偽史邪神殿

なんでも書きます

サーシャ・フィリペンコ『赤い十字』感想 / 赤黒いファミリーヒストリー

 

「もしこの惨状を全世界に知らせなかったら、半世紀後には自らの意思でシャベルからものを食べようとする人間が出てくる。
(…)その人たちが囚われているのはもはや収容所ではなく、その人自身なんだからね」(P175)

 

 

 ロシアからベラルーシの首都ミンスクに移住してきた語り手サーシャは、アパートの隣の部屋に住む老婆に話しかけられる。老婆の名タチヤーナ。90代で、アルツハイマー病を患っている。彼女は自分の部屋がわからなくならないようにするため、アパートの共用部分のドアに「赤い十字」を勝手に書き込んでいた。

 老婆はなかば強引にサーシャに話しかけ、頼まれてもいないのに自らの半生を語りだす。ロンドンで生まれ、モスクワに移住した少女時代。ソ連黎明期から第二次大戦までの激動。言語が得意で外務省にて働いていた彼女は、日夜外国から送られてくる文書の翻訳作業に従事していた。そしてある日、赤十字から送られてきた捕虜のリストに自分の夫の名前を見つける。ロシアにおいて捕虜は裏切り者も同じだ。夫が捕虜になったと明らかになれば、自分や娘はどんな目にあうだろうか。彼女はそのリストを翻訳すべきかどうか苦悩しはじめる──。

 

 歴史の証言者である老人の語りと、現代の青年である主人公の日常とが交錯する物語だ。同じような空気を持った作品としては、エマヌエル・ベルクマンの『トリック』や、ベルンハルト・シュリンクの『オルガ』が思い浮かぶ。しかし本書はそれらと共通したところがありつつも、もっと淡白で簡潔であり、感動よりもやるせなさのほうが色濃い。それというのも、本書で描かれている出来事がすでに通り過ぎた「歴史」などではなく、現に今ここにある「現在」だからだ。

 作者のサーシャ・フィリペンコはベラルーシ出身の反体制派作家。デビュー作『理不尽ゲーム』の帯に書かれた「目を覚ますと、そこは独裁国家だった」という一文を知っているひとは多いのではないだろうか。*1恥ずかしながら私は『理不尽ゲーム』を読んでないのですが……。

 本書はソ連赤十字の間で大戦中に交わされた(というより赤十字が一方的に送りつけていた)文書が発想の元になっている。捕虜を見捨てて、赤十字との対話を徹底的に拒んだロシア側の対応が、本書で描かれる悲劇に繋がっていく。日頃、一職員としてロシア政府で働いていたタチヤーナが、突然、究極の選択に迫られるというストーリーはきわめて残酷だし鮮烈だ。

 作者は可能な限り物語の贅肉部分を削り、歴史の芯をえぐり出そうと心がけている。そのおかげで、読者は老婆の語る歴史の物語に没入することができる。彼女の物語は単に悲惨なばかりではない。歴史の中で彼女が何に心を惹かれ、何を重んじて生きていたのか。そして何より、彼女は進行していくアルツハイマー病と戦いながら、どうしてこれほどまでに克明な記憶を持ち合わせているのか。それらが読者にも少しずつわかるように書かれている。

 終盤の展開はミステリー的でもある。数奇な人生を歩んだ老婆は、十字架を背負ってその後半生を生きた。語り手が彼女の人生の行く末と、隠された真実にたどり着く場面には、感動とも悲哀とも違う感情が伝わってくる。伝わってくるのは、これを読まされている私たち自身の肩に載せられた十字架の重みだ。

 ある意味で聖書的な物語でもある。けれども説教っぽかったり、教訓めいていたりするわけではない。タチヤーナが苦しみの中で見出した「神」の姿が、ひとりでも多くの読者に伝わることを願う。

 

 

 

*1:これ

シルヴィア・モレノ=ガルシア『メキシカン・ゴシック』感想 / 混交するもの されるもの

 

 

 

 1950年のメキシコを舞台にしたゴシック・ホラー。うら若き令嬢ノエミ・ダボアダは、田舎に嫁いだ従姉妹からの助けを求める手紙に応じ、彼女の住むドイル家の屋敷に向かう。しかしそこにはおぞましい秘密があった。

 

 あまり大きな動きがないまま話が進んでいくので前半部はどう読んだら良いのかわからなかったけど、途中でペダンチズムや細部の五感の描写に着目して読むように心がけたら上手くハマった気がする。終盤はかなり色々起こるので、ゴシックというよりモダン・ホラーだけど、作者のやろうとしていることは一貫しているのでそれはそれで良い。

 本書においては優生学血統主義に囚われた悪しき者たちと、銀鉱山を中心に発達した街の歴史が絡み合っている。ノエミがドイル家の秘密に迫るにあたって、その全貌が次第に明らかになっていくのが見どころだろう。かなり細かい部分への説明も多いが、後の展開への布石として必要なことを的確に論じている印象があった。

 

 メキシカン・ゴシックという言葉の対義語はアメリカン・ゴシックだろう。アメリカン・ゴシックの意味するところは広汎だが、英語圏の読者がまっさきに思いつくのはグラント・ウッドの絵画だと思われる。この絵はピューリタン清教徒)の厳格さや、不動の開拓者精神を描いたものとして評価されている。*1

 アメリカン・ゴシックと比較したときのメキシカン・ゴシックの特徴はなんだろうか。まず宗教について、メキシコは宗主国スペインの影響を受けたカトリック(旧教)国家だ。作中でも、ノエミが修道女から教育を受けていることや、聖職者である伯父の影響を受けていることが言及されている*2。そしてもうひとつ、メキシコにおいて欠かせないのはアステカ文明の信仰である。中南米最大の文化的特徴は人種と文化の混交であるから、宗教に関してもカトリックと現地信仰の混交は当然ながら起きている。*3

 本書におけるドイル家はきわめて排他的だが、それでいて当主のハワード・ドイルは、利用できるものはなんでも利用してやろうとする貪欲さを兼ね備えている。かれの思想にはアステカの信仰が深く関わっているし、その優生学は単なる白人至上主義ではない。ドイル家はあまりにも狂っているのだが、そこにメキシコという風土の特異性が象徴されているということになるだろう。*4

 

 一点、わからなかったのはドイル家がイギリス系移民だというところ。このテーマでいくならドイル家は侵略者であり征服者でもあるスペイン人のほうが相応しいのではないかとも思える。とはいえ優生学の始祖とされるダーウィンやフランシス・ゴルトンはイギリス人だし、人種の混交というテーマを描くにしても、ピューリタニズムとの比較をやるにしてもイギリス系家族を描くのは適切なのかもしれない。

 ノエミは先住民の血を引いているが、カタリーナはフランス人の血を引いている。英仏はスペインとともに19世紀のメキシコ出兵に介入した国で、作者はそういう歴史的経緯をふまえて書いているようにも思った。

 

 以下、ネタバレ。

 

 

 本書のモチーフのひとつとしてヨモツヘグイがあることは、物語後半になってから明示される。

ペルセポネはザクロの種を数粒食べてしまい、これがハデスの支配する影の世界に彼女をつなぎとめることになった(P259)

 改めて振り返ってみると、本書では食事の場面がきわめて重要になっている。この後の展開で、フローレンスがノエミの食事に「毒」を混ぜていたことが発覚するが、物語序盤からその疑惑は示されている。

 ドイル家を訪れて最初の夕食の場面を見る。

ノエミはキノコをフォークで皿の脇によけながら(P41)

 ここは読み返していてけっこう驚いた部分だ。かなり直球でキノコの話が示されているし、ノエミは直感的に危険を回避している。しかし、同じ場面で次の描写もある。

注がれたワインはどす黒い色をしていて、妙に甘ったるく、好みの味ではなかった。(P41)

 極端に甘いワインというのは本書で何度か出てくるモチーフであり、これがキノコのせいなのはもはや言うまでもない。ノエミはいちおう本能的に危険を察知しつつも、完全にはそれを回避できずにいる。ヨモツヘグイで言うなら、この時点で冥界の柘榴を食べさせられていて、後戻りができなくなっているということだ。

 もうひとつ驚いたのは次の場面。ドイル家に来て二日目の朝だ。

ここの紅茶には、それとわからぬ程度だが間違いなく、フルーツの風味がつけられていた。(P53)

 レモンティーとかだったら誰でも一発でわかるはずなので、なんらかの変わったフレーバーティーだったのだろうと初読時はてきとうに読み流していたが、その後、こういう描写が来る。

「アンズタケ。すごくうまいんだ。(略)地元の人たちはドゥラスニーリョ(桃)って呼んでいる。においを嗅いでごらん」

(略)「甘い香りがするわ」(P135)

 実際に紅茶に入っていたのがアンズタケなのかもっとやばい何かなのかはわからないが、ここはある種の匂わせに読める。フルーツの香りを持つキノコが存在していて、(有害性は置いとくとしても)それをノエミは知らず知らずに飲まされているかもしれないというわけだ。*5

 その後も、ノエミは夕食の場面であまり食事に手を付けなかったりだとか、煙草を吸いまくったりだとかして、ドイル家の食事をできるだけ口にせずに済むような振る舞いをしているものの、本人はキノコが危ないということに気づいていないしドイル家も巧妙なので結局回避することはできていない。そういう「ドイル家vsノエミの直感的な危機回避」の水面下の攻防が本書のもうひとつの見せ場かもしれない。

 

 あと、ノエミとルースの関係もきわめて神話的な(というより聖書的な)モチーフとして描かれているらしい。ノエミ(ナオミ)とルース(ルツ)は旧約聖書のルツ記の登場人物で、ナオミが姑、ルツが嫁という関係にあたる。

 正直、旧約聖書にはあまり詳しくないのだが、ルツ記で描かれているのはユダヤ人の血の継承の逸話だ。そもそも創世記から始まって聖書は家系図的な繋がりを重視する物語であり、ルツ記もその例に漏れない。ルツ記の物語が『メキシカン・ゴシック』と表裏をなす……というのは言い過ぎにしても、ドイル家の狂気の原点が、そうした子孫繁栄の寓話にあるということはできそうだ。

 この話の肝はもうひとつあって、ルツがユダヤイスラエル)人ではなくモアブ人だということだ。モアブ人は独自の信仰を持っている。そしてモアブの国王メシャは自分の息子を生贄に捧げたという逸話で知られている。そんなモアブの出身であるルツがユダヤ人であるナオミとともにユダヤの世界観で生きていくことを選ぶルツ記の物語は、やはり本書と深い繋がりがあるといえる。

 

 ところでノエミとフランシスの関係についてはどう考えてもうまくいく気がしない。だってフランシスの出自が特殊すぎるでしょ。まあ本人たちが良いならそれでいいけど。

 

 

 

*1:ところで、この絵が一見して夫婦を描いているようでありながら、実のところ父娘の肖像として描かれている、という逸話もどこか示唆的だ。本書もまた父娘(ノエミとその父)の会話から始まり、最後にはそれと対極的な父娘(ルースとハワード)にもつれ込むのだから。

*2:P122

*3:もちろんアメリカ人も先住民信仰の影響を受けているが、メキシコのそれとは違う。アメリカン・ゴシック(的思想)はあくまでピューリタンのものなのだ。

*4:逆にアメリカン・ゴシック(文学)がきわめて強い白人至上主義に裏打ちされていることについては、巽孝之の指摘を見るとよくわかる。推薦文・アメリカン・ゴシック1

*5:というわけで、この感想の題につけた「混交するもの」というのは人種・血統のことで、「混交されるもの」というのは飲み物に混ぜられたもののことです。もちろん、作中でも示されている通り、ワインは聖体拝領の際に聖餅とともに使われる「キリストの血」なのでこのあたりのモチーフは一貫している。なお、P347で「聖餐式」という訳語が出てくるけど、ノエミはカトリック信徒なので「聖体拝領」ないし「ミサ」が相応しいように思う。原文ではsacramentだろうか。

エルヴェ・ル・テリエ『異常(アノマリー)』感想 / 死後評価されることについて

 

 死後評価されたい。

 

 オタクなら誰でも一度は夢見ること……つまり「死後評価されること」について考えてみたい。

 不遇の天才だとか不世出の逸材とか、世に色々な「報われない才能」というのはあるけれど、中でも一番かっこいいのは「死後評価される」ことだ。ただ残念ながら、生きている間に自分が死後評価されたかどうかを確かめる術はない。

 でももし自分が死後評価されて、それを知ることができたとしたら……? そんな状況を描いたのが本書だ。

 

 

 

 以下、ふんわりと本書の内容(なんとなくのネタバレ)について触れる。

 

 ヴィクトル・ミゼルは売れない小説家だ。批評家からはそこそこ評価されているが、作品はまったく売れず、よその国のベストセラーを翻訳してなんとか生計を立てている。かれの七作目にして最後の作品が『異常』。かれは『異常』を書いた後、自殺する。

 死後、出版社はかれの悲劇的な生涯に目をつけて、ミゼルを大々的に売り出すことに決める。かくして自殺の報道とともに売り出された『異常』はベストセラーとなり、ミゼルは無事「死後評価される」ことになる。

 その死から二ヶ月後、もうひとりのミゼルが現れるまでは。

 

 大西洋に突如現れた飛行機。それは3箇月前にパリからニューヨークへ向けて飛んだはずの飛行機だった。2021年の3月にその飛行機は無事、ニューヨークに着陸したはず。それなのに、どうして同じ飛行機が、まったく同じ乗客たちを乗せて空中に出現したのか。

 アメリカ政府の上層部と研究者たちは問題の飛行機を着陸させ、調査を開始する。驚くべきことに、3箇月前に飛んだ飛行機の「完全なコピー」が現れてしまったのだ。乗客たちは自分の身に何が起きたのかわかっていない。無論、3月にちゃんと着陸したほうの飛行機の乗客たちは現在もふつうに生活しているわけで、かれらが同じ地球に二人ずつ存在するという事態になってしまう。

 そしてその乗客の中にミゼルもいた。3月に着陸したほうのミゼルは4月に自殺した。しかし6月に着陸したほうのミゼルはまだ生きていて、しかも自分が「死後評価されている」のを目撃してしまう。

 

 ミゼルの話を中心にあらすじを見てきたが、本書のなかでかれのエピソードの占める割合はさほど多くない。三部構成のうち第一部は複数の登場人物(主に乗客)たちの群像劇をグランドホテル方式(あるいは駅馬車方式)で語っていて、ミゼルもそのひとりにすぎない。

 それでもミゼルは特別なキャラだ。なんといっても小説内において作家は特権的な立場だし、かれの作品『異常』は本書のタイトルでもある。本書のメタ構造の鍵を握るのはミゼルにほかならない。*1

 

 フレンチユーモアを無数に織り交ぜた本書だが、そもそもミゼルが「死後評価される」までの経緯が皮肉だらけだ。たしかにかれは死後評価されているけれど、そのきっかけはかれの作家としての実力ではなく「自殺」という行動だし、はたして作中の読者たちがかれの作品の魅力を理解しているのかは怪しい。作中のミゼルがなぜ自殺をしたのかは明かされないままだし、『異常』を書くにいたったかれの心の動きを読み取ることができた者はいたのだろうか。

 しかもそれだけでは終わらず、ミゼルは「生き返って」自分が死後に評価されている様を見てしまう。加えて、6月に着陸したミゼルはまだ『異常』を書いていないミゼルであり、かれは未だ書いたことのない作品について賞賛を浴びることになる。作家にとってこんなに不幸なことはない。

 

 こんな目にあったらさぞや複雑な気持ちだろうと想像するのだが、作中のミゼルは意外にも淡白な反応を見せる。『異常』を書いたのも、自殺をしたのもあくまで別の自分にすぎない。自分は『異常』の真意を知らないし、自殺の真相も知らない、と。

 私はここに本書のもうひとつの残酷さがあると感じる。つまり当のミゼルにとっても、3箇月前に分岐したミゼル(自殺したミゼル)は他人でしかないという残酷さだ。

 たしかにそうかもしれない。自分が数年前に書いた文章を読んで、すごく落ち着かない気分になることがある。自分が書いたはずなのに、別人が書いたような気持ちだ。私たちは日々変化し続けていて、細胞は入れ替わり続けている。昨日の自分と今日の自分が同じである保障なんてどこにもない。これはすごく孤独なことだ。

 死後評価されたミゼル。だがはたして誰がミゼルの真意を見抜いていただろうか。誰がかれの心に寄り添えただろうか。ミゼル本人にすらわからないその想いが誰に伝わるというのか。

 作家と作品は別だ、というのはよく言う話だが、その作品を書いた瞬間の作者と、別の瞬間の作者もまた別人だ。結局、真の意味での作者は「その一瞬」にしか存在し得ない。これは究極の孤独だ。

 

 本書において語られる重要な概念として「シミュレーション仮説」というものがある。その意味するところについてはここでは語らないが、本書自体がシミュレーション仮説に基づく特殊な構造をしている点は注目すべきだ。ミゼルの『異常』とエルヴェ・ル・テリエの『異常』というふたつの小説がメタ的に存在しているのも、このシミュレーション仮説に基づくものである。

 本書においてル・テリエがやろうとしたことは正直わからないが、個人的には「作者を殺す」というのが中心的な発想ではないかと思う。

 シミュレーション仮説は現代版の神学だ。この理屈を考え始めると、我々の住んでいる世界が上位存在にとっての「物語」なのではないか、と疑わなくてはならなくなるし、その上位世界もまた別の上位世界に包含されているのではないか……という疑いが無限に生じる。ミゼルの上位にある『異常』の作者ル・テリエに対し、さらに上位の作者の存在が本書では示唆されている。これにより『異常』という小説は無限に続く上位・下位の世界を貫通し、超越的な意味での作者の地位は剥奪される。

 そして上述した通り、本来的な意味での作者は「その瞬間」にしか存在しない。したがって本書を書いた本当の意味でのル・テリエも今やこの世にいない。作者たるル・テリエは、ミゼル同様「自殺」してしまったのである(もちろん譬喩として)。

 

 本書の結末は(詳述しないが)非常にニヒルでペシミスティックだ。そこがフレンチユーモアの真髄なのかもしれないが、賛否は分かれるだろう。私はどちらかというと否寄りだ。そもそも創作というのはそんなにストイックなものでなくても良いし、実際の作者はさほど孤独でもない。だがミゼルやル・テリエのように究極の小説に挑むことへのあこがれも感じるし、やはり死後評価される書き手にはかっこよさを見てしまう。

 ま、そんなに考え込まずとも、本書は表面的には非常にわかりやすいし、文章が上手い。特に第一部はクオリティが高い。社会を射程に収めたパニックSFとしても読めないこともない。きっと読者によって感情移入したくなるキャラも違うだろう。*2

 

 極北に挑むル・テリエの背中を、遠くから眺めるのもまた一興だろう。

 

*1:ところで本書のあらすじは伴名練「ひかりより速く、ゆるやかに」によく似ている。創作に対する問題意識を語っているという点でも近しい。もっとも「ひかりより」では人類が適切な解決策を見いだすが、ル・テリエは人間を信頼していないのでろくなことにならない。

*2:作者は実験小説でおなじみのウリポの中心的人物だが、本書はエンタメと実験の両方を味わえる。

ムービーウォッチメンの架空の回

◼️前提

以下はRHYMESTER宇多丸が毎週ラジオでやってるムービーウォッチメンという企画の、実際には存在しない回です。書き起こしはすべて架空のものであり、『ドメヒョンヨ』という映画も存在しません。もしかしたら730年後にもムービーウォッチメンが放送されているかもしれませんが、本記事とはなんの関係もありません。ムービーウォッチメンが何か知りたいひとはこれを見てください。

 

宇多丸、『ドメヒョンヨ』を語る!【映画評書き起こし2752.3.15】

◼️

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

 

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、3月11日から全国の劇場で公開となったこの作品、『ドメヒョンヨ』。

 

(曲が流れる)

 

『ヌマロメンサ』『オケスマロメーラー』などの監督ツツ・ルロハ・ロレンドが、主演のマツヤラヒ・ティルネと組んで製作した人間ドラマ。会計士にして悩める父親でもある主人公マックスが、間引きや鈍死といった日常的な問題にぶつかりつつも妻子や真自我とともにそれらを乗り越えていく。

 

ということで、この『ドメヒョンヨ』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、いただいております。ありがとうございます。メールの量は、「多い」。公開当初から話題になっていましたからね。主要なキャラとして鋭死体を演じたマナタサル・テワラーンさんという方……作中では愷之という名前でしたけれども、その方が公開直前に鋭死から蘇生なさったということで、注目を集めていました。

 

賛否の比率は、「褒め」の意見が9割。主な褒める意見としては「感動しました!私は300代なのですがマックスの苦悩は25世紀世代のオジサン層なら共感できるものばかりだと思います」「家庭と仕事の両立という普遍的なテーマをコミカルに描きつつ泣けるシーンもある」「鋭死体の生き生きとした演技が素晴らしい!早くも今年のベストが決まりました!」などがございました。

一方、否定的な意見としては「家庭の描写が古い。真自我を解放的なものとして、父親を閉塞的なイメージとして描くのはステレオタイプすぎる。その部分の配慮が欲しい」たしかにこれはわかる気がしますね。また「上映時間が76時間というのは少し長い」という意見もございました。これについてもあとで触れたいと思います。

 

ということで『ドメヒョンヨ』、私もTOHOシネマズ呶鹵ヶ崎で2回見てまいりました。呶鹵ヶ崎は音響が素晴らしいんですけれども、特にこの映画、家族が一同に会しての団欒の場面。ここで捕食の効果音が出るんですね。これがその、非常にリアルというか、「普通はそこまでやらないだろ!」ってくらいガチな環境で録音されているそうで、できれば音響の良い劇場で観ることをおすすめしますね。

 

音響へのこだわりについてはですね、ツツ・ルロハ・ロレンド監督の前作『オケスマロメーラー』、それに前前作の『ヌマロメンサ』でも非常に強く出ていましてですね、特に食事の場面に非常に繊細な気配りをしていらっしゃるということはパンフレットにも書かれておりました。これは特にその、食事という行為が人間を人間たらしめていると言いますか、生命としての人間が行う最も原初的な行為であると。そういう問題意識が根底にあるわけですね。

 

特にロレンド監督の作品は、最近で言えばタカカナラ・アルタナラ作品的な、現代文明に対する懐疑の姿勢、私たちはこの数百年のうちに死を克服して純粋思念としての亜自我を獲得したわけですけれども、その反面、文化面ではほとんど進歩がないんじゃないかという。そういったなかで人間本来の価値生産的な意味での文化作品を創っていこうというルネサンス的な試みがあるわけですよね。そういう点で食事の場面がひとつの主題になっていると。このあたりは先月紹介した味山塵太郎監督の『家を作る、死を招く』にも通じるかもしれまんせん。

 

一方でね、このロレンド監督という方……まあ主演兼プロデューサーのマツヤラヒ・ティルネさんもそうなんですが、非常に生真面目といいますか。映画に対する向き合い方が真剣すぎて、それが上映時間の長さだとか、あるいはことによると丁寧すぎるとも思える演出に表れているという。個人的にはこれはこれでアリかなとも思うのですが、先ほども紹介した通り「長い」とか「くどい」という感想が出てくるのも当然かとは思います。とはいえ意味なく引き延ばしているといった作品ではないので、その点は安心していいかと。

 

本作はマックスという中年男性の日常に寄り添って、いわば日常の「あるある」をネタにしつつシリアスな方向に話が進んでいくわけですけれど。ここなんかもね、ロレンド監督らしい上手い演出があって。仕事で顧客と打ち合わせをしているマックスの天鈴が突然狂遡してしまう場面。あそこなんかもね、観客は次に何が起こるのかわかるわけですけどそのギャップが卑屈な笑いを誘う。しかも……これはあえて言いませんけれど、こういった小さな笑いが後半の展開に生きてくるというのが、単なるフリで終わらせないと言いますか、この映画の偏執狂的な構成なんですね(笑)。

 

さらに言えば、先ほど紹介した「家庭の描写が古い」という意見。これもね、非常にその、本作のテーマと直結しているところなんですけれども。ご存知の通り人間は23世紀に真自我と亜自我の分離を果たしたわけじゃないですか。そのあとずっと真自我が抑圧されてきたっていう歴史があるわけで。それが2583年に解放政策によってエルレファイアされて、そうした流れが昔で言う黒人解放運動などと重ねられる風潮っていうのがずっとあったわけですよ。

 

それと、この番組でも度々話しておりますけれども、「色」を使った表現について。この映画では「緑」という色が非常に特徴的な使われ方をされております。緑といえば亜自我の色ですよ。その亜自我が真自我とどう向き合っていくのかというところ、その距離感と言うかですね、ぶつかり合いのようなものが物語が進むうちに変化していくわけですよ。これがね、そのまま実際の歴史と呼応していて。だから必ずしもステレオタイプな表現をしようとしているというよりは、むしろ自覚的に、そういったものを取り込んでいる作品なんですね。

 

そして最後にそのジレンマが解消される瞬間。ちょっとね、劇場で観ててうるっときちゃいましたよ。あの場面。ババベドラ・ヅヅルさんの演技が見事でね、これだけでもぜひ見てほしい。まさに一世一代の演技というかですね、生命の叫びというのを触肢の絶妙な動きで表現していたりしてね。ここでも「緑」が象徴的な使われ方をしているのでそこにも注目してほしいですね。

 

あとはですね、やはり父と娘の関係。これが言わば、おなじみの「見る/見られる」の関係になっているんですね。二人の複眼的な視線、これは比喩ではなく事実として複眼なわけですけれども、その視線の差異、違いが物語を動かす鍵になっているという。これもね、マナタサル・テワラーンさんの演技あっての演出だと思いますね。特にね、これは多分わざとだと思うんですけれども、父と娘の両方が左右の画面に出る場面が何度かあるんですよ。これなんかね、単眼の人が見ると父か娘のどちらかの表情しか見ることができない。それによって二人のすれ違いを追体験できるようになっているわけですよ。なので、この映画はそういう意味でも複数回の視聴に耐えうるといいますか、見るたびに新たな発見があるようなそんな映画になっていると思います。

 

ということで、早くも今年の大本命登場!という感じです。やはりね、映画館で見るのが一番な作品だと思いますので、ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

どうして漢文を学ぶのか

 

 

 数年前に学校で漢文についてのレポートを書く機会があって、自分自身何を書いたのかほとんど忘れていたのだけれど、ふと思い立って改めて読み直してみたら割と真面目なことを書いていた。当時の自分はけっこう真剣に勉強していたらしい。実際、このレポート自体はそこそこ良い成績だった。

 ここ数年は漢文には触れていないし、なんなら中国語にもあまり触れられていないが、当時の初心を思い出すべく、ここに一部を抜粋することにしてみる。けっきょく、漢文って何が面白いのか。なぜ漢文を学ぶのか。そういう話を通じて、改めて自分の中の漢文に対するモチベーションを上げていきたいと思う。*1

 分量としては5000字弱。今見るといろいろ直したいところもあるけれど、当時の表現を尊重するため特に直していません(怠惰)。妙に引用が多いのは、当時のレポートがそういうレギュレーションだったからであって、筆者に引用癖があるからとかではありません。

 

一 漢文と「知」について

 英語で「知る」を意味する「know」は、少し変わった性質を持っている語だ。何かを「知る」という行為を意味していながら、実際のところは「知っている」という状態を表すことが多い。「I am knowing something」という表現は不自然である。

 この単語はまた、「you know」という形で英語の日常会話において頻繁に登場する。この場合の「know」は特に意味をなさない。しかしこの「ご存知のように」という言葉は、誰か他者との対話のなかで、相手の「知」を確認するような意味合いがあるのかもしれないと感じることがある。

 いかなる言語形態においても、「知」というのはある種の「運動」であるということを考えてみたい。

 あるものについて、それを「知っている」か否かというのは容易には測り難い。「知」はひとの脳内で起こっているものであるうえ、テストや問答を通じて測定することにも限界があるからだ。そもそも「知る」という行為に終着点があるのかどうかも怪しい。「走る」という行為の終着点は「走り終わる」ことであり、「喋る」という行為の終着点は「喋り終わる」であるが、では「知り終わる」ということはあるのか。

 これは、単に状態動詞と動作動詞の違いという次元の問題ではない。一般的な文法解釈にならい「知る」を状態動詞と仮定しても、同じく状態動詞である「住む」や「生きる」とは異なる。なぜなら「住む」や「生きる」という行為には転居や死による終着点があるが、「知る」には「知らなくなる」という終着点が(記憶喪失にならない限り)想定できない。

 知る、ということは、物事を「知り始めて」からずっと継続する動作なのではないか。ある人物と知り合ったときから、私たちはその人物についての情報を学習し続ける。「某さんのことは知っていますよ」というとき、私たちは某さんのことについて知り始めていて知る途上にあることは間違いないが、決してすべてを「了解」して「知り終えている」わけではない。

子曰、「由、誨女知之乎。知之爲知之、不知爲不知、是知也。」

論語 為政第二]

 論語の中では、右のように「知らざるを知らず」となすことこそ「知」であるとする考えが述べられる。「何かを知る」という行為は、「それまで知らなかったこと」を認識する行為であり、それはすなわち「未知のなにものかが存在することを認める」というような行為でもあるだろう。日常生活においても、「学べば学ぶほど分からないことが増えていく」ということは多い。

 ではもし「不知を不知となす」ことができなければ、そのひとにとって「知」の運動は起こりえないのだろうか。何か新しい出来事が起こったとき、「こういうことが起こりうるのか」と感得してみずからの未知のものとして事態と向き合おうとするひとと、「何も目新しいことではない」と断じてみずからの既知のものとして事態を扱おうとするひとでは、どのような違いが出てくるだろうか。

 東日本大震災が起こった際、「想定外」という言葉が取り沙汰にされたことは、まだ記憶に新しい。この「想定外」という所感は、「不知を既知となしてしまったひと」の末路の好例ではないだろうか。「想定外」という言葉の言外に表れている「想定していないこと、未知のことに対処するのはあまりにも困難だ」という意図は、まさに未知のものを未知のものとして扱う知性を育んでこなかった者の発言のように思われる。

 これはもちろん、来る災害を想定しその備えをすること自体を批判しているわけではない。ただ、人間の想定には限界があり、いかなる場合においても万全な備えなどありえないということを留意しなければいけないはずだ。荘子にも次のように述べられている。

小知不及大知、小年不及大年。

荘子 逍遥遊]

  人知にも言語にも限界がある。そのことは事実として認めなければならない。しかし「想定外のことには対処できない」というような立場を取ってしまうことは、未知の出来事が起こってもそれに対して今までどおりの知の枠組みで対応しようとしてしまうことを意味する。それでは不十分なのではないか。不測の事態に際して意識せず既存の枠組みの中で物事を考えてしまう危険性については、『三国志』から見ることもできる。数字上の劣勢を覆して官渡の戦いにおいて袁紹に勝利した曹操は、次のように述べている。

公曰、「吾任天下之智力、以道御之、無所不可。」

三国志巻一 魏書一 武帝紀]

 ここでいう「天下の智力」こそ、曹操を激励した荀彧に代表されるような、既存の知の枠組みを刷新しながら新事態と向かい合う知性ではないか。未知の出来事が起こった際、「不知を不知となす」ことによって自らの知の枠組み自体を更新していかなければ、未知の出来事に対応することはできない。

 しかし、必ずしも「不知」を標榜していれば良いというわけではないのが、難しいところだ。

弼曰、「聖人體無、無又不可以訓、故言必及有。老荘未免於有、恆訓其所不足。」

世説新語 文学第四―08]

 王弼は、無を体得している聖人もそれを言葉にしてしまえば有になってしまう、と述べている。「無」という概念があまりにも漠然としているため解釈は容易でないが、「知」についても同じようなことがいえるのかもしれない。つまり、己の「不知」を明瞭に認識していることが望ましいが、だからといって「私は何も知らない」と嘯くのは知性でもなんでもないということだ。大切なのは自分の「知」に対する姿勢であって、「不知」であり続けることではない。

「不知を不知となす知」は、回転し続けるエンジンのように私たちの脳で稼働している。会話の中で「you know」と差し挟むとき、私たちは他者の「知」のエンジンが稼働していることを期待し、確認しているのではないか。終着点のない「知」の行為の中で、みずからの「知」のエンジンを回し続けることが「知」と向き合う学びに際して求められている。

 

二 漢文・中国古典を学ぶ意味

 高校の時分、漢文が好きだった私は、この科目があたかも無益な科目であるかのようにいわれるのが悔しかった。だから、私はこうした言説に反論するべく、理屈を考えた。それは以下のようなものだった。

「漢文とはただ単に中国古典を読む行為ではなく、中国古典を読解しようと試みた過去の日本人の思考の痕跡をたどる作業だ。白文に返り点を打ち、それを読んでいく作業は、日本人が中国の文献からあらゆるものを読み取り、みずからの文化に取り込んでいった歴史を再現する行為である。そうした形で中国古典と、そして日本人の思考の歴史をたどることは、きわめて特殊な意味合いがあり、漢文なしに日本文化の歴史を追うことはできない」

 現在においても、この主張は我ながらある程度の説得力を持っているように思うが、同時に一面的な解釈であるようにも感じられる。そこでいまいちど中国古典を学ぶことの意味というものと向き合ってみることとしたい。

天寒鳥已歸

月出山更靜

土空延白光

松門耿疏影

躋攀倦日短

語樂寄夜永

明燃林中薪

暗汲石底井

……

[杜詩詳注巻七「西枝村尋置草堂地夜宿贊公土室二首」其二]

天寒く鳥已に歸り/月出でて山更に靜かなり/土室 白光を延き/松門 疏影耿かなり/躋攀して日の短きに倦み/樂しきを語りて夜の永きに寄す/明らかに燃ゆ 林中の薪/暗きに汲む 石底の井 

 右の杜甫の詩は、「靜」と形容される情景を詩文によって表現しようとした試みだ。講義の中では、それそのものの性質上言語化することができない「靜」という概念について様々な検討がなされた*2。靜というのは、その静謐な空間で感覚を研ぎ澄ます自己がなければ成立せず、誰かに説明されて納得するようなものではないからだ。さて改めて見てみると、杜甫の詩はこの問題をしっかりクリアしているように思われる。五言詩の僅かな情報量だけでは、そこに描かれている情景をありありと描写することは難しい。必然的にそこには読み手の想像力が必要となる。そして読み手はそこに並んだ文字から風景・情況を想像し、見出していく。その行為は実際の景物を見るのとよく似た感覚器官のはたらきを要求しているように思われる。だからこそ、この漢詩文を読むという行為には必然的に感覚を研ぎ澄ます読み手の靜が成立している。

春眠不覺暁

処処聞啼鳥

夜来風雨声

花落知多少

[孟浩然「春暁」]

春眠暁を覺えず/処々に啼鳥を聞く/夜来風雨の声/花落つること知んぬ多少ぞ

  この詩は、科挙に合格せず惰眠を貪る作者の境遇と、それとは無関係に訪れる春の日夜を想起させる。起句で「暁を覺えず」と詠み、転句で「夜来風雨の声」と詠むところからは、夜遅くまで眠れず風雨の音に耳を傾け、しまいに朝まで寝過ごしてしまう作者の毎日が感じられる。そうした「自分の生活など気にも留めずに回っていく自然や世間」が切り取られている詩である、というのが私の印象だった。

 杜甫と孟浩然のこれらの詩を見ると、両者がともに言葉の余白、つまり語られていないことを詩歌の重要な要素として機能させていることに気付く。杜甫の詩に顕著に表れていた「読み手が感覚を研ぎ澄ます必然性」は、春暁の詩にも多少なりとも存在している。それは詠み込まれている景物のすぐそばに必ずあるはずの、しかし直接的に言及されない孟浩然自身の有様であり、その余白に思いを馳せたときこの詩はいっそうの深みを持つ。

何處秋風至

蕭蕭送雁群

朝來入庭樹

孤客最先聞

[劉禹錫「秋風引」]

何処よりか秋風の至る/蕭々として雁の群れを送る/朝来庭樹に入り/孤客最も先に聞く

山鳥飛絶

萬逕人踪滅

孤舟蓑笠翁

獨釣寒江雪

[増広註釈音弁唐柳先生集巻四十三「江雪」]

千山 鳥飛ぶこと絶え/万逕 人踪滅す/孤舟 蓑笠の翁/独り釣る 寒江の雪

 そうした視点を踏まえて、右の二詩も見てみたい。劉禹錫の詩は比較的明快に情景を説明しているが、「秋風」「雁」「庭樹」という風に視点が移動したあとで最後になって感受者である「孤客」が登場する。孤客は「最も先に聞」いたあとで、秋風の来歴を想像しているはずなのに、詩中の描写はそれとは逆に風の流れる順序に沿って進んでいく。この奇妙な食い違いが詠み手である劉禹錫と読み手である我々の一筋縄ではいかない関係を強烈に意識させる。そしてまた、同時に風に乗って進むような独特の視点移動を生み出していることも間違いない。手法の妙によって読み手に対し、余白部における重層的な読みを可能にしているという部分に注目したい。

 柳宗元の詩は起句、承句で人気のない情景が説明され、その中にひっそりといる蓑笠の翁と、その視線の先にあるであろう雪景色が描かれる。孤独な環境は丁寧に説明されているのに対し、その具体的情景については読み手に委ねられているようにも感じられる。

 

 結局のところ、中国古典を読むことの意味合いとは何か。日本語話者にとっては、中国古典こそ日本語文化の最重要のルーツであり、それをたどることで日本人の思考の歴史を追うことができるというのは先述した。しかし、それだけではない。日本も含めた世界各地であらゆる文学があるなか、あえて中国古典を読むことで感じられるのは、「親近感」かもしれないと思う。

 中国と日本は東アジアの中でも特に近い文字文化を共有している。そうした文化的な「親近感」の話でもある。そしてまた、ここまで見てきたように中国古典には書き手の言葉の余白を、読み手が補っていくような性質が色濃く表れている。これはつまり中国古典を前にしたときの読み手(特に漢文成立の事情とは一歩引いた視点に立つ日本の読み手)が、ただ受動的ではありえないということを意味する。これによって読み手はある程度能動的な関わり方で文章に接することになり、読み手は書き手と近い立場になっていくのではないか。中国古典の与えるもうひとつの「親近感」とは、遠い立場にあるはずの古の中国の書き手と、現代の日本の読み手の間に生まれる親近感だ。

*1:ブログタイトルも魏志倭人伝から取ってるんだし、たまには漢文の話をしてもいいでしょ

*2:そういう授業だったんです

オッドタクシーとHIPHOP

「オッドタクシー」は2021年春絶賛放送中のアニメだ。脚本・映像感覚・テンポなど様々な点で優れている作品であり、特に個人的にはミステリ的な興趣に心を惹かれるのだが、そうしたドラマ面での面白さについてはいつかどこか別の場所で話すとして、今回はHIPHOPの話をしたいと思う。

 なおこの記事ではマニアックな話をしていくけれども、「オッドタクシー」自体はなーんにも考えずに楽しめる最高のアニメなので、この記事がつまらなからといって愛想を尽かさないでほしい。本当に万人におすすめできる良いアニメです。

 


www.youtube.com

 

 さてこの「オッドタクシー」というアニメ。自分の身の回りではあまり話題になっていなくて、第六話放映時くらいまで名前すら知らなかったのだが、見るきっかけになったのが上の動画(My Name is - ヤノfeat.PUNPEE)だ。

 元々個人的にHIPHOPが好きだというのもあって、もちろんPUNPEEやSUMMITのこともなんとなく追いかけてはいたんだけれども、そんななかで唐突にこの動画が出てきたわけである。なんだこれは。聞いてみると「オッドタクシー」というアニメの登場人物であるヤノの作中曲的位置づけらしい。しかもPUNPEE本人がhookを歌ってる! さらに言えばヤノ役はプロのラッパーであるMETEORと来てる。

 そんなアニメがあるのか!

 さらに調べてみると「オッドタクシー」はあの「セトウツミ」で有名な漫画家・此元和津也が脚本をつとめるミステリーだという……なんという奇跡的なコラボレーション……アボガドと醤油みたいな海を越えたマリアージュ……いや海は越えてないが。

 で、このアニメのすごいところはPUNPEE、METEORをはじめとするHIPHOPアーティストが、単に楽曲提供というだけでなくがっつり製作に関わっていることである。そのあたりの細かいところは↓の記事に詳しい。

kai-you.net

 また↓の記事にはアニメ製作チームとHIPHOPサイドの協力体制の深さが書かれている。

【座談会】木下麦 × OMSB × PUNPEE × VaVa 『オッドタクシー』| アニメのサントラの作り方 - FNMNL (フェノメナル)

 ……という感じで、専門知識的なところは上の記事を読めばかなり良くまとまっているので、この記事では個人的に「すげー」と思ったところをまとめていこうと思う。

 

生のHIPHOP

 そもそも皆さん、ラップって聞きますか?

 HIPHOP≒ラップミュージックは米国では最も流行っている音楽ジャンルだと言われているし、日本でもかなり理解が進んでいる(現在進行系)と思うが、それにしてもやっぱり門外漢からすればよくわからない存在であるのは間違いない。特にアニメという媒体でHIPHOPを扱うことの難しさには、やはり「HIPHOPに対する無理解」という問題が巨大な壁としてそびえ立っている。

 そもそもカッコいいHIPHOP、イケてるHIPHOPというものを「体験」したことがないひとにとってはラップ自体がなんかギャグっぽく映ってしまうのはしょうがないことだと思っていて、実際ドラマとかアニメとかでラッパーが出てくるとそれだけでギャグになってしまうことは多い(皆さん思い当たることがたくさんあるでしょう)。


www.youtube.com

↑「ゾンビランドサガ」のラップバトルはかなりよく出来ていた部類だと思うけど、これを見てHIPHOPへの理解が深まったりするわけではないと思う。

 一方で、「ヒプノシスマイク」のように割とHIPHOP文化をよく理解した上でコンテンツとして組み上げてくる作品も出てきている*1。だがヒプマイはかなり独自色の強い世界観の作品であり、作中人物たちを取り巻く環境が現実のHIPHOPの状況とは大きく異なる。それがヒプマイの魅力でもあるのだが、同時に「ねじれ」でもあると思う。ヒプノシスマイクにおいては作品世界にHIPHOPをなじませるために、HIPHOPの尖った部分を少なからずマイルドに「変換」しているし、HIPHOP的な文脈を作中のストーリーに「翻訳」する処理がなされている。

 要するに、翻訳とか変換とかを挟まずに「生(き)」HIPHOPを摂取できるようなアニメが欲しかったのだ。

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http://www.taikaisyu.com/27-03/28.html

 そこで出てきたのが「オッドタクシー」だったわけである。この作品ではなんといっても本物のHIPHOPアーティストが製作に噛んでいる。楽曲提供のみならずサントラに至るまで。しかもSUMMITやSIMI LABというHIPHOPの中でも特にアングラとサブカルを縦横無尽に行き来するユニット(レーベル)が関わっているというのが衝撃的だった。*2

 

HIPHOPとの距離感

  そしてもうひとつ感心させられたのはHIPHOPとの距離感だった。

 感覚的な話になってしまうが、これまでHIPHOPの絡むアニメ等では「ラップやってます!」感というか、HIPHOPやってます!」感が強すぎたのではないかと思う。特にメディアにおけるラップのイメージをダサくしているのが、いかにも「ラッパーでござい」みたいなファッションとかラップの仕方(フロウ)なのはもう明らかであって、そういうステレオタイプな演出に視聴者はもう飽き飽きしていたんじゃないだろうか。

 そこを行くと「オッドタクシー」のヤノは異色だ。なんていうか……ラッパーが演じているのにラッパーじゃない! もちろんヤノはHIPHOP文化に強い憧れやリスペクトを持っているキャラなのだが、本職はギャングスターであってラップはあくまで彼の「言語」にすぎない。

 ヤノは喋るとき必ず韻を踏みながら喋る、という癖がある。まぁ実際に文字起こしを見てみよう。

しつこいし長げーしうるせーよ着信音
こっちだって色々抱えてんだよサブミッション
ある依存症の薬キメて寝てぇけどコンテナ船
もううるせー
もうしませんもうしませんって
そろそろ名申しません? そんで誰

あぁおかよマネージャー a.k.a. 山本
ちょっとおせーじゃ ねーか
抱えてる案件ヤマ)もっと
たくさんあるんだろうけど
Time is money じゃあねーのかよマネージャー
早いとこ来ねーとあいつの二の
そうこの前言った倉庫の前

 ヤノの喋り方にはかなり癖がある。いわゆるオーソドックスなラップの仕方として一般的に想像されるのは偶数小節末で韻を踏むやつ*3だと思うが、ヤノの韻はかなり混線している。しかも韻を強調した喋り方をあまりしない上に、いわゆる子音踏み*4や語感踏み*5が極端に多いため、かなり玄人好みの韻だといえる。

 もうひとつ特徴的なのはヤノのフロウ(歌い方)で、これはかなり日常会話に近い抑揚でラップをしている。先述の「韻をあまり強調しない」というのもそうだが、ヤノはあくまで日常生活の中で言語としてラップを取り込んでいるので、音楽的な聞き心地を優先して歌謡っぽい発声をしたりはしない。演者であるMETEORのフロウが元々かなり独特というのもあるが、それだけでなくこれは演出的な要請ではないかと思う。ヤノの喋りはあくまでラップミュージックと日常会話の中間なのだ。

 ちなみに普段喋るのと同じようなテンションでラップするラッパーはそこそこいるのだが、代表的なのはやっぱり漢a.k.a.GAMIだと思う。特に漢さんは普段喋ってるだけでもなんかラップしてるみたいな風格があるし、実際フリースタイルラップをやってるひとは多かれ少なかれ日常会話の中にもフリースタイルを意識していると思うので、そういう意味でヤノがラップっぽい日常会話をするのはすごく「っぽいな」と思う。*6

 

 そしてこの「日常とラップの中間」というのが非常に重要だと思う。HIPHOPってライフスタイルだから、普通に日常生活の中に取り込まれているべきものなんだよ。「俺、ラップやってます……!」みたいなのがなんか違うのはそういうところで、「普通に生きていること自体がHIPHOP」みたいな、そういうのがよりHIPHOP的だと思う。*7

 で、ヤノは本当にそういう意味でHIPHOPなキャラで、もちろんアウトローとしてのかれの生き様みたいなのもそうだし、息を吸うようにラップのことを考えてそうなのもそうだし、何よりそれがひとつの個性として作品全体を通してみてもあまり「浮く」ことなく光っているのが素晴らしいと思う。

 ついでに言えば、ヤノを取り出してみるまでもなく、「オッドタクシー」のサントラはHIPHOPアーティストたちが作ったHIPHOPサウンドなわけで、そういう意味で視聴者は「いつの間にか」HIPHOPの世界に巻き込まれている。PUNPEEが手掛けるOP曲は当然ながら、三森すずこだってEDでラップ調の歌い方をしてるし、ミステリーキッスの楽曲を作ったのも(にわかには信じられないけど)バチバチHIPHOP出身のVaVaだし、そういう濃淡のあるHIPHOP表現へとシームレスに視聴者を誘導しているのがこの作品なのである。

「オッドタクシー」は視聴者とHIPHOPとの間にあったはずの距離感をいつの間にか「無化」している。気がつけばHIPHOPの中に自分がいる。そんな不思議な感覚をくれるのだ。

 

アウトロー文化

 あと忘れちゃいけないのは、さっきも書いた通り、ヤノがギャングスターで犯罪者であるということ。HIPHOPアウトロー文化は切っても切れない関係であり、この作品はしっかりそこも意識している。別にHIPHOPって不良だけの音楽ではないと思うんだけど、ただそういうイリーガルなものを無視しない、そういうのを直視していく、というような社会的な要素の含む音楽であることは間違いない。

 それこそPUNPEEやMETEORはぜんぜんギャングスタ・ラップのスタイルではないし、もっと明るい(?)作風のプレイヤーだが、でもそういうかれらが作り上げた作品が、しっかりギャングスタの文脈を押さえているというところが尊い

 それに、ヤノのみならず「オッドタクシー」には犯罪を計画したり加担させられたりする登場人物たちが多数登場する。この作品はデフォルメが効いてるけど、描いていることはけっこうシビアな社会そのものだ。そういう硬派なところもある作品だからこそ、HIPHOPを扱うのに相応しいと思う。

 HIPHOPのイリーガル性というのは、「法に抗うことのカッコよさ」みたいなのも多分あるのだが、でも別に不良礼賛とかそんな単純な話ではなくて、「ただそこにある現実」を綺麗事抜きに、あるがままに語ろうとする試みなのではないかと思っている。「オッドタクシー」の製作チームはおそらくそのことをちゃんと理解しているし、だからこそこういう作品が作れる。その意識の高さに感心させられるのである。

 

 おわりに

 最後に、これはちょっと単なる個人的な好きポイントなんだけど、ヤノが喋りだすときだけBGMにキック&スネアが入ってHIPHOP色が増すのがめちゃめちゃ好き。でもこれ視聴者だからビートが聞けるけど作中現実ではビートはないからヤノがずっとアカペラで喋ってるだけなんだよな……と思うとちょっとおもろい。METEORさんはこれを機に「ヤノEP」とか出してどんどんビッグになってほしいな……。

 というわけで絶賛放送中の「オッドタクシー」だが、第12話のサブタイはなんと「たりないふたり」だった。漫才とHIPHOPが好きなひとなら、この言葉の重みがわかるはずだ。まさにこの作品を象徴するような言葉でもある。

 本編も完結目前だ。しっかりと見届けたい。

 

*1:ヒプマイのことはめっちゃ好きです

*2:個人的に、SIMI LABのメンバーがアニメの製作に関わっているという事実は、漢a.k.a.GAMIがフリースタイルダンジョンに出演して以来のビッグニュースだと思う。

*3:俺がNo.1 HIPHOP dream、不可能を可能にした日本人、みたいなやつ

*4:同音異義語で踏むこと。「そうこの前」「倉庫の前」みたいなの

*5:完全に母音が揃っていなくても語感で踏むこと。「そう戦友だったよ昔はな」「ボスの前に咲く二人花」のように文頭と文末だけ韻になってるケースなどが多い

*6:あとフリースタイル(即興)だと韻が小節末とかに限らず思いついた順に発せられることも多くて、ヤノの喋り方はそういう点ですごくフリースタイルっぽい。

*7:ZORNじゃん

『文学少女対数学少女』を読んでなぜ鳥肌が立ったのか〈感想〉

 

文学少女対数学少女 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
 
「気持ちを証明するにはどうしたらいい?」
「さあね。それには昔からみんな悩んできたんだ」
 ──桐野夏生「独りにしないで」

  

 陸秋槎の推理小説文学少女対数学少女』を読んだ。鳥肌が立った。

 それはなぜなのか。

 以下、感想をつらつらと書いていく。

 まず本書におけるミステリ的技巧について概略した上で、それが具体的にどのような形で実行されているかを確認し、さらには作者が仕掛けたトリックがいかにして炸裂したのか、そしてその意味するところはなんなのかを本文の記述を拾いつつ実践的に観察していく。

 なお、作中のトリック・オチについて触れる箇所があるので、未読の方には基本的におすすめしない。

  また、本書には作者と同姓同名異性の「陸秋槎」が登場するが、区別のため、以下では作者の方を「作者」登場人物の方を「語り手」と呼称する。

 

1. エラリー・クイーン 対 陸秋槎  (EQ問題について)

 まず本書を語る上でぜったいに避けては通れない話題がある。

 犯人当て、そしてフェアプレイの問題だ。

 ここで取り沙汰されるのはいわゆる後期クイーン的問題というやつだが、この単語を出すと時と場合によっては命の危険が生ずる*1

 作者もそのことについてはおそらく自覚的であったはずで、事実として本書では「後期クイーン的問題」という語を正面から直接扱うことを巧妙に回避している*2

 しかしながら、本書を考える上で、この問題から目を背けることもまた不誠実だ。そこで、語を明確にするためここで一度再定義を行いたい。以下では推理小説において真相を推理するのに必要十分な情報が与えられたことが断言できるかどうか」という問題を、仮に「EQ問題」と呼称することにする。

 EQ問題が具体的に表面化するのはたとえばこんなときだ。(※この段落はややこしいので読み飛ばしても良い)。ある事件が発生して、探偵が手がかりを集める。Aという手がかりの集合から合理的に推理を展開した場合、A’という真相が明らかになるとする。しかしここで新たにBという手がかりが発見されたとき、このBがA’と矛盾するB’という真相を導いてしまう危険がある。このことを考え始めると、A’を否定しかねないB1とかB2といった手がかりの「不存在」を証明しないかぎりA’は証明できないということになってしまう。つまりこれは「悪魔の証明」になってしまう。

 A’の完全な証明が、すなわち悪魔の証明となってしまうときにEQ問題は発生する

 現実の犯罪事件でもEQ問題は生じうる。例えば殺人事件が起きたとして、現場から容疑者Xの髪の毛が発見されたとする。Xは被害者に常々恨みを抱いており、事件当時はアリバイがなく、その上現場近くで目撃されていた。さらにXの自宅からは凶器のナイフが発見された。こんなときXは限りなくクロだが、しかし「X=真犯人」を否定する証拠Bが存在しないという証明をすることはできない。

 もっとも、だからといってXを犯人として立件できないことはない。実際の犯罪捜査の現場においては、たとえXが犯人ではないという抽象的な可能性(つまり証拠Bが存在する可能性)があったとしても、Xが犯人であることについて「合理的な疑いを差し挟む余地」がなければ有罪の立証ができるのである。*3

 これは実務におけるEQ問題解決の一手法といえる。だから現実の世界でもEQ問題は生じるが、実際にそれによって困ることはほとんどない。

 

 ではフィクションの世界(特に本格ミステリ)ではどうか。

 まぁこの話を詳しくし始めると長くなるのである程度かっ飛ばすとして、ここで扱うべきは本格ミステリの中でもいわゆる「犯人当て」である。問題編の文章を読んで、さぁ犯人は誰ですか?と読者に当てさせるものだ。これらの作品にはたいてい「読者への挑戦状」が挿入されている。

 結論から云うと、犯人当て小説においてEQ問題は発生しない。なぜか? 作者が明確に答えを設定して書いているのだから、そもそもEQ問題は生じないのである

 ……とか適当なことを云うとクイーン問題と真剣に向き合っている怖い大人たちに絞め殺されてしまう危険性があるが、少なくとも『文学少女対数学少女』がそのような問題意識に立脚して書かれていることは間違いないと思う。

 犯人当てというのは、なぞなぞとかクイズの亜種だ。例えば「パンはパンでも食べられないパンはな〜んだ?」と聞いたとき、その答えがパンダなのかフライパンなのかはさておき「腐ったパン」みたいなつまらない答えはそもそも設問者から期待されていない可能性が高い。回答者に求められているのは「設問者の思い描く解答が出せるか」という点であり、問題に対して論理的に正しい答えを出すこととは必ずしもイコールではない。

 だから犯人当て小説においても作者の期待する答えを出せるかどうかが問題であって、その小説から論理的に導き出せる答えが作者の期待するそれとズレていた場合は、たとえその推理に瑕疵がなかったとしてもあまり好ましいとは云えない。云い換えると、犯人当てに関しては「作者の想定した解答として合理的な疑いを差し挟む余地のない回答」を出すことがゴールであり、そこにEQ問題が生ずる余地は本来ないはずだ。

 以上のような意味で、本書は作中作(犯人当て)を使うことによってEQ問題を回避している。*4

 

 ここで、作者・陸秋槎がこれまでEQ問題とどのように向き合ってきたのかを簡潔に振り返っておきたい。以下、ネタバレはないが、作品テーマに触れているので神経質な方は注意。

 デビュー長編『元年春之祭』においては、二度の「読者への挑戦」が挿入されていた。ただ、率直に云えばこの読者への挑戦は歪なものだったと云わざるをえない。漢代の中国を舞台にしたこの小説において、読者への挑戦で突如として現代人の作者が読者の眼の前に登場し、ミステリーの作劇の苦労を語り出すのはいかにも不自然である*5。本書において読者への挑戦は一定程度の演出上の効果があった一方、作品の虚構性を強調するという好ましくない効果をも齎していた。

 二作目『雪が白いとき、かつそのときに限り』においては物語の結末において、作者と同姓同名の陸秋槎が突如登場し、物語を総括するという構成が取られていた。いちおうこの点については物語的必然性・必要性があったのだが、やはり『元年春』にも見られた作者の介入による「説話っぽさ」「作話っぽさ」を感じずにはいられない。

 さらに三作目『桜草忌』(本邦未訳)において、作者は本格ミステリたることを半ば放棄する。この物語は少女の自殺を発端に進んでいくのだが、物語の中核をなす自殺事件の真相について、非常に強引な真相開示方法が採られている。作者は「ホワイダニットをいかにフェアに演出するか」という点について『元年春』以来、様々な趣向を試みているが、『桜草忌』の解決方法はある意味で本格ミステリの外に解決法を見出すものだといえる。

 そして四作目が本書『文学少女対数学少女』となる。ここにおいて作者は、これまでの作品で課題となっていた「作者の極度の介入によって強引に本格ミステリを成立させる」という点を、メタミステリの構造を持ち込むことによって回避する。

 ポイントは本格ミステリとしてのジャンルを保ちつつフェアプレイについてのEQ問題を回避した点にある。

 なおホワイダニットとフェアプレイの関係については、後述の通り本書の根幹に関わる問題でもある。ひとまず頭の片隅に留めておいて欲しい。

 

2. 犯人当て 対 数学少女 (数学とミステリについて)

 ……という感じで本書で描かれている犯人当てとEQ問題との関係は、数学の知識などいっさい無視してもこのように理解することができる。では本書の中での数学の知識は単なる虚仮威し/ページを埋めるための模様/不必要な論理なのかといえばそんなことはないはずだ

 

 皆さんも幼いころは砂場で遊んだことがあるはずだ。本書は譬えるなら「犯人当て」という砂山に対し、二人の少女が数学の側とミステリの側の両方から掘り込んでいって真ん中で握手するような構造を採っている。

 本書を手に取る読者は「ミステリマニア」的なひとがマジョリティだろうから、ちょっと注意の必要なところではあるが、本書は語り手が数学の知識を知る物語であると同時に、数学マニアがミステリと出会う物語でもある。その点が象徴されているのが「フェルマー最後の事件」だ。

 ここで韓采盧は語り手にフェルマーの最終定理を説明するために、あえて語り手にとって馴染みの深い犯人当て小説を比喩的に使用している。面白いのは、韓采盧が犯人当ての解法として設定された「色覚」のネタが、ミステリマニアである語り手にとってはある種タブー的なトリックであったという点*6

 韓采盧は「大して推理小説を読んでない」(p.123)のだから、彼女がこのトリックを使うことになんの躊躇いもなかったのは当然なのだが、ここで韓采盧と語り手の犯人当てに対する美意識の差が顕著に表れているのが面白い。

 つまるところ「フェルマー最後の事件」の作中作は本格ミステリとしては成立していない。探偵役と読者を同じ条件に置き、同じだけの情報から結論を導けるように作成するのが本格ミステリの基本であるところ、ここではフェルマーと読者はまったく別の方向から事件に切り込むことになる。清涼院流水の『コズミック』の終盤においても、様々な特殊能力を持つ「探偵」たちがそれぞれの能力によってまったく別の道筋から事件の真相に辿り着くという場面があるが、これはもはや本格ミステリの趣向というレベルから乖離しているのだ。*7

 しかしながら、たとえ本格謎解きの観点から「禁じ手」と見えるものであっても、「犯人当て」という記述形態自体は本格のルールから離れて成立しうるものであって、その可能性を追求することにも面白さはあるのではないか。韓采盧は非ミステリ者の立場から犯人当て小説に取り組むことで、その可能性を無邪気に提示してくれる。

 そしてそれは、ミステリ者である語り手、あるいは読者に対して投げかけられた問題提起でもある。このことが後述の内容に深く関わってくるので注意して欲しい。

 

3. 文学少女文学少女 (文学少女について)

 本書を読んだ読者の大部分が感じるであろう疑問について指摘したい。

この語り手は本当に『文学少女』なのか?

 という点だ。

 少なくとも、語り手は天野遠子的な意味での「文学少女」ではない。*8。なんなら文学的な教養に関しては韓采盧の方が上に見える部分もある。*9

 語り手はミステリ小説を愛し、自らも小説を書くことを愉しみとしているが、せいぜい「推理少女」とか「ミステリ少女」というのが正しく、「文学少女」というにはいかにも相応しくない。

 一説には、タイトルに書かれている「文学少女」は語り手ではなく、陳姝琳のことではないかという指摘もある*10。「グランディ級数」の展開を見れば、なるほど、この指摘は一定程度の合理性があると思う。ただ、ここで自分としてはもうひとつの解釈を書いておきたい。

 作者・陸秋槎が評価する日本のミステリ小説の中に、木々高太郎の「文学少女という短編がある*11。以下、この作品について、結末に直接触れることはしないがざっくりとしたあらすじを見ていく。

文学少女」は1936年に発表された作品だ。主人公の少女ミヤが文学に惚れ込み、家父長制の逆風の中で文学を志し、藻掻き苦しむ様を描いた悲劇である。精神科医・大心池(おおころち)が登場する連作のひとつだが、ミステリーというよりも女性の一代記としての側面が強い。

文学少女」にて描かれているのは、文学に対する無理解への嘆きと、自身の言葉が読者へと伝わり評価されることの喜びである。ミヤを取り巻く人間たちは、その大半が彼女の文学熱、創作愛を理解していない。無論、女性の立場が弱かった時代が背景にあるし、そもそも芸術家は常に周囲の無理解と戦わざるを得ない。

 そんな彼女の才能を理解できたのが、医者である大心池と小説家である丸山莠である。大心池はこの作品における「探偵役」に近い存在であり、また丸山は「莠」という名前が表す通り善性と悪性の入り混じるキャラクターとして描かれている*12。このふたりの対照的な「理解者」との関係が物語の鍵を握る。

 この短編の白眉は終盤の怒涛の展開とともに語られる創作論についての激白である。そして『文学少女対数学少女』に引き継がれている問題意識はこの点にあるのではないだろうか。物語の末尾において文学少女・ミヤはこう語る。

文学に懊(なや)んだものは、それを見出してくれた人に、生涯の一番の感謝を捧げる

 これこそ「文学少女」におけるもっとも切実な叫びである。思い出して欲しい。『文学少女対数学少女』における語り手の立場も、程度の差こそあるものの、やはりミヤと重なるのである。「連続体仮説」において犯人当ての瑕疵を指摘された語り手は「私の脳内に存在していた伽藍たちも、こうして音を立てて崩れた」(p.75)というほどのショックを受けている。

 しかしながら韓采盧はただ語り手の創作の瑕疵をあげつらったわけではなかった。韓采盧はミステリの読者ではなく、あくまで数学徒だ。韓采盧にとって「犯人当て」の評価基準は「ミステリとして優れているかどうか」ではない「数学的な示唆が感じられる」かどうかであるはずだ。だからこそ、韓采盧は「連続体仮説」のラストで「君がそう言ったとき、かつそのときに限り」犯人当ての唯一完全な解が成立することを語り手に伝える。

 韓采盧のこの言葉に対する直後の語り手の反応は記述されていない。だが、その後もふたりの関係が続いていることを考えれば、おそらく語り手は韓采盧に励まされたはずである。何より、数学を愛する韓采盧にとって語り手の書く「犯人当て」はそれなりに面白いものであったはずだし、語り手はそうした韓采盧の素直な反応を間近に見ていたのである。

 語り手は、ミヤが大心池に感じたような「生涯の一番の感謝」を韓采盧に抱いたのではないか。

 

4. 文学少女 対 数学少女  (陸秋槎と韓采盧について)

 さて。正直ここまでの話は前座である。あくまで本題の前提に過ぎない。

 本書で一番ヤバい短編はどれかといったら、それは間違いなく「グランディ級数」だ。

「グランディ級数」において語り手が書いた小説は、「明確な単独解を持たない犯人当て」であった。語り手はフェアプレイを徹底することを諦め、「より面白い答えを正答とする」という独自ルールを導入する。ここにおいて、語り手は本格ミステリとしての厳密さを放棄し、自らが行うべき労力をさぼるために気軽な手法を選んだかのように見える。

 しかし、本当にそうなのか?

 この短編においては、語り手が犯人当てを制作している最中の苦悩が描かれている(pp.266-267)。その途中、良いアイデアが思いつきそうになった瞬間に韓采盧からの電話が掛かってくる。この場面に注目したい。語り手は韓采盧が電話をかけてきてくる前の時点で、犯人当ての冒頭のシーンを死体発見の場面にすることや、犯人当てに複数解を設けることを思いついている。しかしこの段階では犯人当ての全貌を思いついたわけではないし、犯人当ては未完成だったはずだ。

 語り手は、韓采盧から電話がかかってきた後に、犯人当てを完成させている。

 この時系列は些末なようでいて非常に重要だ。なぜならば、この事実によって、語り手は韓采盧を犯人当て読書会に連れて行く前提で犯人当てを作成できたのであるから。

 このことから、ひとつの仮説が導ける。

「語り手は、最初から韓采盧の推理した結末を最適解とするつもりだったのではないか?」

 作中作に登場する「山眠荘」の見取り図を見て欲しい(p.245)。

 読者は「ぜったいに」この形に見覚えがあるはずだ。

 そう。「フェルマー最後の事件」の見取り図である(p.103)。

 いやいや。どっちも左右に三室ずつ部屋が並んでいるだけじゃん、と思うかもしれない。だが横に並んだ三部屋ずつの行き来がロジックに組み込まれていること、および、一方の列が三室すべて埋まっているにもかかわらず、もう一方の列は両端が空き部屋となっているという構造の一致を無視することができるだろうか。

 もっとも、ここまでであれば偶然の一致といえるかもしれない。だが「グランディ級数」の現実パートをよく読んで欲しい。喫茶店「小宇宙」における登場人物たちの席順が執拗なほどに正確に記述されていることに気付くはずだ。

 そしてこの席配置もまた、3×2の六人の配置なのである*13。作者は明らかに自覚的にこの配置を行っている。*14

 ここまで執念深く同じ構造を繰り返すのはなぜか。ここでひとつの仮説を提出したい。これらの奇妙な一致は、「山眠荘」の事件が「フェルマー最後の事件」での韓采盧の犯人当てに対するアンサーであることを暗示しているのではないか。さらにいえば、「山眠荘」は「韓采盧のための事件」なのではないか*15

連続体仮説」において韓采盧から作劇の瑕疵を指摘された語り手は、大きなショックを受けていた。しかし、物語が進むに連れて韓采盧と語り手の関係は変化している。先述の通り、語り手は韓采盧に「生涯の一番の感謝」の念すら持っていた節がある。

「グランディ級数」に至り、語り手は韓采盧を探偵役として接待するため」に犯人当てを書いたのではないか。そうだとすれば連続体仮説」と「グランディ級数」では語り手が犯人当てを創作した「理由」が見事に対になるのである。

 本書において韓采盧は李懐朴を犯人として指名する推理を行っている。だがもし別の犯人を指名したとしても、陸秋槎は韓采盧の推理がいちばん「面白かった」として褒め称えるつもりだったのではないか?*16

 この点について、明確な反証はないものの、かといってここに指摘した以上の有力な論証をするのは(少なくとも筆者の読解力では)難しい。だがもし、陸秋槎が冗談めかして語る「後期クイーン百合」というものが「そういう」意味なのだとすれば、この点まで含めて本書が記述されたとみるのは……あながち見当違いでもないかもしれない

フェルマー最後の事件」「不動点定理」においては、作中作の構造と現実の事件とが呼応するようになっていた。「グランディ級数」においても、陳姝琳の「間違った推理」の真意の不確定性がグランディ級数の特徴と重ねられている。だが本当にそれだけなのか。グランディ級数のアイデアはそのように局所的な推理においてのみならず、もっと大きな、作品全体のレベルで仕掛けられたものだと考えることはできないのか。

 韓采盧に対して語り手が犯人当てを出題したことの真意。それによって本書全体が語り手と韓采盧の交流の物語として再解釈される可能性。そこに作者の意図的な「余白」が用意されているように思えてならない

 

5. 読者 対 語り手  (陳姝琳について)

 だが、ここで終わっていればまだ「幸せ」なのである。

 真の問題はここからなのだ。

「グランディ級数」において読書会が無事終了した後、現実世界で本当に殺人事件が発生してしまう。そしてその殺人事件の真相は(いちおう合理的な説明はされるものの)最後まで明かされないまま終わる。

 これがこの物語のもっとも凶悪な点である。

 鍵を握るのは語り手のルームメイトであり、語り手と韓采盧との間で三角関係を担うことになる陳姝琳だ。

 まず前提として陳姝琳は語り手と韓采盧の仲が深まることについて、嫉妬に近い感情を有している。陳姝琳は語り手の親友であり、また唯一の理解者でありたいと願っているように見える。

「グランディ級数」の結末において、陳姝琳は語り手だけを警察の取調から解放させるためにあえて「間違った推理」を展開した(と語り手は解釈している)。これによって恋敵である韓采盧は蚊帳の外に追いやられ、思いがけず画面の端から登場した第三の女が勝利して終わる……ように見える

 だが本当にそれだけなのか。

 ここで問題となるのは、本書が語り手による一人称小説であるということだ。そしてまた、語り手と作者は同姓同名である擦れっ枯らしのマニアである作者がこの点について、なんの問題意識も持たなかったとは思えない

 ひとつの疑問がある。

 この「語り手」は「信頼できる」のか?

 

 p.258を見て欲しい。陳姝琳が大学に合格した後も予備校で英語の勉強をしている、という説明の場面である。陳姝琳の英語力について、語り手は「外国語学校の生徒に負けないレベルだったはずで、予備校になんか行かなくてもかまわないように思える」と述べている。

 p.304を見て欲しい。陳姝琳の服装を説明する場面である。「とても授業を受けに行ったようには見えず、パーティに参加するというほうがうなずけた」とある。

 そしてこの後、陳姝琳は驚くべきスピードで事件の全貌を理解し、(間違っているとはいえ)推理を展開し始める。事件発生当時その場にいた韓采盧や語り手よりも、早く

 これらの点を見れば分かる通り、陳姝琳の挙動は明らかに「不審」である。というより、これが通常のミステリー小説であれば「最有力容疑者」であるといって良い*17

 作中において陳姝琳が容疑者とされていないのは、予備校でのアリバイがあるから(p.305)だが、これについて警察は特段の裏付け調査をしていない。また、そもそも陳姝琳が口でそう云っているだけで、そこにトリックの入り込む余地があるかどうかすら読者には明示されていない。

 注意して欲しいのは、ここで「陳姝琳が真犯人だ!」と指摘しようとしているのではないということだ。*18

 あくまで、その疑いがあるだけで十分なのである。

 先述の通り陳姝琳には何点か不審なところがある。

 そして語り手である陸秋槎は、語り手だからこそこれらの不審点を知覚していたはずであり、陳姝琳が真犯人である可能性についても思考の片隅に浮かんでいたはずなのである。しかし、本文中では陳姝琳=真犯人の仮説がいっさい触れられていない。検討すらされていない。

深追いしないほうがいいことというのはある」(p.316)

 語り手は陳姝琳=真犯人とする仮説について、言及することすら、検討することすら避けている

 友人を疑ってしまうことそれ自体を恐れているのかもしれない。それによって友情が壊れてしまうかもしれないから。あるいは、もし陳姝琳が狂気の殺人者だった場合、真相に気付いた語り手を口封じする可能性を恐れているのかもしれない。「フェルマー最後の事件」における神の存在証明同様に、真偽を抜きにして「検討すべきではないから検討しない」という命題はあり得るのだ。

 無論、陳姝琳犯人説ならびに語り手の真意については、どちらも憶測の域を出ない。「どちらも正しい」、「どちらも正しくない」、あるいは「どちらか一方だけ正しい」……あらゆる可能性が想定できる。

 だが、ここで改めて、先ほどの言葉を繰り返そう。

「後期クイーン百合」というものがもし「そういう」意味なのだとすれば、この点まで含めて本書が記述されたとみるのは……あながち見当違いではないかもしれない。

 

 本書の巧妙な点は、これらの想像の余白を残しておきながら、見せかけのオチ(陳姝琳が嘘の推理によって語り手だけを連れ出したこと)によって余白の存在自体を隠蔽している点にある。

 読者は信頼できない語りのせいで、どこまでが信ずるべき記述で、どこまでが作中人物の真意なのかを測れなくなっているにもかかわらず、表面的には信頼できない語りの存在自体が隠蔽されているがゆえに、命題の存在にすら気づかないおそれがあるのだ。一見、作中作たる犯人当てにのみ生じていたかに見えるEQ問題が、その一個上の次元である作中現実のレベルでも成立し、さらに作者と読者の間にも発生している。ここにおいて読者=本書の謎を読解すべき探偵役は、一度作中作において(「連続体仮説」におけるロジックにおいて)無力化されたはずのEQ問題と再度向き合うことになってしまう

 このレベルまで掘り下げることによって、本書ははじめて真の牙を剥く

 

 ここまで考えると、語り手-韓采盧-陳姝琳の三角関係にも新たな意味が見えてくる。「連続体仮説」において語り手と韓采盧を引き合わせるきっかけを作ったのは陳姝琳だった。しかしそれゆえに彼女は、語り手の作った犯人当ての唯一の査読者としての特権的地位を失ってしまう。そしていつしか語り手は「犯人当て」を韓采盧のために創作するまでになる。「グランディ級数」における犯人当て読書会の場には陳姝琳が排除されていた

 なんたる皮肉だろうか。

 

 語り手から韓采盧に向けた「犯人当て」に込められた真意。

 そして、語り手から陳姝琳に向けた語られざる疑念。

 この二点について、本書は仄めかしをしつつ決定的な描写をせずに終わる。

 単に読者の「想像」に委ねられているだけではない。

 読者に求められているのは「推理」なのだ。

 この構造こそ、陸秋槎が作り出した究極のホワイダニットである。

 

 もし、この感想文で語った以外の手がかりがあるのならばぜひ教えて欲しい。

 かくいう筆者も、陸秋槎の仕掛けた迷宮の中に囚われたままなのだ。

 存在しないアリアドネの糸をずっと探しながら。

 

*1:具体的には淫祠邪教の烙印を押され、口から大量の水を流し込まされて火炙りにされる危険がある

*2:本文中ではクイーンは言及されど後期クイーン的問題は言及されていない。

*3:最判平成19年10月16日。参考

*4:もっとも、犯人当てにおいては別の問題が生じる。「作者がどこまで考えて作問しているのかわからない」という点だ。それこそ、小学生が作った問題と大学教授が作った問題とではその出来に違いがある。大学教授の作った問題にはちゃんとした正解筋が存在しそうだが、小学生の作った問題はそれ自体が破綻しているかもしれない。犯人当てにおいては作者が大学教授なのか小学生なのか、すなわち作者がどの程度の技量を持っているのかによって答えが変わってくる。このあたりは本書の問題意識とも重なるのだが、いずれにせよ犯人当てではEQ問題が生じない代わりに別の問題が生じている。

*5:同様の趣旨の指摘は他所でもなされている。

*6:別に色覚異常をミステリに使うことがタブーなわけではないが、いかんせん古臭い手法なのでこれが出てくると馴れたミステリ読者はちょっと背筋がゾクッとする。

*7:それはそれとして、二種類の合理的な推理から同じ結論に至るということ自体はあり得る。ここで問題となっているのは、探偵役が説明不能な推理方法を採っているにもかかわらず読者に合理的なロジックを求めることのフェアネスである。

*8:あるいは腐川冬子的な意味での文学少女でもない

*9:p.182 韓采盧は平然と『ジェーン・エア』をジョークに含ませているが、語り手はいかにも自信なさげだ。

*10:https://miniwiz07.hatenablog.com/entry/2020/12/25/065943

*11:https://twitter.com/luqiucha/status/605321565530554368?s=20

*12:莠 | 漢字一字 | 漢字ペディア

*13:ちなみに、席の配置は東南の角に座る陸の列が、順に陸、韓、凌。陸の対面に座る梁の列が、順に梁、段、袁

*14:注意すべきはこの配置を意図して行っているのが作者であるということ。語り手・陸秋槎は山眠荘が韓采盧の作った犯人当て見取り図と類似していることに気付いていない可能性もあるし、別に気付いていなかったとしても関係ない。大切なのは、作者・陸秋槎が意図的にこの構造を作出しているというという点である

*15:三門優祐氏のレオ・ブルース『ビーフ巡査部長のための事件』巻末解説を意識した表現です

*16:タイトルは挙げないが、実際に日本の本格ミステリ作品の中で、ある特定の人物の推理を正答とするために犯人当ての構造を捻じ曲げてしまうという話は存在する。

*17:ついでに云えば、喫茶店小宇宙は一見の客が簡単には来れないような場所にあるにもかかわらず、陳姝琳が迷ったかどうかが明言されていない点もトリッキーだと思う。陳姝琳がタクシーで現場に赴いたという点にも何か作為が感じられる。

*18:たとえば、陳姝琳には動機がない。ただし本文に書かれていないだけで、殺人の動機はいついかなるときも生じうる