われたこの写真について妻はこう証言している。「とても良い写真じゃない?」

Type R

 正直に書くと、退院して以降のテリー・ハートフィールドの作品についてはほとんど眼を通すことができていない。あまりに全体の量が多すぎるのと、加えて例のテキサス・タイプライターの穴で著述された文字列を文字起こしするのがそれなりに面倒な作業だからだ。
 だからそれらが本当に小説の形式を取っているのかどうか確認することも正確にはできていないわけだが、それについてはテリーのことを信頼したいと思う。
 晩年の作品『マギンティ刑事のクリスマス』、それ一冊だけで、彼が真の作家であることは証明できるからだ。

Type S

『マギンティ刑事のクリスマス』は彼が六十八歳のとき、世界放浪の末にテキサスの自宅に帰り、孫たちにクリスマスプレゼントを手渡したときに書き始めたものだ。プレゼントは特大のケーキであり、それがもっとも喜ばれるものであることを年老いた賢者である彼は知悉していた。
 ハートフィールド家のクリスマスは三つのサプライズとともに祝われた。一つはテリーの帰国、一つは二番目の息子に三番目の子供が出来たこと、そして最後に一つは十二時に玄関ホールに現れた闖入者であった。
 それはサンタクロースではなかった。

Type T

 いつの日か、テリーにはテキサス・タイプライターの速度すら緩慢に感じられるようになってきていた。だが年老いた彼はそれより速い領域に手を伸ばそうとは思わず、ただ祈る時間が増えた。彼にとっての信仰は虚構への祝福であった。
 玄関ホールに現れた闖入者はトミーガンを片手に持ち、目出し帽を被っていた。銃は実物であり、彼の犯意も現実であった。
 闖入者が最初に眼にしたのは幸せなハートフィールドの家庭であり、次に眼にしたのは両手に銃を持った白髭の小説家だった。
 小説家は無言で闖入者に銃を向け、それを発砲した。文字が紡がれた。穴の開いた長紙が次々と繰り出され、丸く切り抜かれた紙片が宙を舞った。玄関ホールに雪が降り積もった。
 闖入者が発砲する。しかしテリー・ハートフィールドにとってはそれすら水の中でもがくように遅滞した動きだった。彼の身体へと実弾が向かってくる間も、テリーは物語を綴り、そして彼の虚構へと祈りを捧げていた。
 やがて弾はテリーの腹部に到着し、その衣服と皮膚を切り裂く。
 闖入者は足を踏み出すが、その足は玄関ホールに降り積もった紙雪の上を滑ってもつれ倒れる。

 テリー・ハートフィールドが彼の生涯で最後の傑作を書き終えるのと、テリーの次男が床に倒れた闖入者を取り押さえるのはほぼ同時であった。

 バチバチバチバチバチバチ
 カシャッ。
 バチバチバチバチバチバチ
 カシャッ。

Type U,


and end

 

 

 

ミッドサマー メモ / MIDSOMMAR MEMO

 映画『ミッドサマー』を観ました。

 鬼気迫る演技に見せ場のある作品なので、人間ドラマについては見れば分かる。云うことなし。でも結局、映画の中では「ホルガ」という空間のシステム自体は外側から解体されなかったわけで、しかしネットにあふれる考察を見てもあんまりそういう見地で観ているひとがいなさそうだし、思ったことを書いてみる。

 以下は特にまとまった論述でもなんでもないのでせいぜい「メモ」程度ってことで。劇中でジョシュが書いてたメモもこういうものだったかもしれない。しらんけど。

 当然ながらネタバレは含むけど、ドラマについては掘り下げない。*1

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜

①周期性

 やっぱりいちばん気になるのは周期性だ。

 ホルガの人々は18歳を一単位として、「〜18歳」「18〜36歳」「36〜54歳」「54〜72歳」という四区分に分かれている。各年齢は春夏秋冬に喩えられており、冬の季節の最後である72歳を迎えると必ず死ぬ。

 年についてもうひとつ重要になってくるのは「90年に一度の祝祭」というギミックだ。夏至祭自体は毎年やってるはずだけど、90年に一回だけ劇中で描かれた大祝祭が行われる。*2

 ここまで踏まえた上ですぐ分かるのは、「大祝祭を経験できるのは生涯で多くとも一度きり」であるということ。ホルガの人々は73年以上生きることがないため、ましてや90年に一度の大祝祭を二回経験することは不可能だ。なんなら一度も経験しないで生涯を終える可能性すら十分ありうるわけで。

 でもここで不思議なのは「どうして大祝祭が72年に一度じゃないの?」というところ。先述の通り、ホルガにおける一生72年間は四季として捉えられており、90年という数字はその四季の「外」にはみ出している。18の倍数という規則性は保持されているものの、やはりここで「90」という数字が導入されている意味がはっきりしない。別に90ってそんなにキリの良い数字でもないし……。

 

②人口管理

 この問題はひとまず脇においておいて、そもそもホルガという村でどのようなシステムがいかなる理由で稼働しているのかを考えなくてはならない。

 明白なのはホルガにおいて非常に厳格な人口管理システムが敷かれており、妊娠・出産と老人の死、そして時折行われるであろう「剪定」は宗教的儀式の中で制御されている。ホルガのような僻地の小村*3においては、人口管理が生き残りの策であることはよく分かると思う。*4

 というか「くじ」が出てきた時点で「シャーリイ・ジャクスンじゃん」ってなったよね。

 

夏至

 もうひとつ気になるのは夏至冬至だ。北欧のホルガで冬至を祝う文化があるとは思えないけど、夏至祭の衣装を冬至のときも着ることは劇中でも言及されている。とはいえやはり「祝祭」の季節は白夜の夏がふさわしい。そして夏至の祭において、生と死を共に扱うこともまた必然的だ。*5

 夏至祭の本質は生命を祝ぐことにあるホルガ村民が厳しい自然と戦い、その存続を勝ち取ってきたことは熊のモチーフをめぐる扱いを見れば分かるし、そういった背景があるからこそ、彼らは大地と自然に敬意を表しつつ生命を祝ぐ。そして祝祭における生贄は決して虐殺ではない。

 例えば、終盤のあるシーン。熊の内蔵を取り出す解体方法を大人が子供に教える場面を思い起こしていただきたい。なんとも猟奇的で狂気をはらんだ印象の場面ではあるが、冷静に捉え直してみよう。畜産はホルガにとっておそらく農業と並んで重要な営みのひとつであり、動物の内蔵を適切に取り出す方法を学ぶことは、彼らにとって生活の要請上ぜったいに必要なことだ。*6夏至祭という「ハレ」の場のある種「戯れ」じみた行為を通じ、子どもたちはその技術を学ぶ

 こうした特徴は他にも見受けられる。花を後ろ向きに摘んでいく場面はまさに「農作業」の場面そのものだし、村人たちが各自オリジナルの刺繍・デザインを施した衣服を身にまとって祭に参加する様子は背景に「裁縫・服飾」の作業があることを想像させる。*7このように夏至祭にはホルガ村民の「生活そのもの」といって良いような重要な営みのカリカチュアが存在しており、まさに夏至祭自体がホルガで生活する上での知恵が詰まった行事であることを見て取れる。

 

④要するに

 というあたりのことを考えた上で、夏至祭で何が行われているのかを整理してみる。

 理屈で考えて、おそらく老人の自害行為は例年の夏至祭で行われているはずであり、「90年に一度の大祝祭」の特徴は「A.外部から子種を用意する」「B.内部の人口を調整する」という二点に集約される。これら(A B)を、ホルガの72年周期が一巡りするたびに(正確には90年周期で)行う、つまり世代が一巡りするごとに行うということは理にかなっていると言える。

 まとめるとこうなる。

 ・恒常的な人口管理

   老人の自害、共同体に承認されていない生殖の禁止

 ・90年に一度の調整

   外部からの男子の招聘(拉致)、生贄

 でもこれを見ると「90年に一度の生贄ってほんとに効果あるの?」という気もしないではない。毎年のようにやっているのであればジャクスンの「くじ」効果が期待できるだろうけど……。こうしてまた①で述べた「90年周期の意味とは?」という問題に戻ってきてしまう。

 おそらく③で言及したような夏至祭の営みというのはたぶん90年周期とは無関係に毎年行われているはず(べき)ものだ。*8こうなってくるとますます90年に一度という意味が分からなくなってくる。先述のAがやはり最大の理由になってくるだろうけど、でもこれは夏至祭以外のタイミングでやってたとしてもおかしくない気がするし……。という感じで思考はここで詰まってしまう。

 

⑤円環構造

 作中のホルガのシステムが円環構造を成していることは言うまでもない。

 ホルガのひとびとのセリフには「cycle」という言葉が登場するし、四季の回転、円環をなす舞踊、そして老人の死が新たな生命に繋がるという死生観がやはり「cycle」である。そして先述の畜産・農業といった営みもやはり四季に支配された円環である。

 しかしながら、ホルガの生活の実態はあくまで外部からの供給に依存している。ここでいう供給は人口、遺伝子の供給であると同時に、生活物資の供給も含む。ホルガ村が文明圏から独立しているかというとだいぶ怪しい。村の生活にも随所に工業製品が登場することから分かるように、彼らも近代文明の前提の上で成立している。前近代ならまだしも、現代において彼らがその伝統を続ける必然性はもはやなく、そのシステムは形骸化しつつあるということは見逃せない。*9

 実際、④で考えた大祝祭のシステムも合理的とはいえない。どちらかというと、「かつては合理的だった仕組みが、その儀礼的外枠のみ残してタブーとして保存されてしまった状態」に見える。90年周期というシステムの非合理性もこのあたりに説明を求めることができるのではないか。つまり、90年単位という長いサイクルの中で「大祝祭」のシステムの合理的部分が劣化したその結果が現代に表れているというふうに捉えることはできないか。

 そして形骸化し、劣化したホルガシステムの行き着く先は単なるカルト宗教に他ならない

 そのあたりにアイロニーとしての、この作品の真骨頂があると思った。

 

 

*1:あとこれはホルガという思考実験の話であって、文化人類学ではない。

*2:具体的にどのあたりが普段の夏至祭と違うのかは明示されない。後述。

*3:都市部との行き来にどれだけ時間がかかるか、作中で明示されていたはずだ。

*4:映画の観覧中、「ホルガでは九年ごとにしか子供を産まないのか?」とも思ったけどさすがにこれは違いそうだ。そうだったらすべてが9の倍数で揃って綺麗だけど、作中で登場する子供の数やマヤの妊娠のタイミングとも合わないし。まぁ9年周期をまったく無視しているわけではないだろうけど。

*5:そもそも実際に行われている夏至祭を参考にすれば別にこの点は改めて言及するまでもないことかもしれない。でも極夜で冬至祭やってる光景もそれはそれで絵になりそう。

*6:あと「皮剥ぎ」の作業もまさにそうだった。

*7:あと布を二人がかりで雑巾みたいに絞ってるシーンもあったよね。

*8:メイクイーンも毎年選抜してるっぽいし。劇中の写真参照。

*9:だって劇中に出てきた規模の家畜と畑から考えて、村全体の生活を自給できてると思えない。

二次元美少女は日本語ラップの希望となるか;言霊少女とかヒプノシスマイクとか

 この記事は「おいオタク! 今、言霊少女が熱いぞ!」ということを伝えるために書いた。言霊少女っていうのは美少女キャラがラップするプロジェクトだ。ヒプノシスマイクからむこう、この手の二次元ラップミュージックが隆盛していることを聞き及んでいるオタクも多いことと思う。今回はそんな言霊少女について、日本語ラップのヘッズも、二次元ラップのヘッズも、そしてまだそんなもの知らんわというオタクにも紹介していこう。

 というわけで、ここでは言霊少女がいかにすごいかというところを、「スキル」「メロディ」「リアリティ」「ユニット」という四点に分けて説明していこうと思う。

 

 とりあえずこれを聞いてほしい。


【MV】向田らいむ/Amplify My Soul! 言霊少女プロジェクト

 ちなみにこの言霊少女という企画、実は生放送とか配信とかでメディアミックスをしているらしいのだけど、筆者は一身上の都合によりあらゆるVtuberの動画を見るのをやめてしまった*1ので音源以外の領域で何が展開されているのかはよく知らない。「コンテンツと向き合う真剣さが足りないんじゃないのか?」と云われたら反論できないんだけど、まぁそのあたりも含めて話していこう。

 

スキル

 ラップが上手い。これが大前提だ。

 言霊少女のメンバーの中で一番ラップらしいラップをするのはヴィルヌーヴ千愛梨だと思う。


【MV】ヴィルヌーヴ千愛梨/C.R.E.A.M. 言霊少女プロジェクト

これがC from M double S  Goddamn

見下してるつもりが気になってんだろ?

心臓林檎 一緒に射抜くウィリアム・テル

 ど頭からこのテクニカルな韻を出されるのだから、たまらない。そっからも「ファースト・ミッション」「フラストレーション」「ワースト生徒」「カースト制度」という固い韻を連打していく硬派さWu-tang Clanの名曲「C. R. E. A. M.」のタイトルをそのまま持ってきた楽曲だけど、その名に恥じぬハーコーなかっこよさがある。

 しかもこのヴィルヌーヴ千愛梨は後述の「Microphone soul spinners! ver.C 」にて、今度は対照的に超ダウナーなトラップの乗せ方を見せたりする。古典から最新式までいけるという幅の広さ。

 

 記事の最初に載せた向田らいむもめちゃめちゃラップが上手い。そもそも名前にライム(韻)ってついてるんだからラップが上手いに決まってんじゃん*2記事の冒頭でリンクを貼った「Amplify My Soul!」も一筋縄ではいかない。

 曲中の「くだらねえ奴 大掃除」のところは日本語ラップ界のレジェンドであるキングギドラの「大掃除」という曲に出てくるフック「この年末 今 世紀末 喰らえ天罰 大掃除」のサンプリングである。恐るべきは「くだらねえ奴」と「喰らえ天罰」で押韻しているところであり、つまり向田らいむはサンプリング越しにステルス韻を隠すという超テクニカルなライマーでもあるのだ。

 リリックの完成度、そして歌い手の多彩な歌唱力によって驚くべき完成度の楽曲が仕上がっている。これが第一のポイントだ。

 

メロディ

 向田らいむの楽曲で印象的なのはアップテンポなビートとメロディだ。

 言霊少女に参加しているキャラはとにかくラップが上手いというのはさっきも書いた。でもこれはなかなかすごいところで、なぜかといえば音源をつくるうえでは下手にラップにするよりもっとメロディアスな「歌モノ」にしてしまったほうが楽だしそれっぽくなるはずだからだ。

 ポップスの歌唱曲ならいざしらず、ラップの仕方を、それも女声ラップを指導できる人材は非常に限られているはずだ。それにキャッチーさを出すのであれば、ラップなんかするより普通に歌った方が手っ取り早い。アイドル歌唱に比べたときのラップ音源のやりづらさはこういうところにある。


【MV】BAE / 「BaNG!!!」 -Paradox Live(パラライ)-

 avexのラッププロジェクトであるパラライのこの曲なんかは、ほぼ全編がしっかりとメロディー付けされている。実際問題として「売れるラップ」の花形はこっちといえるかも知れない。さっきのヴィルヌーヴの「C. R. E. A. M.」みたいなのは少数派だ。

 ただそれだと「ラップらしさ」が抜けていってしまうところもあり、たいがいの場合は「メロディアスなフック(サビ)」&「硬派なラップ」という折衷的なところに落ち着くことになる。


ヒプノシスマイク「Gangsta's Paradise」/碧棺左馬刻Trailer

 例えばRAU DEFがプロデュースしたこの「Gangsta's Paradise」という曲はサビを中心にメロディラインが印象的だが、左馬刻様の声質を活かした図太いラップも入ってる。

 他にもFling Posseの「Stella」のように硬派なラップ、流行りのノリ、歌モノが一緒くたになって類稀な調和を生み出す名曲もある。

 というようなことを踏まえて一番頭にリンクを載せた言霊少女の「Amplify My Soul!」を聞き直してみよう。フックのメロディとラップの融合に注目してほしい。向田らいむの魅力はライムのみならずフロウの上手さにある。

言い返せない 言い訳できない

意思疎通なんて無理じゃない?

って思ってた 真っ暗いschool day(s)

病んでるstudent

  ここは比較的長い韻を語感で踏んでいるところだけど、フロウがしっかりしてるので聞き心地が良い。メロディラインを活かしたラップのお手本のような出来だと思う。アニメ寄りの声質もあって全体としてポップさの際立っているのが向田らいむの特徴だ。

 

 なお言霊少女のメンバーとしては、他にも和ロック調のトラックにポエトリーリーディング風の乗せ方をする与謝野詩歌とか、ポップ調歌モノに強そうな川端ひまわりとかのシングルも2月末に出る。

 あと付け足しておきたいのはトラックの良さアイマスを始めアニメ・ゲーム・ミュージックに携わってきたメンバーが関わっているだけあってクオリティが高い。ラップの上手さの指標として「アカペラで聴けるか」というところがあるけれど、言霊少女の場合では「アカペラでも聴けるラップ」と「インストでも聴けるトラック」が融合している。とにかく贅沢な音源だ。

 

リアリティ

 ここまであえて避けてきた話題がある。HIPHOPとラップの違いだ。

 諸説あるだろうけど、筆者の理解としてはHIPHOPが哲学であり、ラップは手段である。だからラップミュージックがすべてHIPHOPというわけではないし、音楽以外にもHIPHOPの表現手段は存在する。

 で、問題は二次元ラップにHIPHOPは存在するのか、というところだ。HIPHOPというのは表現者の生き様と不可分のものであり、特に「リアリティ」が重視される。嘘をついているやつはHIPHOPではないし、HIPHOPは実証性を重んじるところがあるからフィクションではなく「ナマモノ」であることに意味がある。じゃあまったく虚構のキャラクターにラップさせてもHIPHOPって成立しないんじゃない?

 ヒプノシスマイクはこの問題を上手く解決している。作中には暗い過去を背負ったキャラクターが多く、貧困や犯罪、家庭環境などに対する不満が滲み出るようなリリックが頻繁に登場する。作詞や作曲にアングラで活動するラッパーやDJを招聘しているところもHIPHOPらしさの担保に繋がっているといえる。


ヒプノシスマイク「麻天狼-音韻臨床-」 / シンジュク・ディビジョン麻天狼 Trailer

 シンジュク・ディヴィジョンの楽曲は中でもそうした「暗さ」が顕著だ。

 

 これに対して言霊少女はどうか。しょうじきよくわからない。公式サイトのストーリーとかを見る限りヒプと比べてもかなり虚構性が高いようだし、「不満」の対象となっているのも社会問題ではなく学園内のカースト制度にとどまるようだ。そういうところを見ると「ちょっと行儀が良すぎない?」と思わないでもない。日常生活で目についたあらゆるものをラップするのがHIPHOPなんじゃないか?と思ってしまうところがあるし、あんまり話題を絞りすぎるとすぐに歌うことがなくなりそうだからだ。

 と、いいつつも実は公式もそんなことを見越した上でメディア展開しているのではないか?と思う部分もある。それが先述のヴァーチャル配信系の活動だ。言霊少女に登場するキャラクターが自ら生配信する、あたかもラッパーのインスタライブのように。筆者はヴァーチャルライブもインスタライブもしょうじき苦手なのだけど、それによって虚構の存在であった二次元のラッパーが現実に浸食するような現象が起こったらそれはそれで面白い気もする。こういう試みは誰もやってみたことがないから、どうなるか分からない。もしかしたらとんでもない化け方をするかもしれない。

 

ユニット

 ラップ音源を語るうえで欠かせないのはマイクリレーだ。ヒプもパラライもだいたい三人くらいのユニットでマイクリレー楽曲をたくさん出しているし、オールスターでやる長めの曲も楽しい。

 しかし言霊少女の場合、現在のところマイクリレーは出ていないし、ユニットというよりも四人のメンバーのソロ活動が主体だ。これもこのプロジェクトの特徴なのだけど、実は3月にユニットCDも出るらしい。その頭の曲が「Microphone soul spinners」である。*3

 この曲の面白いところは、各ソロアルバムに各キャラの担当パートだけが切り取られて収録されているところであり、2月現在では各キャラがリリック+フックまでソロで歌うソロバージョンだけを聴くことができる。トラックも各キャラに併せてちょっとずつアレンジがされていたりして面白い。

 この曲を聴いて思い出すのはzeebraの楽曲「GOLDEN MIC」のリミックスだ。


ZEEBRA / GOLDEN MIC (REMIX) feat. KASHI DA HANDSOME, AI, 童子-T, 般若

 KASHI DA HANDSOME、AI、童子-T、般若が参加し、トリの般若によるパンチライン「ガタガタ抜かすな道開けろザコ 言わずと知れた東京のカオ」で有名な曲。ヒプの山田一郎の曲でもサンプリングされていたりする箇所だけど、「GOLDEN MIC」は各人それぞれがシャウトするフックが最高。「Microphone soul spinners」が新たなる「GOLDEN MIC」たりうるのかは知らないけど、とにかく3月の新譜には期待が高まるばかりだな?

 

 という感じで言霊少女は企画としてまだ動き出したばかりなのだけど、ポテンシャルとして非常に高いものを持っている。今後どういう方向に進むのかはさっぱりわからないけれどとりあえず2月末、3月末に出る新譜を楽しみに待ちたい。

 

 

 

*1:だいたいA社のせいだよ。

*2:韻マンじゃん。

*3:ユニット名も曲名と同じあたりNITRO MICROPHONE UNDERGROUD感が強い。