偽史邪神殿

なんでも書きます

『文学少女対数学少女』を読んでなぜ鳥肌が立ったのか〈感想〉

 

文学少女対数学少女 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
 
「気持ちを証明するにはどうしたらいい?」
「さあね。それには昔からみんな悩んできたんだ」
 ──桐野夏生「独りにしないで」

  

 陸秋槎の推理小説文学少女対数学少女』を読んだ。鳥肌が立った。

 それはなぜなのか。

 以下、感想をつらつらと書いていく。

 まず本書におけるミステリ的技巧について概略した上で、それが具体的にどのような形で実行されているかを確認し、さらには作者が仕掛けたトリックがいかにして炸裂したのか、そしてその意味するところはなんなのかを本文の記述を拾いつつ実践的に観察していく。

 なお、作中のトリック・オチについて触れる箇所があるので、未読の方には基本的におすすめしない。

  また、本書には作者と同姓同名異性の「陸秋槎」が登場するが、区別のため、以下では作者の方を「作者」登場人物の方を「語り手」と呼称する。

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プリズン・ブレイクに学ぶ おすすめ脱獄法10選

 

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 ここ数ヶ月はずっと『プリズン・ブレイク』にハマってて、二六時中そのことを考えていた。(残りの十二時間は『天牌』のことを考えていた)。ずっと家に引きこもって生活しているのだから脱獄に思いを馳せるのもむべなるかな。おそらく皆さんの中にも、脱獄に対する抑えきれぬ憧憬を抱きながら日々引きこもっている方々がいることだろう。

 これからのトレンドは「脱獄」なのだ。

 というわけで、今回はおすすめの脱獄方法をランキング形式で紹介していく。脱獄とは知性と体力の限界に挑むエクストリームスポーツのようなものであり、これまで多種多様な脱獄法が考案されてきている。その中から特に秀逸なものを選りすぐって見ていこうと思う。

 すでに収監されているみなさんだけではなく、将来逮捕される予定の方々にも参考になるハウツーなので、ぜひ最後まで読んでほしい。

 では第10位から。

 

 

第10位『暴動を起こす』

 現実に海外の刑務所とかでたまにあるやつ。法治国家制度が進むと犯罪者への取締が厳しくなり、やがて収監者の増加及び刑務所の管理能力のパンクが問題となることが知られている(法社会学的知見)。そうなってくると受刑者たちによる暴動で、刑務官が殴り倒され、強引に脱獄が行わることが起こりうる。特にひねりはないが、ひたすら『力』によって脱獄するという単純さに加え、一度に大勢の脱獄が見込めるためシンプルにして最強の脱獄法だ。デメリットとしては脱獄後すぐに軍隊が投入されてさいあくの場合射殺される可能性があるという点である。あと、同じ受刑者であっても暴動に巻き込まれて死ぬ危険がある

 ちなみに応用例として「火災を起こす」というものもある。火災を起こすこと自体はわりと容易だし、火が出れば消防を呼ばざるを得ないし、囚人たちも避難せざるをえない。だが同時に、閉鎖された刑務所内に閉じ込められる危険もあるため、あまりおすすめはできない。

 また特殊な例として『あしたのジョー』で矢吹丈が少年院から逃げ出すために、院内で飼われている豚たちを暴走させてその隙に逃げ出そうとしたという例があるが、これは失敗している。以降、現在に至るまで豚を利用した脱獄の成功例はない。未来の脱獄犯に期待したいところだ。

難度★ 応用可能度★ おすすめ度★

 

 

第9位『身体の関節を外して檻から脱出』

 網走から脱出した昭和の脱獄王・白鳥由栄が得意とした手法。この男は4回も脱獄に成功しており、まさにリアルプリズン・ブレイクを体現している人物。様々な媒体で扱われている著名人だから知っているひとも多いと思う。一説によると頭さえ通過すればどんな場所からも脱出できたらしい。格闘漫画っぽい設定。なお関節外しはかなりの練度を必要とする技術なので素人はぜったいに真似してはいけない。関節を外しすぎるとどうなるかについては『TOUGH』を読んで勉強しよう

難度★★★★ 応用可能度★★ おすすめ度★★

 

 

第8位『脱獄したと見せかけて大騒ぎになったところで騒ぎに乗じて脱獄』

 完璧な密室から脱出した!……と見せかけて実はどこかに隠れておく。脱獄が発覚すると刑務所は厳戒態勢になるが、同時にそこには刑務所内の警備に対する死角が生じる。その死角を突いて本命の脱獄をするという手法だ。

 アルセーヌ・ルパンのような怪盗や、トリックを仕掛けてくるタイプの知能犯が得意とするミスディレクション脱獄法であり、エレガンスな知性を感じさせる妙手といえる。だが実際にやるとなるとこれは難しく、他の手法との組み合わせがなければ不可能だろう。危険性を度外視して脱獄の鮮やかさを求める向きにおすすめ

難度★★★★★ 応用可能度★★★★ おすすめ度★

 

 

第7位『刑務官を手懐ける』

 禁じ手のようではあるが、割と有効な手法。

 刑務官は文字通り囚人を管理する立場の役職だが、必ずしも正義の味方とは限らない。暴力的な刑務官もいれば、金になびく悪徳刑務官もいる(偏見)。そういう輩に上手く取り入れば、きっと頼れる仲間になってくれるはずだ。

 具体的な方法としては「①他の囚人のまとめ役になり刑務官と団体交渉する」「②溢れる財力で買収する」「③圧倒的な実力で跪かせる」というパターンが考えられる。②はマフィアのボスとか、③はビスケット・オリバとかしか出来ないやつなので、現実的なラインとしては①を狙うのが妥当だろう。

 ちなみに密告役として刑務官に取り入る方法もあるにはあるが、これはバレたときに囚人と刑務官の双方から見放されるのでおすすめしない。

難度★★★★ 応用可能度★★★★★ おすすめ度★★★

 

 

第6位『病気のフリをする』

 多くの刑務所には医療設備が併設されているが、入院や緊急治療を必要とするほどの疾病には対処できない。そこで重病を装って刑務所から病院へ移送されることを狙うという手法がある。症状の偽装については命の危険がない程度の毒物を服用するなどが考えられる。

 また発狂した演技により精神疾患心神耗弱を装うという応用パターンもある。

 ただし、たとえ病院に移送されたとしても、そこから脱出するには別の方法が必要だし、場合によっては通常房より厳重な警備施設へ移されるリスクもある。あくまで他の方法と組み合わせて使うことが推奨される。

難度★★★ 応用可能度★★★ おすすめ度★★★

 

 

第5位『鍵を奪う・こじ開ける』

 刑務所というのは無数の錠で出来ている。囚人を覆う檻は二重三重にめぐらされており、容易には脱することができない。そんな情況では、いくつかの鍵をこじ開ける技術が必要となってくる。

 もしあなたにスリの技術があれば、刑務官から鍵を盗みとり、そこから簡易な合鍵を作ることもできる。また、あなたにクラッキングの技術があれば、電子解錠システムの穴を突くこともできる。などなど鍵開けのスキルというものは様々な可能性があり、持っていて損はない。もしあなたにそういうスキルがなかったとしても心配は無用だ。刑務所には空き巣やスリの常習犯が必ずいる。そういう人物たちと仲間になっておけば、必ず役に立つ。もちろん、刑務官たちもその点には注意しているから鍵を開けただけでは脱獄できないように厳重に監視しているものの、鍵開けが基礎テクニックとして役立つことは間違いない

難度★★ 応用可能度★★★★ おすすめ度★★★★

 

 

第4位『檻を薬品で溶かす』

プリズン・ブレイク』『十三号独房の問題』などで登場する手法。刑務所内では意外にもいろいろな道具が手に入るのでDIY能力が高ければ様々な便利アイテムを作ることができる。化学薬品もそのひとつであり、持ち前の知識と工作能力によって金属部品を破壊するのは、脱獄学における中級テクニックともいえる。この技術を応用してより高度な脱獄に挑戦しよう!

 ちなみに先述の白鳥由栄は味噌汁を手錠に掛け続けて金属部を腐食させるなどの奇想トリックも編み出している。金属を溶かす手法は、単に鍵をこじ開ける手法に比べて応用の幅が大きく、また刑務官たちの予想を裏切る技術でもある。是非、押さえておきたい。

難度★★★ 応用可能度★★★★★ おすすめ度★★★★

 

 

 さて、ベスト3の発表の前に、惜しくも10選に選ばれなかった脱獄法を番外編として紹介しておこう。難点はあれど、捨てがたい脱獄法を集めてみた。

ヘリコプターを使って脱獄

 刑務所の上にヘリコプターを寄越してそのまま吊り上げてもらえば逃げられるだろう、という安直な発想。ふつうに乗り込むタイミングで刑務官に撃たれるリスクがある。『プリズン・ブレイク』でも一瞬だけこの方法が登場するのだが、禁じ手に近い。

人質をとって脱獄

 刑務官や医者を人質にして脱獄するケース。暴動パターンの亜種ともいえる。一度人質にとってしまえばかなり優位に立てるが、現場の判断次第で即射殺される可能性も高い。また、人質を制圧できるだけの武器を入手するのが難しく、リスクの割に微妙な方法だ。

ミステリー小説のトリックで脱獄

 だれもが一度は考えるが、ぜったいに上手くいかないやつ。世の中に密室トリックはありふれているが、脱獄法として実用できるものは限りなく少ない。また、応用できるものであっても実現に必要な条件がきわめて限られており、最終的にすべてがFになってしまう可能性も高い

死んだフリをして運び出される

 本家『プリズン・ブレイク』でもボツ案として登場する。日本ではふつうに火葬される。

 

 などなど、アイデアとしては悪くないものの、いまいち脱獄法としてはおすすめできない方法だ。ではここから、ついに脱獄法ベスト3を発表しよう。

 

 

第3位『移送時に脱出』

 そもそも脱獄というのは非常に難しい。ならば、監獄からの脱出にこだわる必要はないのではないか

 そんな発想の転換から生まれた手法がこれだ。囚人は裁判所との行き来や、刑務所への移送時に警察官や刑務官の付添の上で車に乗せられる。このときに協力者の助けを借りるなどして車を襲撃してもらい、脱出するという手法がある。この方法は派手で大胆ながら成功率が高く、『K─20』『ダークナイト』など様々な映画に登場する。ただし、あなたがジョーカーや怪人二十面相のように心強い部下を持っていない限り成立しないし、下手をすると死人が出る方法なので、人を選ぶ手法であることは間違いない。

難度★★★★ 応用可能度★ おすすめ度★★★★

 

 

第2位『穴を掘る

 いわずと知れた脱獄の代名詞。『ショーシャンクの空に』『大脱走』などの往年の名画でもお馴染みであり、脱獄と聞いてまず穴を思い浮かべる方も多いはずだ。

 古典的にして間違いのない方法であり、かつ穴を掘ること自体は非常に簡単なので脱獄初心者にも安心しておすすめできる。しかし、掘削のための道具の選定(歯ブラシやスプーン、釘などを改造して使う)や、掘削時に必ず出る削りカスや砂の処理など、実現にあたっての困難は多く、また他の囚人にバレる可能性も高い。また単純に掘るだけだと、脱獄までに十年以上かかることになってしまう。

 そこで、協力者を募ったり、事前に建築に関する知識を深めたりするなどの入念な準備が不可欠でもある。万全の態勢で穴掘りに挑もう。

 脱獄のバイブル『プリズン・ブレイク』では、あくまで穴を手段のひとつとして利用し、要所で使うことによってそのリスクを最小限に抑えている。プリズン・ブレイク』は脱獄初心者には必見の入門書となっているはずだ。

難度★★★ 応用可能度★★★★★ おすすめ度★★★★★

 

 

第1位『無罪を立証する』

 最強の脱獄法とは恩赦、ないし無罪放免である。

 ……なんて書くと「ふざけるな!」と怒るひとがいるかもしれないが、これは事実だから仕方ない。それに『プリズン・ブレイク』の視聴者であれば、この無罪の重みがよくわかるはずだ。ゴールは脱獄ではなく、無罪なのだ。

 ここまで紹介してきた方法によって脱獄に成功したとしても、そこからえんえんと逃亡生活が続くことは避けられない。『プリズン・ブレイク』を全話視聴したうえでわかるのは、やはり法的に赦される以外に完璧な脱獄は成立しないということである。無罪の立証にあたっては、論理によって無実を主張しても良し、ペリイ・メイスンよろしく法廷闘争をしても良し、あるいは本当は自分が真犯人なのに、嘘の論理によって無罪放免を勝ち取るという方法もあり得る。また日本であれば天皇即位時、米国であれば大統領の交代時期恩赦が出されるため、軽犯罪であればここで救われることもありうる。

 というかドナルド・トランプと仲良くなっておけばたいがいどうにかなる

 いずれにしても、無罪立証や恩赦には様々な抜け道があり、自分に合った方法を見つけることができるだろう。簡単ではないが、最強の脱獄法だ。脱獄学の行き着く先として、力強くおすすめしておきたい。

難度★★★★★ 応用可能度★★★★★ おすすめ度★★★★★

 

 

 いかがだっただろうか。

 一口に脱獄と云っても、その手法は様々であり組み合わせも無限大だ。ここに書いたのは代表的な例だけであり、おそらく今後も独創的な脱獄法が有志によって編み出されることだろうと思う。今まで脱獄に興味のなかった皆さんも是非、脱獄に挑戦してみてほしい。

 

 

 

 

だましだまし、華文ミステリを読もう!

 どうやら世間では中国の現代小説というのがひそかなブームになってるらしい。華文ミステリというジャンルもここ数年やたらもてはやされるようになったし、『三体』もようやく和訳されて中国現代小説の面白さというのがいよいよ浸透しつつあるのかな、と思う。

 でもそうはいっても華文ミステリの日本への紹介はあまり進んでいない。作家単位でちゃんと訳される動きがあるのは香港出身の陳浩基とか日本在住の陸秋槎くらいなもので、バリバリに本土で活動している作家は島田荘司チルドレン数名くらいしかまともに訳されていない。ちょいちょい訳されるとしても一作家一冊くらいが限度だ。

 きっと日本の本格ミステリジャンキーたちはこう思ってるはずだ。「もっと華文ミステリ寄越せよ!!」。そういうあなたのために、本記事は書かれた。

 読めばいいじゃん。原書で。

 

中国の書店

 

 しかしいきなり中国語の本を原書で読むというのは、なかなか心理的ハードルもあるし、どうしたら良いのかわからないとこだと思う。そこで、今回は華文ミステリを原書で読むハードルをひとつひとつ突破する方法を書いていく。これを読めばあなたも「だましだまし」で華文ミステリが読めるようになる!

 もちろんミステリに限らず、他の中国現代小説を読む上でも応用できる話だけど、いちおう焦点はミステリに絞っておく。

 あと注意点として、この記事を書いている筆者も、べつに大して中国語の本を読んでいるわけではない。半年前に原書を読み始めて以来、丸々読んだのは三冊だけだし、あとはせいぜいネットで中国語のサイトを巡回してるくらいしか中国語に触れてない。

 なので中国語玄人のひとには本当に申し訳ないけど、これはあくまで初心者による初心者へのアドバイスということで。

 

①語学力

 なんといってもこれ。

 中国語をすでに習ったことがあるひとはこの項目を読む必要はない。さっさと原書に手を伸ばしてほしい。

 中国語を習ったことはないひとも焦ることはない。なんせ中国語というのは、日本人にとって非常に学びやすい言語だからだ。文法は英語に類似しているし、漢字はもはやお馴染み。簡体字さえ憶えてしまえば、見たことのない単語であってもだいたい意味が類推できる。これほど楽なものはない。

 唯一にして最大の難所はピンイン(発音)だが、読書に関してはこれを無視できる。もちろんウォアイニーくらいはわかってたほうがイメージとしても良いのだけど、無理して憶える必要はない。

 初学者が中国語の本を読むためには、とりあえず文法書と単語帳を一冊ずつ用意すればこと足りる。巻末に発音CDがついてる分厚い本を買う必要はない。

 なお筆者は一年弱中国語を習っていたが、テストでは毎回カスみたいな点数を取っていたし、発音に関してはほとんど雰囲気で乗り切ってるだけでロクに憶えていない。それでも、文法と最低限の基礎単語さえ把握していれば本は読める。本を読む上で言語力のさらなる向上も期待できるから、実は語学力はあまり問題にならないのだ。

 華文ミステリを読むうえで語学力の心配がいらない理由がもう一つあるのだけど、それは後で説明する。

 

②本を入手する

 意外にも面倒なのがこっち。本の入手法。

 ベストの選択肢は、実際に中国本土へ渡航して現地の本屋で買うことである。

 何をバカな、と思うかもしれないけど、真実だから仕方ない。中国のペーパーバックはだいたい日本の文庫本と同じかちょっと安いくらいの値段だ。ただしそれは現地の書店での話であって、日本の書店で中国語の輸入書を買うとなると2000円とか3000円とかふっかけられることになる。筆者も神保町の東方書店や内山書店にはよくお世話になってるけれど、この値段の高さだけはなかなか厳しい。

 それに、輸入本は種類が少ない。日本人作家の中文訳とかはやたら揃えてあるわりに、中国人作家の作品はよほどの売れ線以外は置いてないというのが通常である。あたりまえといえばそう。

 しかしだからといって中国の書店に日々通うというのも現実的じゃない。中国に友達でも住んでいれば良いのだが、そう都合良くもいかない。中国からの通販を依頼するという手もないわけではないが、やはり割高だし、しかもいつ届くか信用できないという問題もある。

 そこで役に立つのが、電子書籍だ。

 中国語の書籍はkindleみたいなサイトにはあまり出回っていない。代わりに何を使うかというと、豆瓣(douban)というサービスを使う。

book.douban.com

 豆瓣はかんたんに説明すると「kindle読書メーター」みたいなサービスで、中国の電子書籍業界においては覇権を握っているアプリだ。日本からでもアプリストアからかんたんに入手できる。iOS版はこれ。しかも中国のめぼしい現代小説はたいていこれで手に入る。

 何よりうれしいのが値段。中国語の本が現地で安価なのは先述の通りだが、電子書籍はさらに安い。セールが組み合わさると一冊180円くらいはザラにある。これは中国語の本が基本的に日本の本よりちょっと薄いのと、編集がわりとざっくりしてるのと、まぁいろいろ理由はあるのだけど、とにかく安い。

 買うときもアプリ内課金でかんたんに購入できるのでレートを気にする必要もない。少なくともAppleが中国アプリを規制するまではこの調子で使えるはず。レスト・イン・ピースTikTok

 ちなみに豆瓣ではkindleについているような機能はだいたい使える。メモ機能や辞書機能はあるし栞も使える。欠点は本文検索機能がないことくらい。

 あとひとつ困ったことに、電子版だと元の本に載っていた図面が省略されていることがある。館の見取り図とか。館ものや密室ものじゃなければ何の問題もないけど、トリックの図解があったりすることもあるので、これは要注意ポイントというか、覚悟して買わなくてはいけない。200円足らずで買えるのだし、よく本文を読めば図がなくてもなんとかなるので、ここらへんで妥協しなくてはいけないのかもしれない。

 

③華文ミステリを読むうえでの注意点

 さて、では実際に華文ミステリを読む段階で注意すべきことはなんなのか。

 ふつう馴れない言語の本を読むときに使われるテクニックとして、「わからない部分は飛ばす」という手法があると思う。いちいち辞書なんて引いていたらいくら時間があっても足りないし、物語の大筋を捉えるためにも飛ばし読みはある程度有効だ。

 でもミステリについてはこれはあまりオススメできない。特に本格ミステリだと一文の描写が物語上重要になってくることなんてよくあるし、細かい論理は拾い読みだと理解しきれない。できる限り丁寧に読まないと意味がない。

 じゃあ華文ミステリを原書で読むのは難しいってこと……?と思うかもしれないが、そういうわけでもない。

 なぜなら華文ミステリは日本の推理小説の「お約束」に強く縛られているからだ。

 中国語圏では東野圭吾宮部みゆきのようなベストセラー作家や、綾辻行人島田荘司のような本格謎解き作家が非常によく読まれている。したがって華文ミステリの多くもそれらの作品の強い影響下にあり、展開が日本のミステリと酷似したものになりやすいという性質がある。

 特に本格ミステリではある種の様式美といっても良いようなお約束展開がいくつもある。たとえば「探偵役がワトスン役の誤推理を一刀両断する」とか「脇役のなにげない一言から真実が明らかになる」とか。華文ミステリにはそういうお約束展開が沢山出てくる。

 だから、日本のミステリ読者にとっては非常にわかりやすい。作者の意図を読み取りやすいのだ。「館」とか「密室」が出てくるような、いわゆる「本格推理」ものほどこういう傾向は強く、だからこそ華文ミステリは日本人にとって非常に読みやすい内容だといえる。

 他に華文ミステリを読むうえでの注意点としては、特殊な語彙とかだろうか。「绑匪(誘拐犯)」とか「阿里比(アリバイ)」とか「约翰·迪克森·克尔(ジョン・ディクスン・カー」とか、ミステリ以外ではめったに見ないような語彙が登場する。そのあたりに不安があれば、日本のミステリ作家が書いて中文に訳された本とかを練習がてら読むと良いかもしれない。和ミステリの中文訳はやたらと充実しているので、中国語初学者には格好の教材になる。日本に限らず世界の短編ミステリを集めてきた傑作集とかも売ってるのでオススメです。

 

④で、何を読むか?

 せっかくなんだから日本で紹介されていない作家を読みたいところだ。

 どうやら華文ミステリの中には翻訳権ごと中国の出版社が掌握しているものがいくつかあって、そのあたりは日本で紹介される予定がまるで立っていないらしい。まぁ陳浩基とか陸秋槎とかはほっといてもいつか訳されるだろうから良いとして、やはり日本にぜんぜん紹介されていない作家を読んで「通」ぶりたいところ。

 そんなあなたに良質な情報をくれるのが阿井幸作さんのブログだ。華文ミステリの有名所を網羅的に紹介していて、おそらく日本語で読めるもっとも詳細な華文ミステリ紹介記事だと思う。ちなみに阿井幸作さんは翻訳ミステリー大賞シンジケートでも毎月華文ミステリ事情を紹介する連載を持っていて、こちらもヘッズ必見の内容になっている。

 そのほかにも、先ほどの豆瓣に書き込まれた感想コメントを辿っていくという方法もある。豆瓣は読書メーター的機能もあるので、中国のミステリオタクたちが何をどう面白がっているのかを読むことができる。中文版の青崎有吾作品を読んでるオタクがどういう華文ミステリを普段読んでるのかとか、そういうふうに調べていくと学びがある。

 あとこれはミステリの話じゃないけれど、中国のSF界隈とかになるとネットで連載している雑誌があったりして、業界の先端を行く作家たちの作品が無料で読めたりする。興味があれば調べてみると良いかもしれない。

 などなど。とっかかりは色々ある。とりあえず筆者はここで紹介されている本格ミステリをぼちぼち読んでいこうと思ってる。

 ちなみに個人的にオススメの華文ミステリは『凛冬之棺』。次から次へと密室が登場して、それぞれに驚愕のトリックが仕掛けられているというザ・本格推理という感じの一冊だ。国内本格好きだったらかなり高い確率で盛り上がれる内容なので、ぜひ読んで欲しい。

中国のジョン・ディクスン・カー

book.douban.com

 

 

 ……いかがでしたでしょうか(呪言)

 華文ミステリは日本に比べるとまだ歴史も浅く、エンタメとして成熟しきっていないような作品もある。それは事実だ。しかし一方で華文ミステリを読んでいると、日本の国内本格とはまったく違う方向へとその芽を伸ばしていっているような気配も感じられる。ジャンル黎明期のフレッシュなパワーを直接肌で感じたければ、原書で読むのがうってつけだ。

 既訳の華文ミステリに満足できないあなた。国内本格には毒が足りないと感じているあなた。そしてなんでもいいからとにかくヤバい本格ミステリ寄越せ!と思ってるそこのおまえ!

 だましだましでいいから、華文ミステリ読んでみませんか。

 

 

 

小説/テキサス・タイプライター

 

 バチバチバチバチバチバチ
 カシャッ。
 バチバチバチバチバチバチ
 カシャッ。

 その頃の名残は、一葉のセピアの写真と、そして無数の赤茶けた紙片から見て取れる。


Type A, Please

 テキサスタイプライターと正式に呼ばれる道具は存在しないのだが、テリー・ハートフィールドと彼の用いたタイプライターはたしかに実在したし、彼がそれをテキサスタイプライターと呼んでいたことも事実である。彼の残した物語を信じるならば、事実といえるという意味なのだが。
 文献の信憑性について至らぬことを考えてみる。それはあるいは疑いだせばきりのないことであって、ゼリーの上でダンスするくらい見た目には不安な動きだ。でも、こんなことを云ってしまうとこの文章を読んでいるあなたにもいらぬ疑心を求めてしまうかもしれないし、本当はこんなことを書くべきではないのかも。
 だがテリー・ハートフィールドならばおそらくこんな弱気なことは書かないに違いない。彼は自分の文章を信じていたし、それを読む誰かの視線など恐れていなかった。だからテリーに敬意を表して彼の記述を信じようと思う。

Type B

 テリー・ハートフィールドという名前にはおそらく聞き覚えがないと思うが、これでも彼は一斉を風靡した作家だった。とても多作でセールスのチャートには毎年のように名を連ねていた。最近では似た名前の別の作家が有名になったこともあって、彼の名前はほとんど聞かないし書店でも見ない。テリー・ハートフィールドは多くの作家の例に漏れず自分と同世代の読者のために本を書いていたのであって、見たこともない電子機器を操る未来人どもの相手をする気なんてさらさらなかったに違いない。
 テリー・ハートフィールドは非常に多作だった、というのは先程書いた。彼は二週間に一冊の長編小説をものした。ストーリーを考えるのに三日。キャラクターを考えるのに三日。そしてやる気を出すのに一日挟んで、あとは六日で書き上げた。残りの一日は出版社に原稿を送るための予備日である。ハートフィールドは慎重な男でもあった。
 テリー・ハートフィールドは多作だった、ということは分かってくれたと思う。これはつまり小説家にとって天下無敵であることを意味している。しかしながら、テリーにはひとつだけ弱点があった。
 彼はタイプライターを打てなかったのである。

Type C

 タイプライターには二度驚かされる。一度目はその大きさ。両の掌に収まるサイズに縮められた機械工学の叡智。その精巧な大きさに驚かされる。
 二度目は音。そのけたたましい音に驚かされる。小さな子どもほど声が大きいのとよく似ている。いくつもタイピストを並べて合唱させたならば、それはもう耳が割れんばかりだ。
 タイプを早くやるのは難しく、それなりに根気のいる作業だ。打ち損じるわけにもいかないし(直すのは打つのの何倍もめんどうだ)、キーはそれなりに重いからずっとやっていると両手が攣ってきてしまう。
 めんどうな作業なので、当然それを仕事にする者たちがいる。馴れればそこそこ楽だという説もあるが、本当だろうか。

Type D

 ハートフィールドはタイプができなかった。正確に書けばできないこともなかったが、彼のおそるべき執筆スピードにはとうてい追いつかなかった。
 そのため、彼はタイピストを雇わざるをえなかった。口述筆記というものだ。彼が物語の筋を喋り、それをタイピストがライターに乱打する。
 さてここで、先述のスケジュールを振り返ってみよう。ストーリーを考えるのに三日。キャラクターを考えるのに三日。そしてやる気を出すのに一日挟んで、あとは六日で書き上げる。残りの一日は出版社に原稿を送るための予備日。
 長編を書くのにテリーが使う日数は実質六日間。この間、彼は夜通し喋り倒し、タイピストがぶっ倒れるまでタイプをさせる。
 休めばいいじゃない。ある記者はかつてテリーにそう云ったが、テリーはこう答えたという。
「六日間。それは僕が作中人物に感情移入していられる限度なんだ」
 この答えは若干、的を外しているといえた。なぜならばテリーの問題は感情ではなく身体にその本質があったためだ。
 テリー・ハートフィールドは三十三歳にして口述筆記中に卒倒し緊急搬送された。医師の診断は睡眠不足だった。このときハートフィールドのキャリアは十年目であり、ついでに云えば掛りつけ医師のキャリアは三十年だった。
 テリーが倒れるまでに腱鞘炎を起こして辞職したタイピストは五十人だった。

Type E

 マギンティ刑事シリーズはテリー・ハートフィールドの代表作だ。マギンティ刑事(このチャーミングな名前は彼の妻が考えた)は無頼派だがユーモラスな男で、どんな困難な状況も頓智とトンカチで切り抜ける。トンカチを持っているのは彼が大工の家に生まれたからであり、これがテリー作品ならではの聖書的モチーフであることは今更説明するまでもないだろう。
 マギンティ刑事シリーズ第三シーズンの十五巻(あまりに巻数が多いので通しナンバーで呼ばれることはほとんどない)、『マギンティと不機嫌な嘱託殺人者』にはこんな一節がある。

『「おい、マギンティ」アルフレッドは云った。かれの眼は嘱託殺人に失敗した死に損ないのように冷たい、というのがマギンティの第一印象であり、実際これは当たっていた。「おれの邪魔をしたということが、どういうことかわかってるよな」
「邪魔?」マギンティは不敵に笑った。「すまねえな。母親には人の家の食卓にあがりこんじゃ失礼だとは習ったんだがな。あいにく嘱託殺人中にあがりこむなとは習わなかったでね」』

 原文では「食卓(Dining)」と「嘱託殺人中(Dying)」で押韻している箇所である。
 マギンティ刑事はどんなときもユーモアを忘れぬイカした男だったが、テリーはどこか物憂げな芸術家肌のベジタリアンだった。

Type F

 過労で倒れたテリーは強制的な療養生活に突入した。彼の妻子と編集エージェントはテリーを病室に監禁し、鉛筆や紙といったものをすべて没収した。いざとなればテリーは自分の血で小説を書き始めることもできたわけだが、それをしなかったのは彼が他の物事に気を取られていたからに過ぎない。
 それはまだ見ぬ彼にとっての相棒。彼の執筆を手伝ってくれる相棒だった。
 マギンティ刑事シリーズにはナッシュという相棒の刑事が登場する。彼は第五シーズン十八巻で立て籠もり強盗に射殺されるまで、マギンティの公私での親友として活躍した。彼が射殺されたのは、ドラマ版でナッシュを演じた俳優が薬物問題で降板をしたからである。
 テリーはその後、ローグという名前のキャラクターを新たに登場させてマギンティの相棒にあてがったが、このローグという青年は少々完璧すぎてマギンティとはあまり仲良くできないようだった。マギンティは教師と仲良くなれない身勝手な問題児タイプだったから。
 それはテリー自身も同じだった。

Type G

 療養三日目。テリーはテレビを見ることを許可された。キャリア三十年の医師としてはテリーをできる限り外界から遠ざけておきたかったが、テレビというのはいわば最大限の譲歩だった。その当夜、マギンティシリーズのドラマ第八シーズン二十五話が放映されていたのは想定外だった。
 この回の原作は『マギンティのシカゴ旅行』という本である。スポンサーにはシカゴの旅行社がいたことは云うまでもない。テリーはなんの気もなしにテレビ画面を眺めていた。

『おい! 待ちやがれ、マギンティ。てめえのバッジも北部じゃ通用しねえぜ』(目出し帽を被った男が人質に銃をつきつける)
『それはどうかな』(ここで無言で人質犯を射殺するマギンティ役の役者の顔が大写しになる)

 なお、このシーンの原作での描写は次のようであった。

『「おい! 待った方がいいんじゃねえか、マギンティ。人殺しにはなりたくねえだろ」
 男の手にある拳銃が娘のウエストに食い込んだ。マギンティは片眉を上げる。
「おれが殺しをやったことがないと思うか? おれはどんなときも上手くやってきた(原文ではI always go great guns, men.)」』

 テリーは些細な原作との違いなど意に介さなかったが、一点に興味を惹かれた。それはテレビの中の人質犯が手にしている銃であり、それはテリーが書いたような拳銃ではなくトミーガンだった。
 その出会いは銃で撃たれたように鮮烈だった。

Type H

 トミーガン、つまりトンプソンサブマシンガンはある時期まで非常に一般的な銃であったし、今でも昔の映画の中で沢山見ることができる。その迫力ある造形と機能美に魅了されたギャングも多いはずだ。
 トミーガンは連射性能に優れ、その特徴的な銃声からある愛称で呼ばれた。
 シカゴ・タイプライター。

Type I

 それはシカゴ・タイプライターにとても良く似た外見をしている。シャープな銃身も、スマートなグリップも。
 でもそれは銃ではなくタイプライターだ。
 銃の内部には弾の代わりに玉が込められていて、銃口を上下させればこの玉が内部でゆらゆらと揺れる。引き金を引くと弾倉からは薬莢ではなく紙片が飛び出す。紙片には発砲時の玉の位置によってさまざまな穴が開く。
 連射をしてみる。するとトイレットペーパーのように細長い一連の紙が銃身から溢れだす。そこには無数の穴が開けれれている。銃を傾け、撃つ方向を少しずつ微調整していく。するとまた何種類もの穴が紙にえんえんと開けられていく。穴あけの残骸である極小の丸い紙片もついでに空中に舞い散る。
 穴の種類をそれぞれアルファベットにあてがう。そうすれば一連の紙は突如、アルファベットの文字列に変わる。そこには文章が生まれる。
 サブマシンガンの連射速で繰り出される多量の文字列。それを可能にするのがこの道具だった。

Type J

「こんなものを作って何になる?」
 いいからいいから、とテリー・ハートフィールドは云った。
 退院したテリーは真っ先に知り合いのエンジニアに会いに行った。マギンティシリーズのテレビ撮影で小道具を作っている男で、ドラマに出てくる改造モデルガンを用意しているのもこの男だった。
 マシンガンのように早いタイプライター。テリーがほんとうに欲しいものはこれだった。そうこうしている間にもテリーの脳内には無限の言葉と物語が湧き出ていた。
「金なら用意できる。だから作ってくれよ」
「できないことはないが……、そんなもの作っても使いづらそうじゃないか」
 それがどうした?という顔をテリーはした。彼が求めていたのは速さであって可用性ではなかった。

Type K

 完成したその銃を、テリーは愛しげに触った。手に取り、構え、撃った。
「片手で持てるな。もう一挺あれば両手で使えるのに」
 エンジニアの仕事が増えた。
 テリーはその日から再び仕事に取り掛かった。

Type L

 作家がほんとうに書きたいことがなんだったのかを推し量るのは難しい。それはきっと作家自身にもわからないに違いないし、そもそもそんなものがあるのかわからない。岸辺から見える金字塔の蜃気楼と同じで、信じようと思えば信じられるがチンチロと同じで芽(目)が出るまでわからないのが創作のT字路というものだ。
 彼がマギンティ刑事を愛していたかというとたぶん愛していたし、その愛は母親が子にかける愛と割と近しいものであった。つまりちょっと過保護ちっくの愛だったということである。だが彼にとって自分の書いた小説は子供であってもファムファタルではなかった。
 キャリア三十一年目に差し掛かった医者はキャリア十一年目に差し掛かったテリー・ハートフィールドにこう云った。
「引きこもって本なんて書いてないで、外に出たらいいじゃないか。旅に出るのがいいだろう」
 テリーはこの発言を誤解した。医師の「ないで」という言葉は「引きこもって本なんて書く」という部分に掛かっていたが、テリーは「引きこもって」の部分のみに対応しているものと誤読した。
 良い作家が良い読者であるとは限らないことと同じくらいの蓋然性で、患者というものは医者の発言を誤解するものだ。

Type M

 テリーは大地を踏みしめた。両手には銃。撃ち出すのは言葉の弾。彼はけたたましい音を立てながらトリガーを引き続け、四方に銃口を向けながら歩いた。文字は際限なく紡がれた。
 たぶんきっと彼には迷いがあったのだと思う。彼の人生はご存知の通り物語そのものだったし、彼の頭はいくらでも言葉を生み出し続けた。彼は神速のタイプライターでそれを文字にし、右手ではドラマを、左手ではジョークを綴り続けた。でもそれで良いのかという思いはずっとあった。ほんとうにそれは自分がやりたいことなのかどうかはもうわからなかった。それは彼らしくもない弱気だった。
 彼はテキサスの実家から歩みだし、幹線道路沿いを歩み、草原を越え、やがて渓谷まで来た。その間に彼は三冊の長編小説と十五の短編をものした。
 渓谷の崖淵に立ち、彼は足を止めた。そこから先にもはや道はなく、わずかに足を滑らせれば赤茶けた石がぼろぼろと崖からはるか下の大地へと吸い込まれるのが見えた。足がすくんだ。このとき彼は自分の両の腕が震えているのを感じた。その震えは銃把に伝わり、銃の中の玉に伝わり、そして打ち出される文字へと伝わった。それは彼のそれまでの著作の中でもっとも真実らしい言葉だったかというと決してそんなこともなかったし、優れた文章表現があったかというとそんなこともなかったし、個性的でも普遍的でも高踏的でも良識的でもなかったが、でも彼にとっては小説の女神と目があった瞬間だった。

Type N

 彼はそれをテキサス・タイプライターと名付けた。

Type O

 彼は二挺のテキサス・タイプライターを手に世界を巡った。時には戦場で、本物の銃声の中で言葉を綴った。あるいは滝壺に落ちるまでに水がすべて蒸発してしまうほど高い滝の頂上からそれを連射した。遠い国で彼そっくりの小説家と面会したときもそのグリップから手を離さなかった。
 彼が書いていたのはリアル志向の社会派小説でも私小説でもエッセイでもない。ずっとずっと小説であり、どこまで行っても小説であり、形はどうあれ小説だった。ある種の真実は嘘の物語によってしか著述できない。高速の著述はフレーム単位で彼の内心の思考を切り取り続け、それによって彼は限りなく真実に近いトーンで法螺を吹き続けた。
 戦場で命がファストフード的に食い散らされる様を見ながら、彼はマギンティ刑事の物語を書き続けた。砲声を間近にしながら、マギンティはやはり以前と同じくスマートな軽口を叩いていたが、しかし決定的に以前とは違っていた。

Type P

 それはいわば完璧な法螺であった。速さを増すテリー・ハートフィールドの小説は、ひたすら濃密になっていった。登場人物の思考、挙措、筋肉の痙攣。すべてをハイスピードカメラで捉えるように著述し、その場で目撃したかのような臨場感で描いた。その言葉は映像より鮮明に動きを追い、コンピューターより正確に本質を捉え続けた。
 書き続けなければならないという執念が、テリーをここまで連れてきた。
 彼は世界をめぐり、新たな景色を目にしてはそこで得たインスピレーションをすべて創作につぎ込んだ。彼の物語は誰かに読ませるものではなく、書くこと自体が目的であった。書くという行為がすべてであった。
 テキサス・タイプライターはテリー・ハートフィールドの言葉を撃ち出し続けた。

Type Q

 ここに一葉の写真がある。テリー・ハートフィールドを語るうえで必要な写真はこれだけだろう。
 それはテリーの著作の裏表紙に必ず印刷されていた顔写真の、その原本だ。椅子に座った大男。無精髭の生えたその顔は当然ながらカメラマンを見ていない。なんでもいいから早く撮ってくれ、こっちは忙しいんだよとでも云いたげだ。
 テリー自身が写真というものについて書いていることを引用しよう。マギンティシリーズの後期の作品だ。(この頃になるともう作品数が多くて誰もが数えることを放棄していた)。

『写真は嫌いだが、写真を撮るひとのことは嫌いじゃない。』

 テリーの遺影にも使われたこの写真について妻はこう証言している。「とても良い写真じゃない?」

Type R

 正直に書くと、退院して以降のテリー・ハートフィールドの作品についてはほとんど眼を通すことができていない。あまりに全体の量が多すぎるのと、加えて例のテキサス・タイプライターの穴で著述された文字列を文字起こしするのがそれなりに面倒な作業だからだ。
 だからそれらが本当に小説の形式を取っているのかどうか確認することも正確にはできていないわけだが、それについてはテリーのことを信頼したいと思う。
 晩年の作品『マギンティ刑事のクリスマス』、それ一冊だけで、彼が真の作家であることは証明できるからだ。

Type S

『マギンティ刑事のクリスマス』は彼が六十八歳のとき、世界放浪の末にテキサスの自宅に帰り、孫たちにクリスマスプレゼントを手渡したときに書き始めたものだ。プレゼントは特大のケーキであり、それがもっとも喜ばれるものであることを年老いた賢者である彼は知悉していた。
 ハートフィールド家のクリスマスは三つのサプライズとともに祝われた。一つはテリーの帰国、一つは二番目の息子に三番目の子供が出来たこと、そして最後に一つは十二時に玄関ホールに現れた闖入者であった。
 それはサンタクロースではなかった。

Type T

 いつの日か、テリーにはテキサス・タイプライターの速度すら緩慢に感じられるようになってきていた。だが年老いた彼はそれより速い領域に手を伸ばそうとは思わず、ただ祈る時間が増えた。彼にとっての信仰は虚構への祝福であった。
 玄関ホールに現れた闖入者はトミーガンを片手に持ち、目出し帽を被っていた。銃は実物であり、彼の犯意も現実であった。
 闖入者が最初に眼にしたのは幸せなハートフィールドの家庭であり、次に眼にしたのは両手に銃を持った白髭の小説家だった。
 小説家は無言で闖入者に銃を向け、それを発砲した。文字が紡がれた。穴の開いた長紙が次々と繰り出され、丸く切り抜かれた紙片が宙を舞った。玄関ホールに雪が降り積もった。
 闖入者が発砲する。しかしテリー・ハートフィールドにとってはそれすら水の中でもがくように遅滞した動きだった。彼の身体へと実弾が向かってくる間も、テリーは物語を綴り、そして彼の虚構へと祈りを捧げていた。
 やがて弾はテリーの腹部に到着し、その衣服と皮膚を切り裂く。
 闖入者は足を踏み出すが、その足は玄関ホールに降り積もった紙雪の上を滑ってもつれ倒れる。

 テリー・ハートフィールドが彼の生涯で最後の傑作を書き終えるのと、テリーの次男が床に倒れた闖入者を取り押さえるのはほぼ同時であった。

 バチバチバチバチバチバチ
 カシャッ。
 バチバチバチバチバチバチ
 カシャッ。

Type U,


and end

 

 

 

ミッドサマー メモ / MIDSOMMAR MEMO

 映画『ミッドサマー』を観ました。

 鬼気迫る演技に見せ場のある作品なので、人間ドラマについては見れば分かる。云うことなし。でも結局、映画の中では「ホルガ」という空間のシステム自体は外側から解体されなかったわけで、しかしネットにあふれる考察を見てもあんまりそういう見地で観ているひとがいなさそうだし、思ったことを書いてみる。

 以下は特にまとまった論述でもなんでもないのでせいぜい「メモ」程度ってことで。劇中でジョシュが書いてたメモもこういうものだったかもしれない。しらんけど。

 当然ながらネタバレは含むけど、ドラマについては掘り下げない。*1

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜

①周期性

 やっぱりいちばん気になるのは周期性だ。

 ホルガの人々は18歳を一単位として、「〜18歳」「18〜36歳」「36〜54歳」「54〜72歳」という四区分に分かれている。各年齢は春夏秋冬に喩えられており、冬の季節の最後である72歳を迎えると必ず死ぬ。

 年についてもうひとつ重要になってくるのは「90年に一度の祝祭」というギミックだ。夏至祭自体は毎年やってるはずだけど、90年に一回だけ劇中で描かれた大祝祭が行われる。*2

 ここまで踏まえた上ですぐ分かるのは、「大祝祭を経験できるのは生涯で多くとも一度きり」であるということ。ホルガの人々は73年以上生きることがないため、ましてや90年に一度の大祝祭を二回経験することは不可能だ。なんなら一度も経験しないで生涯を終える可能性すら十分ありうるわけで。

 でもここで不思議なのは「どうして大祝祭が72年に一度じゃないの?」というところ。先述の通り、ホルガにおける一生72年間は四季として捉えられており、90年という数字はその四季の「外」にはみ出している。18の倍数という規則性は保持されているものの、やはりここで「90」という数字が導入されている意味がはっきりしない。別に90ってそんなにキリの良い数字でもないし……。

 

②人口管理

 この問題はひとまず脇においておいて、そもそもホルガという村でどのようなシステムがいかなる理由で稼働しているのかを考えなくてはならない。

 明白なのはホルガにおいて非常に厳格な人口管理システムが敷かれており、妊娠・出産と老人の死、そして時折行われるであろう「剪定」は宗教的儀式の中で制御されている。ホルガのような僻地の小村*3においては、人口管理が生き残りの策であることはよく分かると思う。*4

 というか「くじ」が出てきた時点で「シャーリイ・ジャクスンじゃん」ってなったよね。

 

夏至

 もうひとつ気になるのは夏至冬至だ。北欧のホルガで冬至を祝う文化があるとは思えないけど、夏至祭の衣装を冬至のときも着ることは劇中でも言及されている。とはいえやはり「祝祭」の季節は白夜の夏がふさわしい。そして夏至の祭において、生と死を共に扱うこともまた必然的だ。*5

 夏至祭の本質は生命を祝ぐことにあるホルガ村民が厳しい自然と戦い、その存続を勝ち取ってきたことは熊のモチーフをめぐる扱いを見れば分かるし、そういった背景があるからこそ、彼らは大地と自然に敬意を表しつつ生命を祝ぐ。そして祝祭における生贄は決して虐殺ではない。

 例えば、終盤のあるシーン。熊の内蔵を取り出す解体方法を大人が子供に教える場面を思い起こしていただきたい。なんとも猟奇的で狂気をはらんだ印象の場面ではあるが、冷静に捉え直してみよう。畜産はホルガにとっておそらく農業と並んで重要な営みのひとつであり、動物の内蔵を適切に取り出す方法を学ぶことは、彼らにとって生活の要請上ぜったいに必要なことだ。*6夏至祭という「ハレ」の場のある種「戯れ」じみた行為を通じ、子どもたちはその技術を学ぶ

 こうした特徴は他にも見受けられる。花を後ろ向きに摘んでいく場面はまさに「農作業」の場面そのものだし、村人たちが各自オリジナルの刺繍・デザインを施した衣服を身にまとって祭に参加する様子は背景に「裁縫・服飾」の作業があることを想像させる。*7このように夏至祭にはホルガ村民の「生活そのもの」といって良いような重要な営みのカリカチュアが存在しており、まさに夏至祭自体がホルガで生活する上での知恵が詰まった行事であることを見て取れる。

 

④要するに

 というあたりのことを考えた上で、夏至祭で何が行われているのかを整理してみる。

 理屈で考えて、おそらく老人の自害行為は例年の夏至祭で行われているはずであり、「90年に一度の大祝祭」の特徴は「A.外部から子種を用意する」「B.内部の人口を調整する」という二点に集約される。これら(A B)を、ホルガの72年周期が一巡りするたびに(正確には90年周期で)行う、つまり世代が一巡りするごとに行うということは理にかなっていると言える。

 まとめるとこうなる。

 ・恒常的な人口管理

   老人の自害、共同体に承認されていない生殖の禁止

 ・90年に一度の調整

   外部からの男子の招聘(拉致)、生贄

 でもこれを見ると「90年に一度の生贄ってほんとに効果あるの?」という気もしないではない。毎年のようにやっているのであればジャクスンの「くじ」効果が期待できるだろうけど……。こうしてまた①で述べた「90年周期の意味とは?」という問題に戻ってきてしまう。

 おそらく③で言及したような夏至祭の営みというのはたぶん90年周期とは無関係に毎年行われているはず(べき)ものだ。*8こうなってくるとますます90年に一度という意味が分からなくなってくる。先述のAがやはり最大の理由になってくるだろうけど、でもこれは夏至祭以外のタイミングでやってたとしてもおかしくない気がするし……。という感じで思考はここで詰まってしまう。

 

⑤円環構造

 作中のホルガのシステムが円環構造を成していることは言うまでもない。

 ホルガのひとびとのセリフには「cycle」という言葉が登場するし、四季の回転、円環をなす舞踊、そして老人の死が新たな生命に繋がるという死生観がやはり「cycle」である。そして先述の畜産・農業といった営みもやはり四季に支配された円環である。

 しかしながら、ホルガの生活の実態はあくまで外部からの供給に依存している。ここでいう供給は人口、遺伝子の供給であると同時に、生活物資の供給も含む。ホルガ村が文明圏から独立しているかというとだいぶ怪しい。村の生活にも随所に工業製品が登場することから分かるように、彼らも近代文明の前提の上で成立している。前近代ならまだしも、現代において彼らがその伝統を続ける必然性はもはやなく、そのシステムは形骸化しつつあるということは見逃せない。*9

 実際、④で考えた大祝祭のシステムも合理的とはいえない。どちらかというと、「かつては合理的だった仕組みが、その儀礼的外枠のみ残してタブーとして保存されてしまった状態」に見える。90年周期というシステムの非合理性もこのあたりに説明を求めることができるのではないか。つまり、90年単位という長いサイクルの中で「大祝祭」のシステムの合理的部分が劣化したその結果が現代に表れているというふうに捉えることはできないか。

 そして形骸化し、劣化したホルガシステムの行き着く先は単なるカルト宗教に他ならない

 そのあたりにアイロニーとしての、この作品の真骨頂があると思った。

 

 

*1:あとこれはホルガという思考実験の話であって、文化人類学ではない。

*2:具体的にどのあたりが普段の夏至祭と違うのかは明示されない。後述。

*3:都市部との行き来にどれだけ時間がかかるか、作中で明示されていたはずだ。

*4:映画の観覧中、「ホルガでは九年ごとにしか子供を産まないのか?」とも思ったけどさすがにこれは違いそうだ。そうだったらすべてが9の倍数で揃って綺麗だけど、作中で登場する子供の数やマヤの妊娠のタイミングとも合わないし。まぁ9年周期をまったく無視しているわけではないだろうけど。

*5:そもそも実際に行われている夏至祭を参考にすれば別にこの点は改めて言及するまでもないことかもしれない。でも極夜で冬至祭やってる光景もそれはそれで絵になりそう。

*6:あと「皮剥ぎ」の作業もまさにそうだった。

*7:あと布を二人がかりで雑巾みたいに絞ってるシーンもあったよね。

*8:メイクイーンも毎年選抜してるっぽいし。劇中の写真参照。

*9:だって劇中に出てきた規模の家畜と畑から考えて、村全体の生活を自給できてると思えない。

二次元美少女は日本語ラップの希望となるか;言霊少女とかヒプノシスマイクとか

 この記事は「おいオタク! 今、言霊少女が熱いぞ!」ということを伝えるために書いた。言霊少女っていうのは美少女キャラがラップするプロジェクトだ。ヒプノシスマイクからむこう、この手の二次元ラップミュージックが隆盛していることを聞き及んでいるオタクも多いことと思う。今回はそんな言霊少女について、日本語ラップのヘッズも、二次元ラップのヘッズも、そしてまだそんなもの知らんわというオタクにも紹介していこう。

 というわけで、ここでは言霊少女がいかにすごいかというところを、「スキル」「メロディ」「リアリティ」「ユニット」という四点に分けて説明していこうと思う。

 

 とりあえずこれを聞いてほしい。


【MV】向田らいむ/Amplify My Soul! 言霊少女プロジェクト

 ちなみにこの言霊少女という企画、実は生放送とか配信とかでメディアミックスをしているらしいのだけど、筆者は一身上の都合によりあらゆるVtuberの動画を見るのをやめてしまった*1ので音源以外の領域で何が展開されているのかはよく知らない。「コンテンツと向き合う真剣さが足りないんじゃないのか?」と云われたら反論できないんだけど、まぁそのあたりも含めて話していこう。

 

スキル

 ラップが上手い。これが大前提だ。

 言霊少女のメンバーの中で一番ラップらしいラップをするのはヴィルヌーヴ千愛梨だと思う。


【MV】ヴィルヌーヴ千愛梨/C.R.E.A.M. 言霊少女プロジェクト

これがC from M double S  Goddamn

見下してるつもりが気になってんだろ?

心臓林檎 一緒に射抜くウィリアム・テル

 ど頭からこのテクニカルな韻を出されるのだから、たまらない。そっからも「ファースト・ミッション」「フラストレーション」「ワースト生徒」「カースト制度」という固い韻を連打していく硬派さWu-tang Clanの名曲「C. R. E. A. M.」のタイトルをそのまま持ってきた楽曲だけど、その名に恥じぬハーコーなかっこよさがある。

 しかもこのヴィルヌーヴ千愛梨は後述の「Microphone soul spinners! ver.C 」にて、今度は対照的に超ダウナーなトラップの乗せ方を見せたりする。古典から最新式までいけるという幅の広さ。

 

 記事の最初に載せた向田らいむもめちゃめちゃラップが上手い。そもそも名前にライム(韻)ってついてるんだからラップが上手いに決まってんじゃん*2記事の冒頭でリンクを貼った「Amplify My Soul!」も一筋縄ではいかない。

 曲中の「くだらねえ奴 大掃除」のところは日本語ラップ界のレジェンドであるキングギドラの「大掃除」という曲に出てくるフック「この年末 今 世紀末 喰らえ天罰 大掃除」のサンプリングである。恐るべきは「くだらねえ奴」と「喰らえ天罰」で押韻しているところであり、つまり向田らいむはサンプリング越しにステルス韻を隠すという超テクニカルなライマーでもあるのだ。

 リリックの完成度、そして歌い手の多彩な歌唱力によって驚くべき完成度の楽曲が仕上がっている。これが第一のポイントだ。

 

メロディ

 向田らいむの楽曲で印象的なのはアップテンポなビートとメロディだ。

 言霊少女に参加しているキャラはとにかくラップが上手いというのはさっきも書いた。でもこれはなかなかすごいところで、なぜかといえば音源をつくるうえでは下手にラップにするよりもっとメロディアスな「歌モノ」にしてしまったほうが楽だしそれっぽくなるはずだからだ。

 ポップスの歌唱曲ならいざしらず、ラップの仕方を、それも女声ラップを指導できる人材は非常に限られているはずだ。それにキャッチーさを出すのであれば、ラップなんかするより普通に歌った方が手っ取り早い。アイドル歌唱に比べたときのラップ音源のやりづらさはこういうところにある。


【MV】BAE / 「BaNG!!!」 -Paradox Live(パラライ)-

 avexのラッププロジェクトであるパラライのこの曲なんかは、ほぼ全編がしっかりとメロディー付けされている。実際問題として「売れるラップ」の花形はこっちといえるかも知れない。さっきのヴィルヌーヴの「C. R. E. A. M.」みたいなのは少数派だ。

 ただそれだと「ラップらしさ」が抜けていってしまうところもあり、たいがいの場合は「メロディアスなフック(サビ)」&「硬派なラップ」という折衷的なところに落ち着くことになる。


ヒプノシスマイク「Gangsta's Paradise」/碧棺左馬刻Trailer

 例えばRAU DEFがプロデュースしたこの「Gangsta's Paradise」という曲はサビを中心にメロディラインが印象的だが、左馬刻様の声質を活かした図太いラップも入ってる。

 他にもFling Posseの「Stella」のように硬派なラップ、流行りのノリ、歌モノが一緒くたになって類稀な調和を生み出す名曲もある。

 というようなことを踏まえて一番頭にリンクを載せた言霊少女の「Amplify My Soul!」を聞き直してみよう。フックのメロディとラップの融合に注目してほしい。向田らいむの魅力はライムのみならずフロウの上手さにある。

言い返せない 言い訳できない

意思疎通なんて無理じゃない?

って思ってた 真っ暗いschool day(s)

病んでるstudent

  ここは比較的長い韻を語感で踏んでいるところだけど、フロウがしっかりしてるので聞き心地が良い。メロディラインを活かしたラップのお手本のような出来だと思う。アニメ寄りの声質もあって全体としてポップさの際立っているのが向田らいむの特徴だ。

 

 なお言霊少女のメンバーとしては、他にも和ロック調のトラックにポエトリーリーディング風の乗せ方をする与謝野詩歌とか、ポップ調歌モノに強そうな川端ひまわりとかのシングルも2月末に出る。

 あと付け足しておきたいのはトラックの良さアイマスを始めアニメ・ゲーム・ミュージックに携わってきたメンバーが関わっているだけあってクオリティが高い。ラップの上手さの指標として「アカペラで聴けるか」というところがあるけれど、言霊少女の場合では「アカペラでも聴けるラップ」と「インストでも聴けるトラック」が融合している。とにかく贅沢な音源だ。

 

リアリティ

 ここまであえて避けてきた話題がある。HIPHOPとラップの違いだ。

 諸説あるだろうけど、筆者の理解としてはHIPHOPが哲学であり、ラップは手段である。だからラップミュージックがすべてHIPHOPというわけではないし、音楽以外にもHIPHOPの表現手段は存在する。

 で、問題は二次元ラップにHIPHOPは存在するのか、というところだ。HIPHOPというのは表現者の生き様と不可分のものであり、特に「リアリティ」が重視される。嘘をついているやつはHIPHOPではないし、HIPHOPは実証性を重んじるところがあるからフィクションではなく「ナマモノ」であることに意味がある。じゃあまったく虚構のキャラクターにラップさせてもHIPHOPって成立しないんじゃない?

 ヒプノシスマイクはこの問題を上手く解決している。作中には暗い過去を背負ったキャラクターが多く、貧困や犯罪、家庭環境などに対する不満が滲み出るようなリリックが頻繁に登場する。作詞や作曲にアングラで活動するラッパーやDJを招聘しているところもHIPHOPらしさの担保に繋がっているといえる。


ヒプノシスマイク「麻天狼-音韻臨床-」 / シンジュク・ディビジョン麻天狼 Trailer

 シンジュク・ディヴィジョンの楽曲は中でもそうした「暗さ」が顕著だ。

 

 これに対して言霊少女はどうか。しょうじきよくわからない。公式サイトのストーリーとかを見る限りヒプと比べてもかなり虚構性が高いようだし、「不満」の対象となっているのも社会問題ではなく学園内のカースト制度にとどまるようだ。そういうところを見ると「ちょっと行儀が良すぎない?」と思わないでもない。日常生活で目についたあらゆるものをラップするのがHIPHOPなんじゃないか?と思ってしまうところがあるし、あんまり話題を絞りすぎるとすぐに歌うことがなくなりそうだからだ。

 と、いいつつも実は公式もそんなことを見越した上でメディア展開しているのではないか?と思う部分もある。それが先述のヴァーチャル配信系の活動だ。言霊少女に登場するキャラクターが自ら生配信する、あたかもラッパーのインスタライブのように。筆者はヴァーチャルライブもインスタライブもしょうじき苦手なのだけど、それによって虚構の存在であった二次元のラッパーが現実に浸食するような現象が起こったらそれはそれで面白い気もする。こういう試みは誰もやってみたことがないから、どうなるか分からない。もしかしたらとんでもない化け方をするかもしれない。

 

ユニット

 ラップ音源を語るうえで欠かせないのはマイクリレーだ。ヒプもパラライもだいたい三人くらいのユニットでマイクリレー楽曲をたくさん出しているし、オールスターでやる長めの曲も楽しい。

 しかし言霊少女の場合、現在のところマイクリレーは出ていないし、ユニットというよりも四人のメンバーのソロ活動が主体だ。これもこのプロジェクトの特徴なのだけど、実は3月にユニットCDも出るらしい。その頭の曲が「Microphone soul spinners」である。*3

 この曲の面白いところは、各ソロアルバムに各キャラの担当パートだけが切り取られて収録されているところであり、2月現在では各キャラがリリック+フックまでソロで歌うソロバージョンだけを聴くことができる。トラックも各キャラに併せてちょっとずつアレンジがされていたりして面白い。

 この曲を聴いて思い出すのはzeebraの楽曲「GOLDEN MIC」のリミックスだ。


ZEEBRA / GOLDEN MIC (REMIX) feat. KASHI DA HANDSOME, AI, 童子-T, 般若

 KASHI DA HANDSOME、AI、童子-T、般若が参加し、トリの般若によるパンチライン「ガタガタ抜かすな道開けろザコ 言わずと知れた東京のカオ」で有名な曲。ヒプの山田一郎の曲でもサンプリングされていたりする箇所だけど、「GOLDEN MIC」は各人それぞれがシャウトするフックが最高。「Microphone soul spinners」が新たなる「GOLDEN MIC」たりうるのかは知らないけど、とにかく3月の新譜には期待が高まるばかりだな?

 

 という感じで言霊少女は企画としてまだ動き出したばかりなのだけど、ポテンシャルとして非常に高いものを持っている。今後どういう方向に進むのかはさっぱりわからないけれどとりあえず2月末、3月末に出る新譜を楽しみに待ちたい。

 

 

 

*1:だいたいA社のせいだよ。

*2:韻マンじゃん。

*3:ユニット名も曲名と同じあたりNITRO MICROPHONE UNDERGROUD感が強い。

『ドールズフロントライン』×『VA-11 Hall-A』コラボイベントの思い出

「私は今、〝まやかし〟のものに泣かされてるんだって。物語も登場人物も全部つくりもの。

「でも、つくりものだろうが何だろうが、どうでもよかった。じゃあ〝現実〟も同じように考えたらいいんじゃない?ってその時思ったの。

「私が誰かの想像の産物に過ぎないとしても、それでもあなたのことを大切に思ってる。

「…少なくとも自分にそう言い聞かせた。そうやって徐々に立ち直っていった。」

                   ──ドロシー・ヘイズ from『VA-11 Hall-A』

 

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 スマホゲーム『ドールズフロントライン』で行われている『VA-11 Hall-A』コラボイベントがひそかに話題になっている。……とはいってもこのイベントは10月8日で終わりなんだけど。というわけでこの記事はドルフロの宣伝をするというよりは、むしろそこで「何が起こっていたのか」について語るものになると思う。

 スマホゲームとはコラボしてなんぼのものである*1

 しかしまた世のスマホゲームで無数に行われている他作品コラボレーションのうち、それなりに力を入れ、成功しているものがどれだけあるかというと……これは分からない。当然、キャラクターだけ借りてきて適当にやっているものも多いし、お話も番外編的な与太話になってしまうこともある。そもそも多くのスマホゲームは独自の世界観を持っているから、他作と安易にコラボしてしまってはもうお話の一貫性などあったものではない。

 そんな中で、コラボイベントの課題に正面から立ち向かい、スマホゲーム自体の面白さとコラボ相手の魅力をそれぞれ存分に活かしきったのがドルフロのVA-11 Hall-Aコラボだ

 このコラボイベントは魅力的な世界観を持つ二つのSF作品を巧妙に接続させた上で両者の内容を上手く止揚させた類稀なる作品だ。アンドロイドと人間、世界の終わりと精神の問題がメタフィクションの構造を自在に操る異様の語り口で描き出している。

 以下ではコラボイベントのシナリオの話に結末まで触れている。でもVA-11 Hall-Aのネタバレとかにはなっていないし、今後ドルフロをプレイする上でも特にノイズになるようなことは書いてないと思う。多分。

 

 

VA-11 Hall-A ヴァルハラ - PS4

VA-11 Hall-A ヴァルハラ - PS4

 

 

1. そもそもドルフロとVA-11 Hall-Aという二つのゲームについて

 この二つのゲームには分かりやすい共通点があって、それは海外で作られたコンテンツであるということ、そして日本のサブカルから強い影響を受けているということだ。

 ドールズフロントラインは少女前線という名前でサービスが始まった中華ゲーで、古今の銃器をモチーフとした戦闘用のアンドロイドの少女たち(戦術人形グリフィン人形などと呼ばれる)が、暴走して人類の敵となった人形たち(鉄血工造)と戦う物語だ。だいたい2061年以降を舞台にしている。

 ゲームシステム自体はこの手の擬人化ゲームの中で特に珍しいものではないけれど、基本的に戦術シミュレーション(戦闘)とストーリーの二本立てで進み、合間合間に人形の育成を行っていく。

 一方のVA-11 Hall-Aはベネズエラ発のADVゲームで、2070年代の退廃的なサイバーパンク都市グリッチシティバーテンダーとして暮らす物語。主人公(ジルという女性バーテンダー)はバー「VA-11 Hall-A(ヴァルハラ)」にやってくる客たちに注文通りのカクテルを提供しつつ生活していく。

 このゲームの最大の特徴は、カクテルを上手く作れるかどうかでストーリーが分岐していくところ。

 そしてそのストーリーを通じてグリッチシティという特殊な空間で「何が起こっているのか」を垣間見ていく。作者はあまり親切ではないので、プレイヤーは登場人物たちの断片的な会話や、日々のニュース、ちょっとした事件などからこの世界で何が起こっているのかを想像していく。

 

 この辺りは語りだすときりないので最低限のところだけなぞることにして、コラボの話をしたい。

 

2.『VA-11 Hall-A』コラボの概観

 このコラボは本当に楽しかった。何が楽しかったって、ドルフロの良さとVA-11 Hall-Aの良さがてんこ盛りだったところ。

 コラボイベントはざっくり説明すると以下のような構成になっている。

①イベントシナリオ(合間にいつものドルフロの戦闘が入る)→ バーテンダーパート(元々のVA-11 Hall-Aとまったく同じシステムでカクテルを作る、ジル視点)③新たにイベントシナリオが開放される→(繰り返す)

 ……要するにドルフロ流の戦闘とVA-11 Hall-A流のカクテル作りが交互にできるようになっているというわけで。しかもBGMやSEまでしっかりとVA-11 Hall-Aのものが使われているし、シナリオや会話もVA-11 Hall-Aのテイストとドルフロのテイストがミックスされているという気合のいれよう。

 じゃあそのイベントシナリオっていうのはどういうものだったのか。これが少し複雑だ。妙なことに①のシナリオパートと②のバーテンダーパートでは話の内容が大きく変わってくる

 

 ①の世界観はドルフロのものでもVA-11 Hall-Aのものでもない。そこでは地球の自転が止まり砂の雨が降り、やがて滅びゆく未来世界(?)が描かれ、そんな世界でなんとか生きているアンドロイドたちの街グリフィンシティグリッチシティではない)が舞台となる。このグリフィンシティでは戦術人形やリリムたちが街の中心となり、数少ない生き残りの人間たちは先住民として肩身狭く暮らしている。

 お話はそうした先住民の人間であるデイナ(VA-11 Hall-Aに出てくる主人公の上司)が、砂漠で休眠についていた戦術人形のSuper-Shorty(もちろんドルフロのキャラ)と出会い、Super-Shortyを助けるところから始まる。Super-Shortyはいったいなぜそんなところにいたのか。その理由は三年前に行われたある作戦にあった……。

 という話が進みつつ、グリフィンシティで内乱が起こったり、世界を支配していたテラコンピューターという謎めいた機械の存在が明らかになったりしつつ、VA-11 Hall-Aのキャラとドルフロのキャラが入り混じって世界の危機に挑んでいく。

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せかいのきき

 

 これに対して②のお話は大きく毛色が異なっている。②のバーテンダーパートで語られるのは「民間軍事会社グリフィンがVA-11 Hall-Aの舞台・グリッチシティにやって来る」という話。VA-11 Hall-Aの主人公ジルが普段通りにバーで働いていると、グリフィンに所属する人形たちがバーを訪ねてやって来る。彼女たちにカクテルを用意し、雑談を通してこの世界の歪みや美しさに気付いていく。まさしくVA-11 Hall-Aらしい語り口だ。

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カクテルをつくる

 

 さて。同時並行して語られる①と②の二つの物語。それらははたしてどのように繋がっていくのだろうか。そしてまたドルフロとVA-11 Hall-Aの世界はどのように邂逅していくのだろうか。

 それを見ていく前にまず、こうしたコラボ作品ではえてしてどのような手法が取られるものなのかを考えていきたい。

 

3. 世界観をつなげる

 世の中にはいろいろなコラボ作品がある。そもそも現実世界と地続きの作品同士なら特に難はないが、作品の虚構性が高まっていけば行くほど二つの作品をすり合わせることは難しくなる

 ドルフロとVA-11 Hall-Aは世界観の上で極端に違ってはいない。どちらもアンドロイドが登場する(ドルフロならグリフィン人形、VA-11 Hall-Aならリリム)し、舞台は21世紀後半だ。しかし一方で、ドルフロは第三次世界大戦の勃発をはじめとする戦乱の世界を描いた話だし、VA-11 Hall-Aは閉鎖的で混沌とした様相を呈する街グリッチシティの内部だけで話が展開される。

 さて、この場合どうしたら良いのか。策は二つある。

 どちらか一方のキャラクターをもう一方の作品世界に連れてくるか

 あるいは、メタの仕掛けを使うか

 

 例えば『WORST』と『HiGH&LOW』のコラボである映画『HiGH&LOW THE WORST』では、WORSTのキャラクターたちがHiGH&LOWの登場人物たちが住むSWORD地区に乗り込んでくるところから物語が始まる。

他作品の連中がこちら側にやって来たらどうなるか?

 なるほどまさに正面からの解決法と云える。

 しかしこれだけでは難しい部分もある。そもそもなんで他作品のキャラクターがこちら側にやってくるわけ? それにこの方法ではキャラクターを移送してくることができても世界観を移送してくることはできない*2

 それでは困るのでもう一つの戦略を用いる。

 

 メタの仕掛けを上手く利用した例は映画『フレディVSジェイソン』だ。『エルム街の悪夢』と『13日の金曜日』をコラボさせたこの映画では、フレディの拠点であるエルム街とジェイソンの拠点であるクリスタルレイクを接続する必要があった。そのため、この映画は「夢に現れる」能力を持っているフレディがジェイソンの夢*3に現れ、彼がエルム街に来るように誘導するところから始まる。そしてこの「夢」を通じて二人の物語は接続し、やがて直接対決までもつれ込んでいく。

 実際、夢とかパラレルワールドとかifとかっていうのが、非日常の世界観を接続するのにいかに便利かというのは毎年ドラえもんの映画を見に行っている皆さんなら簡単に分かると思う。けれどもこの手の手法は便利なだけに、安易になりがちというか。上手く使わないとどうしても「どうせifなんでしょ」という冷めた感触が出てきてしまいがちだ。*4先述の『フレディVSジェイソン』はこの辺りの処理も上手く、夢を多用しすぎず最後にはフレディを夢から引きずり出してしまうし、ホラー映画の文脈だからこそ成立するものがなんなのかをよくわきまえているように思うけど、この点の匙加減は本当に難しい。

 

4. グリッチシティとグリフィンシティが繋がる瞬間

 コラボイベントの話に戻そう。前項で見た二つの手法のうち、「どちらか一方のキャラクターをもう一方の作品世界に連れてくる」というのは②のバーテンダーパートで行われている。では①はどうなのか?といえば、これはもちろん「メタの仕掛け」を使っているに他ならない。

 シナリオが進むに連れていくつかの事実が明らかになっていく。

 ひとつは①において、テラコンピューターという存在がどういうわけか世界を滅ぼそうとしていること。Super-Shortyを始め作中人物たちはそれを必死に阻止しようとするが、VA-11 Hall-Aの登場人物のひとり、アナによって世界の崩壊はどんどんと進行していく。

 一方②においては、バーを訪ねたHK416(アサルトライフルの戦術人形)が姉妹仲をこじらせた末にカクテルを一気飲みして昏睡状態に陥る*5

 そして①の世界が②の世界においてHK416が見ている夢に過ぎなかったことが明らかになる

 この場合の夢というのは、つまりアンドロイドである416のコンピューターの中で起こっている演算でありシミュレーションだ。いったいなぜこんなことが起こってしまったのかといえば、ジルの体内のナノマシン(VA-11 Hall-Aにおいて人間の市民に植え付けれられているテクノロジーであり、ジルはこれのせいで色々不便な思いをしたりする)が416に偶然伝播してしまったために様々な支障が生じたためなのだが、それはさておき。とにかく①の物語は「アンドロイドの夢」であり、その中で起こる世界の破壊はジルの内面的葛藤が反映されたものであったことが明らかになっていく。

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416が呑みすぎたばかりに……

 ただの夢とは云えど、①の世界はあまりに肥大しすぎてしまった。その内部では人格のある個人が何人もいる*6し、夢の中で暴走を続けるナノマシンを止めなくてはならない。

 ここで巧いのは、①の世界においてVA-11 Hall-Aのキャラとドルフロのキャラが入り交じる展開に、「この夢がジルと416の記憶によって成立しているから」というちゃんとした理由がつくところで、これを踏まえたうえで①の物語はVA-11 Hall-Aキャラとドルフロキャラの「夢の」共闘展開へと発展していく

 物語はVA-11 Hall-A本編でも重要となるジル本人の内面の問題へと繋がり、彼女自身が自分の気持ち──特に人間関係に関する過ちなど──と折り合いをつけることが肝となってくる*7そして彼女が夢の中で起こった出来事を「ひとつの可能性」として受け止め、あり得たかもしれないすべての事象と対峙したことで夢は解かれ、416は目覚める

 

5. 本物と偽物

 人間からあらゆる部品を引き算していったとき──最後には髪の毛一本とかだけが残る──それはどの段階で人間ではなくなるのだろうか。水槽に浮かんだ脳は人間といえるか? あるいは思考することが人間の本質と本当に云えるか?

 じゃあ逆にいろんな部品を足し算していったとき、それはどこかのタイミングで人間になれるのだろうか。工業部品だけから人間を作ることはできるのだろうか。それとも神の御手のごときものでなんらかの恩寵を与えなくてはそれはいつまで経っても人間ではないのだろうか。

 もしここに人間と区別のしようのないアンドロイドがいるとして、それを人間とみなしてはどうしていけないのだろうか。

 そもそも自分が誰かの見ている夢の中の登場人物かどうかも証明できないのに、そんな区別に意味なんてあるのだろうか

 VA-11 Hall-Aはこうした疑問を度々突きつけてくる作品だ。グリッチシティには人間と区別のつかないリリムが沢山いるし、水槽に浮かんだ脳も暮らしてるし、言葉を話す犬だっているし、猫耳の生えた少女だっている。彼らはそれなりに差別の眼や偏見の視線を感じつつも生きているけれど、結局そんな区別は思考する側の問題でしかないのだと少し淡白な口調で語られていく

 これはこの作品独特のセクシャリティの描き方にしてもそうで*8VA-11 Hall-Aはバーという空間で他者と強制的に向き合いながら、それを肯定することも否定することもせず、少しカジュアルに受け容れて、でも然るべきときには正面から対話する。そういう物語なのだ。

 

 それを踏まえて改めてコラボイベントのシナリオを見てみたい。物語の半分は夢オチで終わる。でもその夢は、「現実と見紛う虚構=現実とみなしても良い虚構」としてグリッチシティにおけるジルの物語へ還流し、コラボイベントという壮大な法螺が、しかし法螺であるということ自体を強みとしてひとつの可能性を大胆にプレイヤーに提示してくる。

 

6. ヴァルハラの夜明け

 メタフィクションとは諸刃の剣だ。読者と作者の距離を縮め、より直接的にメッセージを伝えることができるという強みを持ちつつも、それをやり過ぎれば物語は茶番になってしまう。

 このイベントにしてもそうだ。夢が醒めることで①の世界は完全に崩壊する。そこにいた登場人物たちも物語も消滅してしまう。しかし、①のシナリオで語られたSuper-ShortyとIDWの熱い友情の物語が、あるいはジェリコとステラの間で揺れるセイの葛藤が、単なる泡沫の夢として片付けられてしまうのはどうしても悲しい。

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Super-ShortyとIDWのエピソードほんと良かったね……(昇天)

 だが、このイベントではその不満感が最後の最後に見事な形で解消される。

 416の見た夢。それはアンドロイドの思い描いた演算であるがゆえに、データとして民間軍事会社グリフィンに記録されていた。そしてそのデータを元に、Super-ShortyやIDWといった夢の中のグリフィン人形たちの、はたまたデイナやセイといった夢の中に出てきたVA-11 Hall-Aキャラたちの人格が再現される。そして彼らは「グリフィン人形」という形で新たにアンドロイドの肉体を与えられ、②の世界への転生を果たすのだ。

 ここに来て①の物語は完全に②への合流を果たしひとつの可能性だった物語は現実に繋がる*9そしてまた、夢の中だけの共演を果たしていたVA-11 Hall-Aとドルフロの面々は、ここでついに本当の意味でのコラボレーションを果たす。VA-11 Hall-Aのキャラクターたちはこの数奇な転生を経て、ひとつの可能性として、しかし同時に現実の事象としてグリフィンの一員に迎えられたのだ。

 

 そんなのただの辻褄合わせじゃないかって?

 けっきょく上っ面だけコピーした人形じゃあないかって?

 

 でも本物と見分けられない嘘なら、本当だと思ったっていいじゃないか。

 

*1:ヴァーチャルユーチューバーもコラボしてなんぼのものである。

*2:『HiGH&LOW THE WORST』ならワーストとハイローの双方がヤンキー漫画の文法で成立しているので世界観云々は気にする必要がないけどね。

*3:ジェイソンも夢を見るのだろうか?

*4:これは型月とマーベルの悪口です。

*5:人形でも酔うし、内部機関がおかしくなることだってある。

*6:416とジルの個人的な友人に限るけど

*7:セカイ系じゃん。

*8:事情が複雑なので言及はしないけど

*9:少なくともドルフロの世界における現実として