偽史邪神殿

なんでも書きます

(自分用)kindle unlimitedで読める本リスト

 

www.karzusp.net

 

はい。そういうわけでやっていきます。

キンリミで何が読めるのか調べるの、難しすぎる。

別に読んでる本を紹介するわけとかではなく、なんとなく読みたいやつを挙げるだけです。

めんどうくさいので、小説本はシリーズとか作家でまとめて読めるやつだけピックアップします。

ミステリー多め。

 

鮎川哲也コレクション

とりあえず鮎哲を読んでおけば間違いない。本格ミステリに必要なものはすべて鮎川哲也に詰まっている。あと短編集も読めるから適当に有名なのだけ拾っても良い。

 

山田風太郎ミステリー傑作選(光文社)

この前『太陽黒点』読んだら面白かった。解題と解説がちゃんとしてるからそこだけ拾い読みしても得るものはありそう。

 

高木彬光

我らが高木彬光

 

新宿鮫シリーズ

めっちゃ長いしウーンみたいなときもあるけど、ただアベレージは高いからとりあえず一巻だけでも読むと良いんじゃない? 『無間人形』が好き。

 

江戸川乱歩全集

初期のほうはけっこう読んだ記憶がある。名作だけ拾っても良いけど、サブテキストが充実していて乱歩先生が苦悩していたころの話がたくさん読めるのが良い。

 

木枯し紋次郎シリーズ

ミステリ色の強い作品だけでアンソロとか組まれていた気がするので、そういうやつを拾い読みすると良いんじゃないすかね。著者を代表する傑作シリーズだからふつうに読んでも面白いと思うけど。

 

中村雅楽シリーズ

創元で全集出てるけど高いし、主要なやつは講談社で読める。

 

仁木悦子の古めの講談社文庫

仁木悦子の短編を信じろ。

 

法月綸太郎講談社のやつ

なんか知らんけどぜんぶ読める。有栖川有栖もやや読める。

 

小松左京(角川文庫)

小松左京を読んで最強になりたい。

 

竹書房文庫のSF

けっこう数出ててどれが面白いのかまったくわからんけど。

 

横溝正史全般

角川文庫といえば。評論とかも読めるっぽい?

 

QEDシリーズ

この合本は狂気なんよ。メフィスト賞はだいたい読めるらしい。

 

倉阪鬼一郎バカミス

紙では読んだことあるけど…

 

光文社古典新訳文庫

古典新訳を掘り出すとinfinityすぎるから多分よまないと思う。

 

ジャーロ

単行本未収録作を拾っていきたい。

 

小説推理

なんもわからん。清水杜氏彦、伊吹亜門あたりの短編は読みたいかも。

 

岩波少年文庫

ミヒャエル・エンデとかを読みたい。

 

写楽炎シリーズ

腰を据えて読みたい。

 

高橋葉介傑作集

もののけ草紙』とかも読める。いいね。

 

手塚治虫

サブスクで読もうだなんておこがましいとは思わんかね。

 

 

 

ここから下は麻雀漫画の話

 

根こそぎフランケン

新連載開始おめでとうございます。

 

牌賊!オカルティ

有名だけど読んだことない。

 

麻雀放浪記(嶺岸版)

名著です。

 

麻雀群狼記 ゴロ

来賀友志は永遠に生き続けている。

 

 

他になんか見つけたら更新するかも。

 

 

サーシャ・フィリペンコ『赤い十字』感想 / 赤黒いファミリーヒストリー

 

「もしこの惨状を全世界に知らせなかったら、半世紀後には自らの意思でシャベルからものを食べようとする人間が出てくる。
(…)その人たちが囚われているのはもはや収容所ではなく、その人自身なんだからね」(P175)

 

 

 ロシアからベラルーシの首都ミンスクに移住してきた語り手サーシャは、アパートの隣の部屋に住む老婆に話しかけられる。老婆の名タチヤーナ。90代で、アルツハイマー病を患っている。彼女は自分の部屋がわからなくならないようにするため、アパートの共用部分のドアに「赤い十字」を勝手に書き込んでいた。

 老婆はなかば強引にサーシャに話しかけ、頼まれてもいないのに自らの半生を語りだす。ロンドンで生まれ、モスクワに移住した少女時代。ソ連黎明期から第二次大戦までの激動。言語が得意で外務省にて働いていた彼女は、日夜外国から送られてくる文書の翻訳作業に従事していた。そしてある日、赤十字から送られてきた捕虜のリストに自分の夫の名前を見つける。ロシアにおいて捕虜は裏切り者も同じだ。夫が捕虜になったと明らかになれば、自分や娘はどんな目にあうだろうか。彼女はそのリストを翻訳すべきかどうか苦悩しはじめる──。

 

 歴史の証言者である老人の語りと、現代の青年である主人公の日常とが交錯する物語だ。同じような空気を持った作品としては、エマヌエル・ベルクマンの『トリック』や、ベルンハルト・シュリンクの『オルガ』が思い浮かぶ。しかし本書はそれらと共通したところがありつつも、もっと淡白で簡潔であり、感動よりもやるせなさのほうが色濃い。それというのも、本書で描かれている出来事がすでに通り過ぎた「歴史」などではなく、現に今ここにある「現在」だからだ。

 作者のサーシャ・フィリペンコはベラルーシ出身の反体制派作家。デビュー作『理不尽ゲーム』の帯に書かれた「目を覚ますと、そこは独裁国家だった」という一文を知っているひとは多いのではないだろうか。*1恥ずかしながら私は『理不尽ゲーム』を読んでないのですが……。

 本書はソ連赤十字の間で大戦中に交わされた(というより赤十字が一方的に送りつけていた)文書が発想の元になっている。捕虜を見捨てて、赤十字との対話を徹底的に拒んだロシア側の対応が、本書で描かれる悲劇に繋がっていく。日頃、一職員としてロシア政府で働いていたタチヤーナが、突然、究極の選択に迫られるというストーリーはきわめて残酷だし鮮烈だ。

 作者は可能な限り物語の贅肉部分を削り、歴史の芯をえぐり出そうと心がけている。そのおかげで、読者は老婆の語る歴史の物語に没入することができる。彼女の物語は単に悲惨なばかりではない。歴史の中で彼女が何に心を惹かれ、何を重んじて生きていたのか。そして何より、彼女は進行していくアルツハイマー病と戦いながら、どうしてこれほどまでに克明な記憶を持ち合わせているのか。それらが読者にも少しずつわかるように書かれている。

 終盤の展開はミステリー的でもある。数奇な人生を歩んだ老婆は、十字架を背負ってその後半生を生きた。語り手が彼女の人生の行く末と、隠された真実にたどり着く場面には、感動とも悲哀とも違う感情が伝わってくる。伝わってくるのは、これを読まされている私たち自身の肩に載せられた十字架の重みだ。

 ある意味で聖書的な物語でもある。けれども説教っぽかったり、教訓めいていたりするわけではない。タチヤーナが苦しみの中で見出した「神」の姿が、ひとりでも多くの読者に伝わることを願う。

 

 

 

*1:これ

シルヴィア・モレノ=ガルシア『メキシカン・ゴシック』感想 / 混交するもの されるもの

 

 

 

 1950年のメキシコを舞台にしたゴシック・ホラー。うら若き令嬢ノエミ・ダボアダは、田舎に嫁いだ従姉妹からの助けを求める手紙に応じ、彼女の住むドイル家の屋敷に向かう。しかしそこにはおぞましい秘密があった。

 

 あまり大きな動きがないまま話が進んでいくので前半部はどう読んだら良いのかわからなかったけど、途中でペダンチズムや細部の五感の描写に着目して読むように心がけたら上手くハマった気がする。終盤はかなり色々起こるので、ゴシックというよりモダン・ホラーだけど、作者のやろうとしていることは一貫しているのでそれはそれで良い。

 本書においては優生学血統主義に囚われた悪しき者たちと、銀鉱山を中心に発達した街の歴史が絡み合っている。ノエミがドイル家の秘密に迫るにあたって、その全貌が次第に明らかになっていくのが見どころだろう。かなり細かい部分への説明も多いが、後の展開への布石として必要なことを的確に論じている印象があった。

 

 メキシカン・ゴシックという言葉の対義語はアメリカン・ゴシックだろう。アメリカン・ゴシックの意味するところは広汎だが、英語圏の読者がまっさきに思いつくのはグラント・ウッドの絵画だと思われる。この絵はピューリタン清教徒)の厳格さや、不動の開拓者精神を描いたものとして評価されている。*1

 アメリカン・ゴシックと比較したときのメキシカン・ゴシックの特徴はなんだろうか。まず宗教について、メキシコは宗主国スペインの影響を受けたカトリック(旧教)国家だ。作中でも、ノエミが修道女から教育を受けていることや、聖職者である伯父の影響を受けていることが言及されている*2。そしてもうひとつ、メキシコにおいて欠かせないのはアステカ文明の信仰である。中南米最大の文化的特徴は人種と文化の混交であるから、宗教に関してもカトリックと現地信仰の混交は当然ながら起きている。*3

 本書におけるドイル家はきわめて排他的だが、それでいて当主のハワード・ドイルは、利用できるものはなんでも利用してやろうとする貪欲さを兼ね備えている。かれの思想にはアステカの信仰が深く関わっているし、その優生学は単なる白人至上主義ではない。ドイル家はあまりにも狂っているのだが、そこにメキシコという風土の特異性が象徴されているということになるだろう。*4

 

 一点、わからなかったのはドイル家がイギリス系移民だというところ。このテーマでいくならドイル家は侵略者であり征服者でもあるスペイン人のほうが相応しいのではないかとも思える。とはいえ優生学の始祖とされるダーウィンやフランシス・ゴルトンはイギリス人だし、人種の混交というテーマを描くにしても、ピューリタニズムとの比較をやるにしてもイギリス系家族を描くのは適切なのかもしれない。

 ノエミは先住民の血を引いているが、カタリーナはフランス人の血を引いている。英仏はスペインとともに19世紀のメキシコ出兵に介入した国で、作者はそういう歴史的経緯をふまえて書いているようにも思った。

 

 以下、ネタバレ。

 

 

 本書のモチーフのひとつとしてヨモツヘグイがあることは、物語後半になってから明示される。

ペルセポネはザクロの種を数粒食べてしまい、これがハデスの支配する影の世界に彼女をつなぎとめることになった(P259)

 改めて振り返ってみると、本書では食事の場面がきわめて重要になっている。この後の展開で、フローレンスがノエミの食事に「毒」を混ぜていたことが発覚するが、物語序盤からその疑惑は示されている。

 ドイル家を訪れて最初の夕食の場面を見る。

ノエミはキノコをフォークで皿の脇によけながら(P41)

 ここは読み返していてけっこう驚いた部分だ。かなり直球でキノコの話が示されているし、ノエミは直感的に危険を回避している。しかし、同じ場面で次の描写もある。

注がれたワインはどす黒い色をしていて、妙に甘ったるく、好みの味ではなかった。(P41)

 極端に甘いワインというのは本書で何度か出てくるモチーフであり、これがキノコのせいなのはもはや言うまでもない。ノエミはいちおう本能的に危険を察知しつつも、完全にはそれを回避できずにいる。ヨモツヘグイで言うなら、この時点で冥界の柘榴を食べさせられていて、後戻りができなくなっているということだ。

 もうひとつ驚いたのは次の場面。ドイル家に来て二日目の朝だ。

ここの紅茶には、それとわからぬ程度だが間違いなく、フルーツの風味がつけられていた。(P53)

 レモンティーとかだったら誰でも一発でわかるはずなので、なんらかの変わったフレーバーティーだったのだろうと初読時はてきとうに読み流していたが、その後、こういう描写が来る。

「アンズタケ。すごくうまいんだ。(略)地元の人たちはドゥラスニーリョ(桃)って呼んでいる。においを嗅いでごらん」

(略)「甘い香りがするわ」(P135)

 実際に紅茶に入っていたのがアンズタケなのかもっとやばい何かなのかはわからないが、ここはある種の匂わせに読める。フルーツの香りを持つキノコが存在していて、(有害性は置いとくとしても)それをノエミは知らず知らずに飲まされているかもしれないというわけだ。*5

 その後も、ノエミは夕食の場面であまり食事に手を付けなかったりだとか、煙草を吸いまくったりだとかして、ドイル家の食事をできるだけ口にせずに済むような振る舞いをしているものの、本人はキノコが危ないということに気づいていないしドイル家も巧妙なので結局回避することはできていない。そういう「ドイル家vsノエミの直感的な危機回避」の水面下の攻防が本書のもうひとつの見せ場かもしれない。

 

 あと、ノエミとルースの関係もきわめて神話的な(というより聖書的な)モチーフとして描かれているらしい。ノエミ(ナオミ)とルース(ルツ)は旧約聖書のルツ記の登場人物で、ナオミが姑、ルツが嫁という関係にあたる。

 正直、旧約聖書にはあまり詳しくないのだが、ルツ記で描かれているのはユダヤ人の血の継承の逸話だ。そもそも創世記から始まって聖書は家系図的な繋がりを重視する物語であり、ルツ記もその例に漏れない。ルツ記の物語が『メキシカン・ゴシック』と表裏をなす……というのは言い過ぎにしても、ドイル家の狂気の原点が、そうした子孫繁栄の寓話にあるということはできそうだ。

 この話の肝はもうひとつあって、ルツがユダヤイスラエル)人ではなくモアブ人だということだ。モアブ人は独自の信仰を持っている。そしてモアブの国王メシャは自分の息子を生贄に捧げたという逸話で知られている。そんなモアブの出身であるルツがユダヤ人であるナオミとともにユダヤの世界観で生きていくことを選ぶルツ記の物語は、やはり本書と深い繋がりがあるといえる。

 

 ところでノエミとフランシスの関係についてはどう考えてもうまくいく気がしない。だってフランシスの出自が特殊すぎるでしょ。まあ本人たちが良いならそれでいいけど。

 

 

 

*1:ところで、この絵が一見して夫婦を描いているようでありながら、実のところ父娘の肖像として描かれている、という逸話もどこか示唆的だ。本書もまた父娘(ノエミとその父)の会話から始まり、最後にはそれと対極的な父娘(ルースとハワード)にもつれ込むのだから。

*2:P122

*3:もちろんアメリカ人も先住民信仰の影響を受けているが、メキシコのそれとは違う。アメリカン・ゴシック(的思想)はあくまでピューリタンのものなのだ。

*4:逆にアメリカン・ゴシック(文学)がきわめて強い白人至上主義に裏打ちされていることについては、巽孝之の指摘を見るとよくわかる。推薦文・アメリカン・ゴシック1

*5:というわけで、この感想の題につけた「混交するもの」というのは人種・血統のことで、「混交されるもの」というのは飲み物に混ぜられたもののことです。もちろん、作中でも示されている通り、ワインは聖体拝領の際に聖餅とともに使われる「キリストの血」なのでこのあたりのモチーフは一貫している。なお、P347で「聖餐式」という訳語が出てくるけど、ノエミはカトリック信徒なので「聖体拝領」ないし「ミサ」が相応しいように思う。原文ではsacramentだろうか。

エルヴェ・ル・テリエ『異常(アノマリー)』感想 / 死後評価されることについて

 

 死後評価されたい。

 

 オタクなら誰でも一度は夢見ること……つまり「死後評価されること」について考えてみたい。

 不遇の天才だとか不世出の逸材とか、世に色々な「報われない才能」というのはあるけれど、中でも一番かっこいいのは「死後評価される」ことだ。ただ残念ながら、生きている間に自分が死後評価されたかどうかを確かめる術はない。

 でももし自分が死後評価されて、それを知ることができたとしたら……? そんな状況を描いたのが本書だ。

 

 

 

 以下、ふんわりと本書の内容(なんとなくのネタバレ)について触れる。

 

 ヴィクトル・ミゼルは売れない小説家だ。批評家からはそこそこ評価されているが、作品はまったく売れず、よその国のベストセラーを翻訳してなんとか生計を立てている。かれの七作目にして最後の作品が『異常』。かれは『異常』を書いた後、自殺する。

 死後、出版社はかれの悲劇的な生涯に目をつけて、ミゼルを大々的に売り出すことに決める。かくして自殺の報道とともに売り出された『異常』はベストセラーとなり、ミゼルは無事「死後評価される」ことになる。

 その死から二ヶ月後、もうひとりのミゼルが現れるまでは。

 

 大西洋に突如現れた飛行機。それは3箇月前にパリからニューヨークへ向けて飛んだはずの飛行機だった。2021年の3月にその飛行機は無事、ニューヨークに着陸したはず。それなのに、どうして同じ飛行機が、まったく同じ乗客たちを乗せて空中に出現したのか。

 アメリカ政府の上層部と研究者たちは問題の飛行機を着陸させ、調査を開始する。驚くべきことに、3箇月前に飛んだ飛行機の「完全なコピー」が現れてしまったのだ。乗客たちは自分の身に何が起きたのかわかっていない。無論、3月にちゃんと着陸したほうの飛行機の乗客たちは現在もふつうに生活しているわけで、かれらが同じ地球に二人ずつ存在するという事態になってしまう。

 そしてその乗客の中にミゼルもいた。3月に着陸したほうのミゼルは4月に自殺した。しかし6月に着陸したほうのミゼルはまだ生きていて、しかも自分が「死後評価されている」のを目撃してしまう。

 

 ミゼルの話を中心にあらすじを見てきたが、本書のなかでかれのエピソードの占める割合はさほど多くない。三部構成のうち第一部は複数の登場人物(主に乗客)たちの群像劇をグランドホテル方式(あるいは駅馬車方式)で語っていて、ミゼルもそのひとりにすぎない。

 それでもミゼルは特別なキャラだ。なんといっても小説内において作家は特権的な立場だし、かれの作品『異常』は本書のタイトルでもある。本書のメタ構造の鍵を握るのはミゼルにほかならない。*1

 

 フレンチユーモアを無数に織り交ぜた本書だが、そもそもミゼルが「死後評価される」までの経緯が皮肉だらけだ。たしかにかれは死後評価されているけれど、そのきっかけはかれの作家としての実力ではなく「自殺」という行動だし、はたして作中の読者たちがかれの作品の魅力を理解しているのかは怪しい。作中のミゼルがなぜ自殺をしたのかは明かされないままだし、『異常』を書くにいたったかれの心の動きを読み取ることができた者はいたのだろうか。

 しかもそれだけでは終わらず、ミゼルは「生き返って」自分が死後に評価されている様を見てしまう。加えて、6月に着陸したミゼルはまだ『異常』を書いていないミゼルであり、かれは未だ書いたことのない作品について賞賛を浴びることになる。作家にとってこんなに不幸なことはない。

 

 こんな目にあったらさぞや複雑な気持ちだろうと想像するのだが、作中のミゼルは意外にも淡白な反応を見せる。『異常』を書いたのも、自殺をしたのもあくまで別の自分にすぎない。自分は『異常』の真意を知らないし、自殺の真相も知らない、と。

 私はここに本書のもうひとつの残酷さがあると感じる。つまり当のミゼルにとっても、3箇月前に分岐したミゼル(自殺したミゼル)は他人でしかないという残酷さだ。

 たしかにそうかもしれない。自分が数年前に書いた文章を読んで、すごく落ち着かない気分になることがある。自分が書いたはずなのに、別人が書いたような気持ちだ。私たちは日々変化し続けていて、細胞は入れ替わり続けている。昨日の自分と今日の自分が同じである保障なんてどこにもない。これはすごく孤独なことだ。

 死後評価されたミゼル。だがはたして誰がミゼルの真意を見抜いていただろうか。誰がかれの心に寄り添えただろうか。ミゼル本人にすらわからないその想いが誰に伝わるというのか。

 作家と作品は別だ、というのはよく言う話だが、その作品を書いた瞬間の作者と、別の瞬間の作者もまた別人だ。結局、真の意味での作者は「その一瞬」にしか存在し得ない。これは究極の孤独だ。

 

 本書において語られる重要な概念として「シミュレーション仮説」というものがある。その意味するところについてはここでは語らないが、本書自体がシミュレーション仮説に基づく特殊な構造をしている点は注目すべきだ。ミゼルの『異常』とエルヴェ・ル・テリエの『異常』というふたつの小説がメタ的に存在しているのも、このシミュレーション仮説に基づくものである。

 本書においてル・テリエがやろうとしたことは正直わからないが、個人的には「作者を殺す」というのが中心的な発想ではないかと思う。

 シミュレーション仮説は現代版の神学だ。この理屈を考え始めると、我々の住んでいる世界が上位存在にとっての「物語」なのではないか、と疑わなくてはならなくなるし、その上位世界もまた別の上位世界に包含されているのではないか……という疑いが無限に生じる。ミゼルの上位にある『異常』の作者ル・テリエに対し、さらに上位の作者の存在が本書では示唆されている。これにより『異常』という小説は無限に続く上位・下位の世界を貫通し、超越的な意味での作者の地位は剥奪される。

 そして上述した通り、本来的な意味での作者は「その瞬間」にしか存在しない。したがって本書を書いた本当の意味でのル・テリエも今やこの世にいない。作者たるル・テリエは、ミゼル同様「自殺」してしまったのである(もちろん譬喩として)。

 

 本書の結末は(詳述しないが)非常にニヒルでペシミスティックだ。そこがフレンチユーモアの真髄なのかもしれないが、賛否は分かれるだろう。私はどちらかというと否寄りだ。そもそも創作というのはそんなにストイックなものでなくても良いし、実際の作者はさほど孤独でもない。だがミゼルやル・テリエのように究極の小説に挑むことへのあこがれも感じるし、やはり死後評価される書き手にはかっこよさを見てしまう。

 ま、そんなに考え込まずとも、本書は表面的には非常にわかりやすいし、文章が上手い。特に第一部はクオリティが高い。社会を射程に収めたパニックSFとしても読めないこともない。きっと読者によって感情移入したくなるキャラも違うだろう。*2

 

 極北に挑むル・テリエの背中を、遠くから眺めるのもまた一興だろう。

 

*1:ところで本書のあらすじは伴名練「ひかりより速く、ゆるやかに」によく似ている。創作に対する問題意識を語っているという点でも近しい。もっとも「ひかりより」では人類が適切な解決策を見いだすが、ル・テリエは人間を信頼していないのでろくなことにならない。

*2:作者は実験小説でおなじみのウリポの中心的人物だが、本書はエンタメと実験の両方を味わえる。

ムービーウォッチメンの架空の回

◼️前提

以下はRHYMESTER宇多丸が毎週ラジオでやってるムービーウォッチメンという企画の、実際には存在しない回です。書き起こしはすべて架空のものであり、『ドメヒョンヨ』という映画も存在しません。もしかしたら730年後にもムービーウォッチメンが放送されているかもしれませんが、本記事とはなんの関係もありません。ムービーウォッチメンが何か知りたいひとはこれを見てください。

 

宇多丸、『ドメヒョンヨ』を語る!【映画評書き起こし2752.3.15】

◼️

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

 

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、3月11日から全国の劇場で公開となったこの作品、『ドメヒョンヨ』。

 

(曲が流れる)

 

『ヌマロメンサ』『オケスマロメーラー』などの監督ツツ・ルロハ・ロレンドが、主演のマツヤラヒ・ティルネと組んで製作した人間ドラマ。会計士にして悩める父親でもある主人公マックスが、間引きや鈍死といった日常的な問題にぶつかりつつも妻子や真自我とともにそれらを乗り越えていく。

 

ということで、この『ドメヒョンヨ』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、いただいております。ありがとうございます。メールの量は、「多い」。公開当初から話題になっていましたからね。主要なキャラとして鋭死体を演じたマナタサル・テワラーンさんという方……作中では愷之という名前でしたけれども、その方が公開直前に鋭死から蘇生なさったということで、注目を集めていました。

 

賛否の比率は、「褒め」の意見が9割。主な褒める意見としては「感動しました!私は300代なのですがマックスの苦悩は25世紀世代のオジサン層なら共感できるものばかりだと思います」「家庭と仕事の両立という普遍的なテーマをコミカルに描きつつ泣けるシーンもある」「鋭死体の生き生きとした演技が素晴らしい!早くも今年のベストが決まりました!」などがございました。

一方、否定的な意見としては「家庭の描写が古い。真自我を解放的なものとして、父親を閉塞的なイメージとして描くのはステレオタイプすぎる。その部分の配慮が欲しい」たしかにこれはわかる気がしますね。また「上映時間が76時間というのは少し長い」という意見もございました。これについてもあとで触れたいと思います。

 

ということで『ドメヒョンヨ』、私もTOHOシネマズ呶鹵ヶ崎で2回見てまいりました。呶鹵ヶ崎は音響が素晴らしいんですけれども、特にこの映画、家族が一同に会しての団欒の場面。ここで捕食の効果音が出るんですね。これがその、非常にリアルというか、「普通はそこまでやらないだろ!」ってくらいガチな環境で録音されているそうで、できれば音響の良い劇場で観ることをおすすめしますね。

 

音響へのこだわりについてはですね、ツツ・ルロハ・ロレンド監督の前作『オケスマロメーラー』、それに前前作の『ヌマロメンサ』でも非常に強く出ていましてですね、特に食事の場面に非常に繊細な気配りをしていらっしゃるということはパンフレットにも書かれておりました。これは特にその、食事という行為が人間を人間たらしめていると言いますか、生命としての人間が行う最も原初的な行為であると。そういう問題意識が根底にあるわけですね。

 

特にロレンド監督の作品は、最近で言えばタカカナラ・アルタナラ作品的な、現代文明に対する懐疑の姿勢、私たちはこの数百年のうちに死を克服して純粋思念としての亜自我を獲得したわけですけれども、その反面、文化面ではほとんど進歩がないんじゃないかという。そういったなかで人間本来の価値生産的な意味での文化作品を創っていこうというルネサンス的な試みがあるわけですよね。そういう点で食事の場面がひとつの主題になっていると。このあたりは先月紹介した味山塵太郎監督の『家を作る、死を招く』にも通じるかもしれまんせん。

 

一方でね、このロレンド監督という方……まあ主演兼プロデューサーのマツヤラヒ・ティルネさんもそうなんですが、非常に生真面目といいますか。映画に対する向き合い方が真剣すぎて、それが上映時間の長さだとか、あるいはことによると丁寧すぎるとも思える演出に表れているという。個人的にはこれはこれでアリかなとも思うのですが、先ほども紹介した通り「長い」とか「くどい」という感想が出てくるのも当然かとは思います。とはいえ意味なく引き延ばしているといった作品ではないので、その点は安心していいかと。

 

本作はマックスという中年男性の日常に寄り添って、いわば日常の「あるある」をネタにしつつシリアスな方向に話が進んでいくわけですけれど。ここなんかもね、ロレンド監督らしい上手い演出があって。仕事で顧客と打ち合わせをしているマックスの天鈴が突然狂遡してしまう場面。あそこなんかもね、観客は次に何が起こるのかわかるわけですけどそのギャップが卑屈な笑いを誘う。しかも……これはあえて言いませんけれど、こういった小さな笑いが後半の展開に生きてくるというのが、単なるフリで終わらせないと言いますか、この映画の偏執狂的な構成なんですね(笑)。

 

さらに言えば、先ほど紹介した「家庭の描写が古い」という意見。これもね、非常にその、本作のテーマと直結しているところなんですけれども。ご存知の通り人間は23世紀に真自我と亜自我の分離を果たしたわけじゃないですか。そのあとずっと真自我が抑圧されてきたっていう歴史があるわけで。それが2583年に解放政策によってエルレファイアされて、そうした流れが昔で言う黒人解放運動などと重ねられる風潮っていうのがずっとあったわけですよ。

 

それと、この番組でも度々話しておりますけれども、「色」を使った表現について。この映画では「緑」という色が非常に特徴的な使われ方をされております。緑といえば亜自我の色ですよ。その亜自我が真自我とどう向き合っていくのかというところ、その距離感と言うかですね、ぶつかり合いのようなものが物語が進むうちに変化していくわけですよ。これがね、そのまま実際の歴史と呼応していて。だから必ずしもステレオタイプな表現をしようとしているというよりは、むしろ自覚的に、そういったものを取り込んでいる作品なんですね。

 

そして最後にそのジレンマが解消される瞬間。ちょっとね、劇場で観ててうるっときちゃいましたよ。あの場面。ババベドラ・ヅヅルさんの演技が見事でね、これだけでもぜひ見てほしい。まさに一世一代の演技というかですね、生命の叫びというのを触肢の絶妙な動きで表現していたりしてね。ここでも「緑」が象徴的な使われ方をしているのでそこにも注目してほしいですね。

 

あとはですね、やはり父と娘の関係。これが言わば、おなじみの「見る/見られる」の関係になっているんですね。二人の複眼的な視線、これは比喩ではなく事実として複眼なわけですけれども、その視線の差異、違いが物語を動かす鍵になっているという。これもね、マナタサル・テワラーンさんの演技あっての演出だと思いますね。特にね、これは多分わざとだと思うんですけれども、父と娘の両方が左右の画面に出る場面が何度かあるんですよ。これなんかね、単眼の人が見ると父か娘のどちらかの表情しか見ることができない。それによって二人のすれ違いを追体験できるようになっているわけですよ。なので、この映画はそういう意味でも複数回の視聴に耐えうるといいますか、見るたびに新たな発見があるようなそんな映画になっていると思います。

 

ということで、早くも今年の大本命登場!という感じです。やはりね、映画館で見るのが一番な作品だと思いますので、ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

どうして漢文を学ぶのか

 

 

 数年前に学校で漢文についてのレポートを書く機会があって、自分自身何を書いたのかほとんど忘れていたのだけれど、ふと思い立って改めて読み直してみたら割と真面目なことを書いていた。当時の自分はけっこう真剣に勉強していたらしい。実際、このレポート自体はそこそこ良い成績だった。

 ここ数年は漢文には触れていないし、なんなら中国語にもあまり触れられていないが、当時の初心を思い出すべく、ここに一部を抜粋することにしてみる。けっきょく、漢文って何が面白いのか。なぜ漢文を学ぶのか。そういう話を通じて、改めて自分の中の漢文に対するモチベーションを上げていきたいと思う。*1

 分量としては5000字弱。今見るといろいろ直したいところもあるけれど、当時の表現を尊重するため特に直していません(怠惰)。妙に引用が多いのは、当時のレポートがそういうレギュレーションだったからであって、筆者に引用癖があるからとかではありません。

 

一 漢文と「知」について

 英語で「知る」を意味する「know」は、少し変わった性質を持っている語だ。何かを「知る」という行為を意味していながら、実際のところは「知っている」という状態を表すことが多い。「I am knowing something」という表現は不自然である。

 この単語はまた、「you know」という形で英語の日常会話において頻繁に登場する。この場合の「know」は特に意味をなさない。しかしこの「ご存知のように」という言葉は、誰か他者との対話のなかで、相手の「知」を確認するような意味合いがあるのかもしれないと感じることがある。

 いかなる言語形態においても、「知」というのはある種の「運動」であるということを考えてみたい。

 あるものについて、それを「知っている」か否かというのは容易には測り難い。「知」はひとの脳内で起こっているものであるうえ、テストや問答を通じて測定することにも限界があるからだ。そもそも「知る」という行為に終着点があるのかどうかも怪しい。「走る」という行為の終着点は「走り終わる」ことであり、「喋る」という行為の終着点は「喋り終わる」であるが、では「知り終わる」ということはあるのか。

 これは、単に状態動詞と動作動詞の違いという次元の問題ではない。一般的な文法解釈にならい「知る」を状態動詞と仮定しても、同じく状態動詞である「住む」や「生きる」とは異なる。なぜなら「住む」や「生きる」という行為には転居や死による終着点があるが、「知る」には「知らなくなる」という終着点が(記憶喪失にならない限り)想定できない。

 知る、ということは、物事を「知り始めて」からずっと継続する動作なのではないか。ある人物と知り合ったときから、私たちはその人物についての情報を学習し続ける。「某さんのことは知っていますよ」というとき、私たちは某さんのことについて知り始めていて知る途上にあることは間違いないが、決してすべてを「了解」して「知り終えている」わけではない。

子曰、「由、誨女知之乎。知之爲知之、不知爲不知、是知也。」

論語 為政第二]

 論語の中では、右のように「知らざるを知らず」となすことこそ「知」であるとする考えが述べられる。「何かを知る」という行為は、「それまで知らなかったこと」を認識する行為であり、それはすなわち「未知のなにものかが存在することを認める」というような行為でもあるだろう。日常生活においても、「学べば学ぶほど分からないことが増えていく」ということは多い。

 ではもし「不知を不知となす」ことができなければ、そのひとにとって「知」の運動は起こりえないのだろうか。何か新しい出来事が起こったとき、「こういうことが起こりうるのか」と感得してみずからの未知のものとして事態と向き合おうとするひとと、「何も目新しいことではない」と断じてみずからの既知のものとして事態を扱おうとするひとでは、どのような違いが出てくるだろうか。

 東日本大震災が起こった際、「想定外」という言葉が取り沙汰にされたことは、まだ記憶に新しい。この「想定外」という所感は、「不知を既知となしてしまったひと」の末路の好例ではないだろうか。「想定外」という言葉の言外に表れている「想定していないこと、未知のことに対処するのはあまりにも困難だ」という意図は、まさに未知のものを未知のものとして扱う知性を育んでこなかった者の発言のように思われる。

 これはもちろん、来る災害を想定しその備えをすること自体を批判しているわけではない。ただ、人間の想定には限界があり、いかなる場合においても万全な備えなどありえないということを留意しなければいけないはずだ。荘子にも次のように述べられている。

小知不及大知、小年不及大年。

荘子 逍遥遊]

  人知にも言語にも限界がある。そのことは事実として認めなければならない。しかし「想定外のことには対処できない」というような立場を取ってしまうことは、未知の出来事が起こってもそれに対して今までどおりの知の枠組みで対応しようとしてしまうことを意味する。それでは不十分なのではないか。不測の事態に際して意識せず既存の枠組みの中で物事を考えてしまう危険性については、『三国志』から見ることもできる。数字上の劣勢を覆して官渡の戦いにおいて袁紹に勝利した曹操は、次のように述べている。

公曰、「吾任天下之智力、以道御之、無所不可。」

三国志巻一 魏書一 武帝紀]

 ここでいう「天下の智力」こそ、曹操を激励した荀彧に代表されるような、既存の知の枠組みを刷新しながら新事態と向かい合う知性ではないか。未知の出来事が起こった際、「不知を不知となす」ことによって自らの知の枠組み自体を更新していかなければ、未知の出来事に対応することはできない。

 しかし、必ずしも「不知」を標榜していれば良いというわけではないのが、難しいところだ。

弼曰、「聖人體無、無又不可以訓、故言必及有。老荘未免於有、恆訓其所不足。」

世説新語 文学第四―08]

 王弼は、無を体得している聖人もそれを言葉にしてしまえば有になってしまう、と述べている。「無」という概念があまりにも漠然としているため解釈は容易でないが、「知」についても同じようなことがいえるのかもしれない。つまり、己の「不知」を明瞭に認識していることが望ましいが、だからといって「私は何も知らない」と嘯くのは知性でもなんでもないということだ。大切なのは自分の「知」に対する姿勢であって、「不知」であり続けることではない。

「不知を不知となす知」は、回転し続けるエンジンのように私たちの脳で稼働している。会話の中で「you know」と差し挟むとき、私たちは他者の「知」のエンジンが稼働していることを期待し、確認しているのではないか。終着点のない「知」の行為の中で、みずからの「知」のエンジンを回し続けることが「知」と向き合う学びに際して求められている。

 

二 漢文・中国古典を学ぶ意味

 高校の時分、漢文が好きだった私は、この科目があたかも無益な科目であるかのようにいわれるのが悔しかった。だから、私はこうした言説に反論するべく、理屈を考えた。それは以下のようなものだった。

「漢文とはただ単に中国古典を読む行為ではなく、中国古典を読解しようと試みた過去の日本人の思考の痕跡をたどる作業だ。白文に返り点を打ち、それを読んでいく作業は、日本人が中国の文献からあらゆるものを読み取り、みずからの文化に取り込んでいった歴史を再現する行為である。そうした形で中国古典と、そして日本人の思考の歴史をたどることは、きわめて特殊な意味合いがあり、漢文なしに日本文化の歴史を追うことはできない」

 現在においても、この主張は我ながらある程度の説得力を持っているように思うが、同時に一面的な解釈であるようにも感じられる。そこでいまいちど中国古典を学ぶことの意味というものと向き合ってみることとしたい。

天寒鳥已歸

月出山更靜

土空延白光

松門耿疏影

躋攀倦日短

語樂寄夜永

明燃林中薪

暗汲石底井

……

[杜詩詳注巻七「西枝村尋置草堂地夜宿贊公土室二首」其二]

天寒く鳥已に歸り/月出でて山更に靜かなり/土室 白光を延き/松門 疏影耿かなり/躋攀して日の短きに倦み/樂しきを語りて夜の永きに寄す/明らかに燃ゆ 林中の薪/暗きに汲む 石底の井 

 右の杜甫の詩は、「靜」と形容される情景を詩文によって表現しようとした試みだ。講義の中では、それそのものの性質上言語化することができない「靜」という概念について様々な検討がなされた*2。靜というのは、その静謐な空間で感覚を研ぎ澄ます自己がなければ成立せず、誰かに説明されて納得するようなものではないからだ。さて改めて見てみると、杜甫の詩はこの問題をしっかりクリアしているように思われる。五言詩の僅かな情報量だけでは、そこに描かれている情景をありありと描写することは難しい。必然的にそこには読み手の想像力が必要となる。そして読み手はそこに並んだ文字から風景・情況を想像し、見出していく。その行為は実際の景物を見るのとよく似た感覚器官のはたらきを要求しているように思われる。だからこそ、この漢詩文を読むという行為には必然的に感覚を研ぎ澄ます読み手の靜が成立している。

春眠不覺暁

処処聞啼鳥

夜来風雨声

花落知多少

[孟浩然「春暁」]

春眠暁を覺えず/処々に啼鳥を聞く/夜来風雨の声/花落つること知んぬ多少ぞ

  この詩は、科挙に合格せず惰眠を貪る作者の境遇と、それとは無関係に訪れる春の日夜を想起させる。起句で「暁を覺えず」と詠み、転句で「夜来風雨の声」と詠むところからは、夜遅くまで眠れず風雨の音に耳を傾け、しまいに朝まで寝過ごしてしまう作者の毎日が感じられる。そうした「自分の生活など気にも留めずに回っていく自然や世間」が切り取られている詩である、というのが私の印象だった。

 杜甫と孟浩然のこれらの詩を見ると、両者がともに言葉の余白、つまり語られていないことを詩歌の重要な要素として機能させていることに気付く。杜甫の詩に顕著に表れていた「読み手が感覚を研ぎ澄ます必然性」は、春暁の詩にも多少なりとも存在している。それは詠み込まれている景物のすぐそばに必ずあるはずの、しかし直接的に言及されない孟浩然自身の有様であり、その余白に思いを馳せたときこの詩はいっそうの深みを持つ。

何處秋風至

蕭蕭送雁群

朝來入庭樹

孤客最先聞

[劉禹錫「秋風引」]

何処よりか秋風の至る/蕭々として雁の群れを送る/朝来庭樹に入り/孤客最も先に聞く

山鳥飛絶

萬逕人踪滅

孤舟蓑笠翁

獨釣寒江雪

[増広註釈音弁唐柳先生集巻四十三「江雪」]

千山 鳥飛ぶこと絶え/万逕 人踪滅す/孤舟 蓑笠の翁/独り釣る 寒江の雪

 そうした視点を踏まえて、右の二詩も見てみたい。劉禹錫の詩は比較的明快に情景を説明しているが、「秋風」「雁」「庭樹」という風に視点が移動したあとで最後になって感受者である「孤客」が登場する。孤客は「最も先に聞」いたあとで、秋風の来歴を想像しているはずなのに、詩中の描写はそれとは逆に風の流れる順序に沿って進んでいく。この奇妙な食い違いが詠み手である劉禹錫と読み手である我々の一筋縄ではいかない関係を強烈に意識させる。そしてまた、同時に風に乗って進むような独特の視点移動を生み出していることも間違いない。手法の妙によって読み手に対し、余白部における重層的な読みを可能にしているという部分に注目したい。

 柳宗元の詩は起句、承句で人気のない情景が説明され、その中にひっそりといる蓑笠の翁と、その視線の先にあるであろう雪景色が描かれる。孤独な環境は丁寧に説明されているのに対し、その具体的情景については読み手に委ねられているようにも感じられる。

 

 結局のところ、中国古典を読むことの意味合いとは何か。日本語話者にとっては、中国古典こそ日本語文化の最重要のルーツであり、それをたどることで日本人の思考の歴史を追うことができるというのは先述した。しかし、それだけではない。日本も含めた世界各地であらゆる文学があるなか、あえて中国古典を読むことで感じられるのは、「親近感」かもしれないと思う。

 中国と日本は東アジアの中でも特に近い文字文化を共有している。そうした文化的な「親近感」の話でもある。そしてまた、ここまで見てきたように中国古典には書き手の言葉の余白を、読み手が補っていくような性質が色濃く表れている。これはつまり中国古典を前にしたときの読み手(特に漢文成立の事情とは一歩引いた視点に立つ日本の読み手)が、ただ受動的ではありえないということを意味する。これによって読み手はある程度能動的な関わり方で文章に接することになり、読み手は書き手と近い立場になっていくのではないか。中国古典の与えるもうひとつの「親近感」とは、遠い立場にあるはずの古の中国の書き手と、現代の日本の読み手の間に生まれる親近感だ。

*1:ブログタイトルも魏志倭人伝から取ってるんだし、たまには漢文の話をしてもいいでしょ

*2:そういう授業だったんです

オッドタクシーとHIPHOP

「オッドタクシー」は2021年春絶賛放送中のアニメだ。脚本・映像感覚・テンポなど様々な点で優れている作品であり、特に個人的にはミステリ的な興趣に心を惹かれるのだが、そうしたドラマ面での面白さについてはいつかどこか別の場所で話すとして、今回はHIPHOPの話をしたいと思う。

 なおこの記事ではマニアックな話をしていくけれども、「オッドタクシー」自体はなーんにも考えずに楽しめる最高のアニメなので、この記事がつまらなからといって愛想を尽かさないでほしい。本当に万人におすすめできる良いアニメです。

 


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 さてこの「オッドタクシー」というアニメ。自分の身の回りではあまり話題になっていなくて、第六話放映時くらいまで名前すら知らなかったのだが、見るきっかけになったのが上の動画(My Name is - ヤノfeat.PUNPEE)だ。

 元々個人的にHIPHOPが好きだというのもあって、もちろんPUNPEEやSUMMITのこともなんとなく追いかけてはいたんだけれども、そんななかで唐突にこの動画が出てきたわけである。なんだこれは。聞いてみると「オッドタクシー」というアニメの登場人物であるヤノの作中曲的位置づけらしい。しかもPUNPEE本人がhookを歌ってる! さらに言えばヤノ役はプロのラッパーであるMETEORと来てる。

 そんなアニメがあるのか!

 さらに調べてみると「オッドタクシー」はあの「セトウツミ」で有名な漫画家・此元和津也が脚本をつとめるミステリーだという……なんという奇跡的なコラボレーション……アボガドと醤油みたいな海を越えたマリアージュ……いや海は越えてないが。

 で、このアニメのすごいところはPUNPEE、METEORをはじめとするHIPHOPアーティストが、単に楽曲提供というだけでなくがっつり製作に関わっていることである。そのあたりの細かいところは↓の記事に詳しい。

kai-you.net

 また↓の記事にはアニメ製作チームとHIPHOPサイドの協力体制の深さが書かれている。

【座談会】木下麦 × OMSB × PUNPEE × VaVa 『オッドタクシー』| アニメのサントラの作り方 - FNMNL (フェノメナル)

 ……という感じで、専門知識的なところは上の記事を読めばかなり良くまとまっているので、この記事では個人的に「すげー」と思ったところをまとめていこうと思う。

 

生のHIPHOP

 そもそも皆さん、ラップって聞きますか?

 HIPHOP≒ラップミュージックは米国では最も流行っている音楽ジャンルだと言われているし、日本でもかなり理解が進んでいる(現在進行系)と思うが、それにしてもやっぱり門外漢からすればよくわからない存在であるのは間違いない。特にアニメという媒体でHIPHOPを扱うことの難しさには、やはり「HIPHOPに対する無理解」という問題が巨大な壁としてそびえ立っている。

 そもそもカッコいいHIPHOP、イケてるHIPHOPというものを「体験」したことがないひとにとってはラップ自体がなんかギャグっぽく映ってしまうのはしょうがないことだと思っていて、実際ドラマとかアニメとかでラッパーが出てくるとそれだけでギャグになってしまうことは多い(皆さん思い当たることがたくさんあるでしょう)。


www.youtube.com

↑「ゾンビランドサガ」のラップバトルはかなりよく出来ていた部類だと思うけど、これを見てHIPHOPへの理解が深まったりするわけではないと思う。

 一方で、「ヒプノシスマイク」のように割とHIPHOP文化をよく理解した上でコンテンツとして組み上げてくる作品も出てきている*1。だがヒプマイはかなり独自色の強い世界観の作品であり、作中人物たちを取り巻く環境が現実のHIPHOPの状況とは大きく異なる。それがヒプマイの魅力でもあるのだが、同時に「ねじれ」でもあると思う。ヒプノシスマイクにおいては作品世界にHIPHOPをなじませるために、HIPHOPの尖った部分を少なからずマイルドに「変換」しているし、HIPHOP的な文脈を作中のストーリーに「翻訳」する処理がなされている。

 要するに、翻訳とか変換とかを挟まずに「生(き)」HIPHOPを摂取できるようなアニメが欲しかったのだ。

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http://www.taikaisyu.com/27-03/28.html

 そこで出てきたのが「オッドタクシー」だったわけである。この作品ではなんといっても本物のHIPHOPアーティストが製作に噛んでいる。楽曲提供のみならずサントラに至るまで。しかもSUMMITやSIMI LABというHIPHOPの中でも特にアングラとサブカルを縦横無尽に行き来するユニット(レーベル)が関わっているというのが衝撃的だった。*2

 

HIPHOPとの距離感

  そしてもうひとつ感心させられたのはHIPHOPとの距離感だった。

 感覚的な話になってしまうが、これまでHIPHOPの絡むアニメ等では「ラップやってます!」感というか、HIPHOPやってます!」感が強すぎたのではないかと思う。特にメディアにおけるラップのイメージをダサくしているのが、いかにも「ラッパーでござい」みたいなファッションとかラップの仕方(フロウ)なのはもう明らかであって、そういうステレオタイプな演出に視聴者はもう飽き飽きしていたんじゃないだろうか。

 そこを行くと「オッドタクシー」のヤノは異色だ。なんていうか……ラッパーが演じているのにラッパーじゃない! もちろんヤノはHIPHOP文化に強い憧れやリスペクトを持っているキャラなのだが、本職はギャングスターであってラップはあくまで彼の「言語」にすぎない。

 ヤノは喋るとき必ず韻を踏みながら喋る、という癖がある。まぁ実際に文字起こしを見てみよう。

しつこいし長げーしうるせーよ着信音
こっちだって色々抱えてんだよサブミッション
ある依存症の薬キメて寝てぇけどコンテナ船
もううるせー
もうしませんもうしませんって
そろそろ名申しません? そんで誰

あぁおかよマネージャー a.k.a. 山本
ちょっとおせーじゃ ねーか
抱えてる案件ヤマ)もっと
たくさんあるんだろうけど
Time is money じゃあねーのかよマネージャー
早いとこ来ねーとあいつの二の
そうこの前言った倉庫の前

 ヤノの喋り方にはかなり癖がある。いわゆるオーソドックスなラップの仕方として一般的に想像されるのは偶数小節末で韻を踏むやつ*3だと思うが、ヤノの韻はかなり混線している。しかも韻を強調した喋り方をあまりしない上に、いわゆる子音踏み*4や語感踏み*5が極端に多いため、かなり玄人好みの韻だといえる。

 もうひとつ特徴的なのはヤノのフロウ(歌い方)で、これはかなり日常会話に近い抑揚でラップをしている。先述の「韻をあまり強調しない」というのもそうだが、ヤノはあくまで日常生活の中で言語としてラップを取り込んでいるので、音楽的な聞き心地を優先して歌謡っぽい発声をしたりはしない。演者であるMETEORのフロウが元々かなり独特というのもあるが、それだけでなくこれは演出的な要請ではないかと思う。ヤノの喋りはあくまでラップミュージックと日常会話の中間なのだ。

 ちなみに普段喋るのと同じようなテンションでラップするラッパーはそこそこいるのだが、代表的なのはやっぱり漢a.k.a.GAMIだと思う。特に漢さんは普段喋ってるだけでもなんかラップしてるみたいな風格があるし、実際フリースタイルラップをやってるひとは多かれ少なかれ日常会話の中にもフリースタイルを意識していると思うので、そういう意味でヤノがラップっぽい日常会話をするのはすごく「っぽいな」と思う。*6

 

 そしてこの「日常とラップの中間」というのが非常に重要だと思う。HIPHOPってライフスタイルだから、普通に日常生活の中に取り込まれているべきものなんだよ。「俺、ラップやってます……!」みたいなのがなんか違うのはそういうところで、「普通に生きていること自体がHIPHOP」みたいな、そういうのがよりHIPHOP的だと思う。*7

 で、ヤノは本当にそういう意味でHIPHOPなキャラで、もちろんアウトローとしてのかれの生き様みたいなのもそうだし、息を吸うようにラップのことを考えてそうなのもそうだし、何よりそれがひとつの個性として作品全体を通してみてもあまり「浮く」ことなく光っているのが素晴らしいと思う。

 ついでに言えば、ヤノを取り出してみるまでもなく、「オッドタクシー」のサントラはHIPHOPアーティストたちが作ったHIPHOPサウンドなわけで、そういう意味で視聴者は「いつの間にか」HIPHOPの世界に巻き込まれている。PUNPEEが手掛けるOP曲は当然ながら、三森すずこだってEDでラップ調の歌い方をしてるし、ミステリーキッスの楽曲を作ったのも(にわかには信じられないけど)バチバチHIPHOP出身のVaVaだし、そういう濃淡のあるHIPHOP表現へとシームレスに視聴者を誘導しているのがこの作品なのである。

「オッドタクシー」は視聴者とHIPHOPとの間にあったはずの距離感をいつの間にか「無化」している。気がつけばHIPHOPの中に自分がいる。そんな不思議な感覚をくれるのだ。

 

アウトロー文化

 あと忘れちゃいけないのは、さっきも書いた通り、ヤノがギャングスターで犯罪者であるということ。HIPHOPアウトロー文化は切っても切れない関係であり、この作品はしっかりそこも意識している。別にHIPHOPって不良だけの音楽ではないと思うんだけど、ただそういうイリーガルなものを無視しない、そういうのを直視していく、というような社会的な要素の含む音楽であることは間違いない。

 それこそPUNPEEやMETEORはぜんぜんギャングスタ・ラップのスタイルではないし、もっと明るい(?)作風のプレイヤーだが、でもそういうかれらが作り上げた作品が、しっかりギャングスタの文脈を押さえているというところが尊い

 それに、ヤノのみならず「オッドタクシー」には犯罪を計画したり加担させられたりする登場人物たちが多数登場する。この作品はデフォルメが効いてるけど、描いていることはけっこうシビアな社会そのものだ。そういう硬派なところもある作品だからこそ、HIPHOPを扱うのに相応しいと思う。

 HIPHOPのイリーガル性というのは、「法に抗うことのカッコよさ」みたいなのも多分あるのだが、でも別に不良礼賛とかそんな単純な話ではなくて、「ただそこにある現実」を綺麗事抜きに、あるがままに語ろうとする試みなのではないかと思っている。「オッドタクシー」の製作チームはおそらくそのことをちゃんと理解しているし、だからこそこういう作品が作れる。その意識の高さに感心させられるのである。

 

 おわりに

 最後に、これはちょっと単なる個人的な好きポイントなんだけど、ヤノが喋りだすときだけBGMにキック&スネアが入ってHIPHOP色が増すのがめちゃめちゃ好き。でもこれ視聴者だからビートが聞けるけど作中現実ではビートはないからヤノがずっとアカペラで喋ってるだけなんだよな……と思うとちょっとおもろい。METEORさんはこれを機に「ヤノEP」とか出してどんどんビッグになってほしいな……。

 というわけで絶賛放送中の「オッドタクシー」だが、第12話のサブタイはなんと「たりないふたり」だった。漫才とHIPHOPが好きなひとなら、この言葉の重みがわかるはずだ。まさにこの作品を象徴するような言葉でもある。

 本編も完結目前だ。しっかりと見届けたい。

 

*1:ヒプマイのことはめっちゃ好きです

*2:個人的に、SIMI LABのメンバーがアニメの製作に関わっているという事実は、漢a.k.a.GAMIがフリースタイルダンジョンに出演して以来のビッグニュースだと思う。

*3:俺がNo.1 HIPHOP dream、不可能を可能にした日本人、みたいなやつ

*4:同音異義語で踏むこと。「そうこの前」「倉庫の前」みたいなの

*5:完全に母音が揃っていなくても語感で踏むこと。「そう戦友だったよ昔はな」「ボスの前に咲く二人花」のように文頭と文末だけ韻になってるケースなどが多い

*6:あとフリースタイル(即興)だと韻が小節末とかに限らず思いついた順に発せられることも多くて、ヤノの喋り方はそういう点ですごくフリースタイルっぽい。

*7:ZORNじゃん