偽史邪神殿

なんでも書きます

エルヴェ・ル・テリエ『異常(アノマリー)』感想 / 死後評価されることについて

 

 死後評価されたい。

 

 オタクなら誰でも一度は夢見ること……つまり「死後評価されること」について考えてみたい。

 不遇の天才だとか不世出の逸材とか、世に色々な「報われない才能」というのはあるけれど、中でも一番かっこいいのは「死後評価される」ことだ。ただ残念ながら、生きている間に自分が死後評価されたかどうかを確かめる術はない。

 でももし自分が死後評価されて、それを知ることができたとしたら……? そんな状況を描いたのが本書だ。

 

 

 

 以下、ふんわりと本書の内容(なんとなくのネタバレ)について触れる。

 

 ヴィクトル・ミゼルは売れない小説家だ。批評家からはそこそこ評価されているが、作品はまったく売れず、よその国のベストセラーを翻訳してなんとか生計を立てている。かれの七作目にして最後の作品が『異常』。かれは『異常』を書いた後、自殺する。

 死後、出版社はかれの悲劇的な生涯に目をつけて、ミゼルを大々的に売り出すことに決める。かくして自殺の報道とともに売り出された『異常』はベストセラーとなり、ミゼルは無事「死後評価される」ことになる。

 その死から二ヶ月後、もうひとりのミゼルが現れるまでは。

 

 大西洋に突如現れた飛行機。それは3箇月前にパリからニューヨークへ向けて飛んだはずの飛行機だった。2021年の3月にその飛行機は無事、ニューヨークに着陸したはず。それなのに、どうして同じ飛行機が、まったく同じ乗客たちを乗せて空中に出現したのか。

 アメリカ政府の上層部と研究者たちは問題の飛行機を着陸させ、調査を開始する。驚くべきことに、3箇月前に飛んだ飛行機の「完全なコピー」が現れてしまったのだ。乗客たちは自分の身に何が起きたのかわかっていない。無論、3月にちゃんと着陸したほうの飛行機の乗客たちは現在もふつうに生活しているわけで、かれらが同じ地球に二人ずつ存在するという事態になってしまう。

 そしてその乗客の中にミゼルもいた。3月に着陸したほうのミゼルは4月に自殺した。しかし6月に着陸したほうのミゼルはまだ生きていて、しかも自分が「死後評価されている」のを目撃してしまう。

 

 ミゼルの話を中心にあらすじを見てきたが、本書のなかでかれのエピソードの占める割合はさほど多くない。三部構成のうち第一部は複数の登場人物(主に乗客)たちの群像劇をグランドホテル方式(あるいは駅馬車方式)で語っていて、ミゼルもそのひとりにすぎない。

 それでもミゼルは特別なキャラだ。なんといっても小説内において作家は特権的な立場だし、かれの作品『異常』は本書のタイトルでもある。本書のメタ構造の鍵を握るのはミゼルにほかならない。*1

 

 フレンチユーモアを無数に織り交ぜた本書だが、そもそもミゼルが「死後評価される」までの経緯が皮肉だらけだ。たしかにかれは死後評価されているけれど、そのきっかけはかれの作家としての実力ではなく「自殺」という行動だし、はたして作中の読者たちがかれの作品の魅力を理解しているのかは怪しい。作中のミゼルがなぜ自殺をしたのかは明かされないままだし、『異常』を書くにいたったかれの心の動きを読み取ることができた者はいたのだろうか。

 しかもそれだけでは終わらず、ミゼルは「生き返って」自分が死後に評価されている様を見てしまう。加えて、6月に着陸したミゼルはまだ『異常』を書いていないミゼルであり、かれは未だ書いたことのない作品について賞賛を浴びることになる。作家にとってこんなに不幸なことはない。

 

 こんな目にあったらさぞや複雑な気持ちだろうと想像するのだが、作中のミゼルは意外にも淡白な反応を見せる。『異常』を書いたのも、自殺をしたのもあくまで別の自分にすぎない。自分は『異常』の真意を知らないし、自殺の真相も知らない、と。

 私はここに本書のもうひとつの残酷さがあると感じる。つまり当のミゼルにとっても、3箇月前に分岐したミゼル(自殺したミゼル)は他人でしかないという残酷さだ。

 たしかにそうかもしれない。自分が数年前に書いた文章を読んで、すごく落ち着かない気分になることがある。自分が書いたはずなのに、別人が書いたような気持ちだ。私たちは日々変化し続けていて、細胞は入れ替わり続けている。昨日の自分と今日の自分が同じである保障なんてどこにもない。これはすごく孤独なことだ。

 死後評価されたミゼル。だがはたして誰がミゼルの真意を見抜いていただろうか。誰がかれの心に寄り添えただろうか。ミゼル本人にすらわからないその想いが誰に伝わるというのか。

 作家と作品は別だ、というのはよく言う話だが、その作品を書いた瞬間の作者と、別の瞬間の作者もまた別人だ。結局、真の意味での作者は「その一瞬」にしか存在し得ない。これは究極の孤独だ。

 

 本書において語られる重要な概念として「シミュレーション仮説」というものがある。その意味するところについてはここでは語らないが、本書自体がシミュレーション仮説に基づく特殊な構造をしている点は注目すべきだ。ミゼルの『異常』とエルヴェ・ル・テリエの『異常』というふたつの小説がメタ的に存在しているのも、このシミュレーション仮説に基づくものである。

 本書においてル・テリエがやろうとしたことは正直わからないが、個人的には「作者を殺す」というのが中心的な発想ではないかと思う。

 シミュレーション仮説は現代版の神学だ。この理屈を考え始めると、我々の住んでいる世界が上位存在にとっての「物語」なのではないか、と疑わなくてはならなくなるし、その上位世界もまた別の上位世界に包含されているのではないか……という疑いが無限に生じる。ミゼルの上位にある『異常』の作者ル・テリエに対し、さらに上位の作者の存在が本書では示唆されている。これにより『異常』という小説は無限に続く上位・下位の世界を貫通し、超越的な意味での作者の地位は剥奪される。

 そして上述した通り、本来的な意味での作者は「その瞬間」にしか存在しない。したがって本書を書いた本当の意味でのル・テリエも今やこの世にいない。作者たるル・テリエは、ミゼル同様「自殺」してしまったのである(もちろん譬喩として)。

 

 本書の結末は(詳述しないが)非常にニヒルでペシミスティックだ。そこがフレンチユーモアの真髄なのかもしれないが、賛否は分かれるだろう。私はどちらかというと否寄りだ。そもそも創作というのはそんなにストイックなものでなくても良いし、実際の作者はさほど孤独でもない。だがミゼルやル・テリエのように究極の小説に挑むことへのあこがれも感じるし、やはり死後評価される書き手にはかっこよさを見てしまう。

 ま、そんなに考え込まずとも、本書は表面的には非常にわかりやすいし、文章が上手い。特に第一部はクオリティが高い。社会を射程に収めたパニックSFとしても読めないこともない。きっと読者によって感情移入したくなるキャラも違うだろう。*2

 

 極北に挑むル・テリエの背中を、遠くから眺めるのもまた一興だろう。

 

*1:ところで本書のあらすじは伴名練「ひかりより速く、ゆるやかに」によく似ている。創作に対する問題意識を語っているという点でも近しい。もっとも「ひかりより」では人類が適切な解決策を見いだすが、ル・テリエは人間を信頼していないのでろくなことにならない。

*2:作者は実験小説でおなじみのウリポの中心的人物だが、本書はエンタメと実験の両方を味わえる。