偽史邪神殿

なんでも書きます

どうして漢文を学ぶのか

 

 

 数年前に学校で漢文についてのレポートを書く機会があって、自分自身何を書いたのかほとんど忘れていたのだけれど、ふと思い立って改めて読み直してみたら割と真面目なことを書いていた。当時の自分はけっこう真剣に勉強していたらしい。実際、このレポート自体はそこそこ良い成績だった。

 ここ数年は漢文には触れていないし、なんなら中国語にもあまり触れられていないが、当時の初心を思い出すべく、ここに一部を抜粋することにしてみる。けっきょく、漢文って何が面白いのか。なぜ漢文を学ぶのか。そういう話を通じて、改めて自分の中の漢文に対するモチベーションを上げていきたいと思う。*1

 分量としては5000字弱。今見るといろいろ直したいところもあるけれど、当時の表現を尊重するため特に直していません(怠惰)。妙に引用が多いのは、当時のレポートがそういうレギュレーションだったからであって、筆者に引用癖があるからとかではありません。

 

一 漢文と「知」について

 英語で「知る」を意味する「know」は、少し変わった性質を持っている語だ。何かを「知る」という行為を意味していながら、実際のところは「知っている」という状態を表すことが多い。「I am knowing something」という表現は不自然である。

 この単語はまた、「you know」という形で英語の日常会話において頻繁に登場する。この場合の「know」は特に意味をなさない。しかしこの「ご存知のように」という言葉は、誰か他者との対話のなかで、相手の「知」を確認するような意味合いがあるのかもしれないと感じることがある。

 いかなる言語形態においても、「知」というのはある種の「運動」であるということを考えてみたい。

 あるものについて、それを「知っている」か否かというのは容易には測り難い。「知」はひとの脳内で起こっているものであるうえ、テストや問答を通じて測定することにも限界があるからだ。そもそも「知る」という行為に終着点があるのかどうかも怪しい。「走る」という行為の終着点は「走り終わる」ことであり、「喋る」という行為の終着点は「喋り終わる」であるが、では「知り終わる」ということはあるのか。

 これは、単に状態動詞と動作動詞の違いという次元の問題ではない。一般的な文法解釈にならい「知る」を状態動詞と仮定しても、同じく状態動詞である「住む」や「生きる」とは異なる。なぜなら「住む」や「生きる」という行為には転居や死による終着点があるが、「知る」には「知らなくなる」という終着点が(記憶喪失にならない限り)想定できない。

 知る、ということは、物事を「知り始めて」からずっと継続する動作なのではないか。ある人物と知り合ったときから、私たちはその人物についての情報を学習し続ける。「某さんのことは知っていますよ」というとき、私たちは某さんのことについて知り始めていて知る途上にあることは間違いないが、決してすべてを「了解」して「知り終えている」わけではない。

子曰、「由、誨女知之乎。知之爲知之、不知爲不知、是知也。」

論語 為政第二]

 論語の中では、右のように「知らざるを知らず」となすことこそ「知」であるとする考えが述べられる。「何かを知る」という行為は、「それまで知らなかったこと」を認識する行為であり、それはすなわち「未知のなにものかが存在することを認める」というような行為でもあるだろう。日常生活においても、「学べば学ぶほど分からないことが増えていく」ということは多い。

 ではもし「不知を不知となす」ことができなければ、そのひとにとって「知」の運動は起こりえないのだろうか。何か新しい出来事が起こったとき、「こういうことが起こりうるのか」と感得してみずからの未知のものとして事態と向き合おうとするひとと、「何も目新しいことではない」と断じてみずからの既知のものとして事態を扱おうとするひとでは、どのような違いが出てくるだろうか。

 東日本大震災が起こった際、「想定外」という言葉が取り沙汰にされたことは、まだ記憶に新しい。この「想定外」という所感は、「不知を既知となしてしまったひと」の末路の好例ではないだろうか。「想定外」という言葉の言外に表れている「想定していないこと、未知のことに対処するのはあまりにも困難だ」という意図は、まさに未知のものを未知のものとして扱う知性を育んでこなかった者の発言のように思われる。

 これはもちろん、来る災害を想定しその備えをすること自体を批判しているわけではない。ただ、人間の想定には限界があり、いかなる場合においても万全な備えなどありえないということを留意しなければいけないはずだ。荘子にも次のように述べられている。

小知不及大知、小年不及大年。

荘子 逍遥遊]

  人知にも言語にも限界がある。そのことは事実として認めなければならない。しかし「想定外のことには対処できない」というような立場を取ってしまうことは、未知の出来事が起こってもそれに対して今までどおりの知の枠組みで対応しようとしてしまうことを意味する。それでは不十分なのではないか。不測の事態に際して意識せず既存の枠組みの中で物事を考えてしまう危険性については、『三国志』から見ることもできる。数字上の劣勢を覆して官渡の戦いにおいて袁紹に勝利した曹操は、次のように述べている。

公曰、「吾任天下之智力、以道御之、無所不可。」

三国志巻一 魏書一 武帝紀]

 ここでいう「天下の智力」こそ、曹操を激励した荀彧に代表されるような、既存の知の枠組みを刷新しながら新事態と向かい合う知性ではないか。未知の出来事が起こった際、「不知を不知となす」ことによって自らの知の枠組み自体を更新していかなければ、未知の出来事に対応することはできない。

 しかし、必ずしも「不知」を標榜していれば良いというわけではないのが、難しいところだ。

弼曰、「聖人體無、無又不可以訓、故言必及有。老荘未免於有、恆訓其所不足。」

世説新語 文学第四―08]

 王弼は、無を体得している聖人もそれを言葉にしてしまえば有になってしまう、と述べている。「無」という概念があまりにも漠然としているため解釈は容易でないが、「知」についても同じようなことがいえるのかもしれない。つまり、己の「不知」を明瞭に認識していることが望ましいが、だからといって「私は何も知らない」と嘯くのは知性でもなんでもないということだ。大切なのは自分の「知」に対する姿勢であって、「不知」であり続けることではない。

「不知を不知となす知」は、回転し続けるエンジンのように私たちの脳で稼働している。会話の中で「you know」と差し挟むとき、私たちは他者の「知」のエンジンが稼働していることを期待し、確認しているのではないか。終着点のない「知」の行為の中で、みずからの「知」のエンジンを回し続けることが「知」と向き合う学びに際して求められている。

 

二 漢文・中国古典を学ぶ意味

 高校の時分、漢文が好きだった私は、この科目があたかも無益な科目であるかのようにいわれるのが悔しかった。だから、私はこうした言説に反論するべく、理屈を考えた。それは以下のようなものだった。

「漢文とはただ単に中国古典を読む行為ではなく、中国古典を読解しようと試みた過去の日本人の思考の痕跡をたどる作業だ。白文に返り点を打ち、それを読んでいく作業は、日本人が中国の文献からあらゆるものを読み取り、みずからの文化に取り込んでいった歴史を再現する行為である。そうした形で中国古典と、そして日本人の思考の歴史をたどることは、きわめて特殊な意味合いがあり、漢文なしに日本文化の歴史を追うことはできない」

 現在においても、この主張は我ながらある程度の説得力を持っているように思うが、同時に一面的な解釈であるようにも感じられる。そこでいまいちど中国古典を学ぶことの意味というものと向き合ってみることとしたい。

天寒鳥已歸

月出山更靜

土空延白光

松門耿疏影

躋攀倦日短

語樂寄夜永

明燃林中薪

暗汲石底井

……

[杜詩詳注巻七「西枝村尋置草堂地夜宿贊公土室二首」其二]

天寒く鳥已に歸り/月出でて山更に靜かなり/土室 白光を延き/松門 疏影耿かなり/躋攀して日の短きに倦み/樂しきを語りて夜の永きに寄す/明らかに燃ゆ 林中の薪/暗きに汲む 石底の井 

 右の杜甫の詩は、「靜」と形容される情景を詩文によって表現しようとした試みだ。講義の中では、それそのものの性質上言語化することができない「靜」という概念について様々な検討がなされた*2。靜というのは、その静謐な空間で感覚を研ぎ澄ます自己がなければ成立せず、誰かに説明されて納得するようなものではないからだ。さて改めて見てみると、杜甫の詩はこの問題をしっかりクリアしているように思われる。五言詩の僅かな情報量だけでは、そこに描かれている情景をありありと描写することは難しい。必然的にそこには読み手の想像力が必要となる。そして読み手はそこに並んだ文字から風景・情況を想像し、見出していく。その行為は実際の景物を見るのとよく似た感覚器官のはたらきを要求しているように思われる。だからこそ、この漢詩文を読むという行為には必然的に感覚を研ぎ澄ます読み手の靜が成立している。

春眠不覺暁

処処聞啼鳥

夜来風雨声

花落知多少

[孟浩然「春暁」]

春眠暁を覺えず/処々に啼鳥を聞く/夜来風雨の声/花落つること知んぬ多少ぞ

  この詩は、科挙に合格せず惰眠を貪る作者の境遇と、それとは無関係に訪れる春の日夜を想起させる。起句で「暁を覺えず」と詠み、転句で「夜来風雨の声」と詠むところからは、夜遅くまで眠れず風雨の音に耳を傾け、しまいに朝まで寝過ごしてしまう作者の毎日が感じられる。そうした「自分の生活など気にも留めずに回っていく自然や世間」が切り取られている詩である、というのが私の印象だった。

 杜甫と孟浩然のこれらの詩を見ると、両者がともに言葉の余白、つまり語られていないことを詩歌の重要な要素として機能させていることに気付く。杜甫の詩に顕著に表れていた「読み手が感覚を研ぎ澄ます必然性」は、春暁の詩にも多少なりとも存在している。それは詠み込まれている景物のすぐそばに必ずあるはずの、しかし直接的に言及されない孟浩然自身の有様であり、その余白に思いを馳せたときこの詩はいっそうの深みを持つ。

何處秋風至

蕭蕭送雁群

朝來入庭樹

孤客最先聞

[劉禹錫「秋風引」]

何処よりか秋風の至る/蕭々として雁の群れを送る/朝来庭樹に入り/孤客最も先に聞く

山鳥飛絶

萬逕人踪滅

孤舟蓑笠翁

獨釣寒江雪

[増広註釈音弁唐柳先生集巻四十三「江雪」]

千山 鳥飛ぶこと絶え/万逕 人踪滅す/孤舟 蓑笠の翁/独り釣る 寒江の雪

 そうした視点を踏まえて、右の二詩も見てみたい。劉禹錫の詩は比較的明快に情景を説明しているが、「秋風」「雁」「庭樹」という風に視点が移動したあとで最後になって感受者である「孤客」が登場する。孤客は「最も先に聞」いたあとで、秋風の来歴を想像しているはずなのに、詩中の描写はそれとは逆に風の流れる順序に沿って進んでいく。この奇妙な食い違いが詠み手である劉禹錫と読み手である我々の一筋縄ではいかない関係を強烈に意識させる。そしてまた、同時に風に乗って進むような独特の視点移動を生み出していることも間違いない。手法の妙によって読み手に対し、余白部における重層的な読みを可能にしているという部分に注目したい。

 柳宗元の詩は起句、承句で人気のない情景が説明され、その中にひっそりといる蓑笠の翁と、その視線の先にあるであろう雪景色が描かれる。孤独な環境は丁寧に説明されているのに対し、その具体的情景については読み手に委ねられているようにも感じられる。

 

 結局のところ、中国古典を読むことの意味合いとは何か。日本語話者にとっては、中国古典こそ日本語文化の最重要のルーツであり、それをたどることで日本人の思考の歴史を追うことができるというのは先述した。しかし、それだけではない。日本も含めた世界各地であらゆる文学があるなか、あえて中国古典を読むことで感じられるのは、「親近感」かもしれないと思う。

 中国と日本は東アジアの中でも特に近い文字文化を共有している。そうした文化的な「親近感」の話でもある。そしてまた、ここまで見てきたように中国古典には書き手の言葉の余白を、読み手が補っていくような性質が色濃く表れている。これはつまり中国古典を前にしたときの読み手(特に漢文成立の事情とは一歩引いた視点に立つ日本の読み手)が、ただ受動的ではありえないということを意味する。これによって読み手はある程度能動的な関わり方で文章に接することになり、読み手は書き手と近い立場になっていくのではないか。中国古典の与えるもうひとつの「親近感」とは、遠い立場にあるはずの古の中国の書き手と、現代の日本の読み手の間に生まれる親近感だ。

*1:ブログタイトルも魏志倭人伝から取ってるんだし、たまには漢文の話をしてもいいでしょ

*2:そういう授業だったんです