偽史邪神殿

なんでも書きます

『ドールズフロントライン』×『VA-11 Hall-A』コラボイベントの思い出

「私は今、〝まやかし〟のものに泣かされてるんだって。物語も登場人物も全部つくりもの。

「でも、つくりものだろうが何だろうが、どうでもよかった。じゃあ〝現実〟も同じように考えたらいいんじゃない?ってその時思ったの。

「私が誰かの想像の産物に過ぎないとしても、それでもあなたのことを大切に思ってる。

「…少なくとも自分にそう言い聞かせた。そうやって徐々に立ち直っていった。」

                   ──ドロシー・ヘイズ from『VA-11 Hall-A』

 

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 スマホゲーム『ドールズフロントライン』で行われている『VA-11 Hall-A』コラボイベントがひそかに話題になっている。……とはいってもこのイベントは10月8日で終わりなんだけど。というわけでこの記事はドルフロの宣伝をするというよりは、むしろそこで「何が起こっていたのか」について語るものになると思う。

 スマホゲームとはコラボしてなんぼのものである*1

 しかしまた世のスマホゲームで無数に行われている他作品コラボレーションのうち、それなりに力を入れ、成功しているものがどれだけあるかというと……これは分からない。当然、キャラクターだけ借りてきて適当にやっているものも多いし、お話も番外編的な与太話になってしまうこともある。そもそも多くのスマホゲームは独自の世界観を持っているから、他作と安易にコラボしてしまってはもうお話の一貫性などあったものではない。

 そんな中で、コラボイベントの課題に正面から立ち向かい、スマホゲーム自体の面白さとコラボ相手の魅力をそれぞれ存分に活かしきったのがドルフロのVA-11 Hall-Aコラボだ

 このコラボイベントは魅力的な世界観を持つ二つのSF作品を巧妙に接続させた上で両者の内容を上手く止揚させた類稀なる作品だ。アンドロイドと人間、世界の終わりと精神の問題がメタフィクションの構造を自在に操る異様の語り口で描き出している。

 以下ではコラボイベントのシナリオの話に結末まで触れている。でもVA-11 Hall-Aのネタバレとかにはなっていないし、今後ドルフロをプレイする上でも特にノイズになるようなことは書いてないと思う。多分。

 

 

VA-11 Hall-A ヴァルハラ - PS4

VA-11 Hall-A ヴァルハラ - PS4

 

 

1. そもそもドルフロとVA-11 Hall-Aという二つのゲームについて

 この二つのゲームには分かりやすい共通点があって、それは海外で作られたコンテンツであるということ、そして日本のサブカルから強い影響を受けているということだ。

 ドールズフロントラインは少女前線という名前でサービスが始まった中華ゲーで、古今の銃器をモチーフとした戦闘用のアンドロイドの少女たち(戦術人形グリフィン人形などと呼ばれる)が、暴走して人類の敵となった人形たち(鉄血工造)と戦う物語だ。だいたい2061年以降を舞台にしている。

 ゲームシステム自体はこの手の擬人化ゲームの中で特に珍しいものではないけれど、基本的に戦術シミュレーション(戦闘)とストーリーの二本立てで進み、合間合間に人形の育成を行っていく。

 一方のVA-11 Hall-Aはベネズエラ発のADVゲームで、2070年代の退廃的なサイバーパンク都市グリッチシティバーテンダーとして暮らす物語。主人公(ジルという女性バーテンダー)はバー「VA-11 Hall-A(ヴァルハラ)」にやってくる客たちに注文通りのカクテルを提供しつつ生活していく。

 このゲームの最大の特徴は、カクテルを上手く作れるかどうかでストーリーが分岐していくところ。

 そしてそのストーリーを通じてグリッチシティという特殊な空間で「何が起こっているのか」を垣間見ていく。作者はあまり親切ではないので、プレイヤーは登場人物たちの断片的な会話や、日々のニュース、ちょっとした事件などからこの世界で何が起こっているのかを想像していく。

 

 この辺りは語りだすときりないので最低限のところだけなぞることにして、コラボの話をしたい。

 

2.『VA-11 Hall-A』コラボの概観

 このコラボは本当に楽しかった。何が楽しかったって、ドルフロの良さとVA-11 Hall-Aの良さがてんこ盛りだったところ。

 コラボイベントはざっくり説明すると以下のような構成になっている。

①イベントシナリオ(合間にいつものドルフロの戦闘が入る)→ バーテンダーパート(元々のVA-11 Hall-Aとまったく同じシステムでカクテルを作る、ジル視点)③新たにイベントシナリオが開放される→(繰り返す)

 ……要するにドルフロ流の戦闘とVA-11 Hall-A流のカクテル作りが交互にできるようになっているというわけで。しかもBGMやSEまでしっかりとVA-11 Hall-Aのものが使われているし、シナリオや会話もVA-11 Hall-Aのテイストとドルフロのテイストがミックスされているという気合のいれよう。

 じゃあそのイベントシナリオっていうのはどういうものだったのか。これが少し複雑だ。妙なことに①のシナリオパートと②のバーテンダーパートでは話の内容が大きく変わってくる

 

 ①の世界観はドルフロのものでもVA-11 Hall-Aのものでもない。そこでは地球の自転が止まり砂の雨が降り、やがて滅びゆく未来世界(?)が描かれ、そんな世界でなんとか生きているアンドロイドたちの街グリフィンシティグリッチシティではない)が舞台となる。このグリフィンシティでは戦術人形やリリムたちが街の中心となり、数少ない生き残りの人間たちは先住民として肩身狭く暮らしている。

 お話はそうした先住民の人間であるデイナ(VA-11 Hall-Aに出てくる主人公の上司)が、砂漠で休眠についていた戦術人形のSuper-Shorty(もちろんドルフロのキャラ)と出会い、Super-Shortyを助けるところから始まる。Super-Shortyはいったいなぜそんなところにいたのか。その理由は三年前に行われたある作戦にあった……。

 という話が進みつつ、グリフィンシティで内乱が起こったり、世界を支配していたテラコンピューターという謎めいた機械の存在が明らかになったりしつつ、VA-11 Hall-Aのキャラとドルフロのキャラが入り混じって世界の危機に挑んでいく。

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せかいのきき

 

 これに対して②のお話は大きく毛色が異なっている。②のバーテンダーパートで語られるのは「民間軍事会社グリフィンがVA-11 Hall-Aの舞台・グリッチシティにやって来る」という話。VA-11 Hall-Aの主人公ジルが普段通りにバーで働いていると、グリフィンに所属する人形たちがバーを訪ねてやって来る。彼女たちにカクテルを用意し、雑談を通してこの世界の歪みや美しさに気付いていく。まさしくVA-11 Hall-Aらしい語り口だ。

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カクテルをつくる

 

 さて。同時並行して語られる①と②の二つの物語。それらははたしてどのように繋がっていくのだろうか。そしてまたドルフロとVA-11 Hall-Aの世界はどのように邂逅していくのだろうか。

 それを見ていく前にまず、こうしたコラボ作品ではえてしてどのような手法が取られるものなのかを考えていきたい。

 

3. 世界観をつなげる

 世の中にはいろいろなコラボ作品がある。そもそも現実世界と地続きの作品同士なら特に難はないが、作品の虚構性が高まっていけば行くほど二つの作品をすり合わせることは難しくなる

 ドルフロとVA-11 Hall-Aは世界観の上で極端に違ってはいない。どちらもアンドロイドが登場する(ドルフロならグリフィン人形、VA-11 Hall-Aならリリム)し、舞台は21世紀後半だ。しかし一方で、ドルフロは第三次世界大戦の勃発をはじめとする戦乱の世界を描いた話だし、VA-11 Hall-Aは閉鎖的で混沌とした様相を呈する街グリッチシティの内部だけで話が展開される。

 さて、この場合どうしたら良いのか。策は二つある。

 どちらか一方のキャラクターをもう一方の作品世界に連れてくるか

 あるいは、メタの仕掛けを使うか

 

 例えば『WORST』と『HiGH&LOW』のコラボである映画『HiGH&LOW THE WORST』では、WORSTのキャラクターたちがHiGH&LOWの登場人物たちが住むSWORD地区に乗り込んでくるところから物語が始まる。

他作品の連中がこちら側にやって来たらどうなるか?

 なるほどまさに正面からの解決法と云える。

 しかしこれだけでは難しい部分もある。そもそもなんで他作品のキャラクターがこちら側にやってくるわけ? それにこの方法ではキャラクターを移送してくることができても世界観を移送してくることはできない*2

 それでは困るのでもう一つの戦略を用いる。

 

 メタの仕掛けを上手く利用した例は映画『フレディVSジェイソン』だ。『エルム街の悪夢』と『13日の金曜日』をコラボさせたこの映画では、フレディの拠点であるエルム街とジェイソンの拠点であるクリスタルレイクを接続する必要があった。そのため、この映画は「夢に現れる」能力を持っているフレディがジェイソンの夢*3に現れ、彼がエルム街に来るように誘導するところから始まる。そしてこの「夢」を通じて二人の物語は接続し、やがて直接対決までもつれ込んでいく。

 実際、夢とかパラレルワールドとかifとかっていうのが、非日常の世界観を接続するのにいかに便利かというのは毎年ドラえもんの映画を見に行っている皆さんなら簡単に分かると思う。けれどもこの手の手法は便利なだけに、安易になりがちというか。上手く使わないとどうしても「どうせifなんでしょ」という冷めた感触が出てきてしまいがちだ。*4先述の『フレディVSジェイソン』はこの辺りの処理も上手く、夢を多用しすぎず最後にはフレディを夢から引きずり出してしまうし、ホラー映画の文脈だからこそ成立するものがなんなのかをよくわきまえているように思うけど、この点の匙加減は本当に難しい。

 

4. グリッチシティとグリフィンシティが繋がる瞬間

 コラボイベントの話に戻そう。前項で見た二つの手法のうち、「どちらか一方のキャラクターをもう一方の作品世界に連れてくる」というのは②のバーテンダーパートで行われている。では①はどうなのか?といえば、これはもちろん「メタの仕掛け」を使っているに他ならない。

 シナリオが進むに連れていくつかの事実が明らかになっていく。

 ひとつは①において、テラコンピューターという存在がどういうわけか世界を滅ぼそうとしていること。Super-Shortyを始め作中人物たちはそれを必死に阻止しようとするが、VA-11 Hall-Aの登場人物のひとり、アナによって世界の崩壊はどんどんと進行していく。

 一方②においては、バーを訪ねたHK416(アサルトライフルの戦術人形)が姉妹仲をこじらせた末にカクテルを一気飲みして昏睡状態に陥る*5

 そして①の世界が②の世界においてHK416が見ている夢に過ぎなかったことが明らかになる

 この場合の夢というのは、つまりアンドロイドである416のコンピューターの中で起こっている演算でありシミュレーションだ。いったいなぜこんなことが起こってしまったのかといえば、ジルの体内のナノマシン(VA-11 Hall-Aにおいて人間の市民に植え付けれられているテクノロジーであり、ジルはこれのせいで色々不便な思いをしたりする)が416に偶然伝播してしまったために様々な支障が生じたためなのだが、それはさておき。とにかく①の物語は「アンドロイドの夢」であり、その中で起こる世界の破壊はジルの内面的葛藤が反映されたものであったことが明らかになっていく。

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416が呑みすぎたばかりに……

 ただの夢とは云えど、①の世界はあまりに肥大しすぎてしまった。その内部では人格のある個人が何人もいる*6し、夢の中で暴走を続けるナノマシンを止めなくてはならない。

 ここで巧いのは、①の世界においてVA-11 Hall-Aのキャラとドルフロのキャラが入り交じる展開に、「この夢がジルと416の記憶によって成立しているから」というちゃんとした理由がつくところで、これを踏まえたうえで①の物語はVA-11 Hall-Aキャラとドルフロキャラの「夢の」共闘展開へと発展していく

 物語はVA-11 Hall-A本編でも重要となるジル本人の内面の問題へと繋がり、彼女自身が自分の気持ち──特に人間関係に関する過ちなど──と折り合いをつけることが肝となってくる*7そして彼女が夢の中で起こった出来事を「ひとつの可能性」として受け止め、あり得たかもしれないすべての事象と対峙したことで夢は解かれ、416は目覚める

 

5. 本物と偽物

 人間からあらゆる部品を引き算していったとき──最後には髪の毛一本とかだけが残る──それはどの段階で人間ではなくなるのだろうか。水槽に浮かんだ脳は人間といえるか? あるいは思考することが人間の本質と本当に云えるか?

 じゃあ逆にいろんな部品を足し算していったとき、それはどこかのタイミングで人間になれるのだろうか。工業部品だけから人間を作ることはできるのだろうか。それとも神の御手のごときものでなんらかの恩寵を与えなくてはそれはいつまで経っても人間ではないのだろうか。

 もしここに人間と区別のしようのないアンドロイドがいるとして、それを人間とみなしてはどうしていけないのだろうか。

 そもそも自分が誰かの見ている夢の中の登場人物かどうかも証明できないのに、そんな区別に意味なんてあるのだろうか

 VA-11 Hall-Aはこうした疑問を度々突きつけてくる作品だ。グリッチシティには人間と区別のつかないリリムが沢山いるし、水槽に浮かんだ脳も暮らしてるし、言葉を話す犬だっているし、猫耳の生えた少女だっている。彼らはそれなりに差別の眼や偏見の視線を感じつつも生きているけれど、結局そんな区別は思考する側の問題でしかないのだと少し淡白な口調で語られていく

 これはこの作品独特のセクシャリティの描き方にしてもそうで*8VA-11 Hall-Aはバーという空間で他者と強制的に向き合いながら、それを肯定することも否定することもせず、少しカジュアルに受け容れて、でも然るべきときには正面から対話する。そういう物語なのだ。

 

 それを踏まえて改めてコラボイベントのシナリオを見てみたい。物語の半分は夢オチで終わる。でもその夢は、「現実と見紛う虚構=現実とみなしても良い虚構」としてグリッチシティにおけるジルの物語へ還流し、コラボイベントという壮大な法螺が、しかし法螺であるということ自体を強みとしてひとつの可能性を大胆にプレイヤーに提示してくる。

 

6. ヴァルハラの夜明け

 メタフィクションとは諸刃の剣だ。読者と作者の距離を縮め、より直接的にメッセージを伝えることができるという強みを持ちつつも、それをやり過ぎれば物語は茶番になってしまう。

 このイベントにしてもそうだ。夢が醒めることで①の世界は完全に崩壊する。そこにいた登場人物たちも物語も消滅してしまう。しかし、①のシナリオで語られたSuper-ShortyとIDWの熱い友情の物語が、あるいはジェリコとステラの間で揺れるセイの葛藤が、単なる泡沫の夢として片付けられてしまうのはどうしても悲しい。

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Super-ShortyとIDWのエピソードほんと良かったね……(昇天)

 だが、このイベントではその不満感が最後の最後に見事な形で解消される。

 416の見た夢。それはアンドロイドの思い描いた演算であるがゆえに、データとして民間軍事会社グリフィンに記録されていた。そしてそのデータを元に、Super-ShortyやIDWといった夢の中のグリフィン人形たちの、はたまたデイナやセイといった夢の中に出てきたVA-11 Hall-Aキャラたちの人格が再現される。そして彼らは「グリフィン人形」という形で新たにアンドロイドの肉体を与えられ、②の世界への転生を果たすのだ。

 ここに来て①の物語は完全に②への合流を果たしひとつの可能性だった物語は現実に繋がる*9そしてまた、夢の中だけの共演を果たしていたVA-11 Hall-Aとドルフロの面々は、ここでついに本当の意味でのコラボレーションを果たす。VA-11 Hall-Aのキャラクターたちはこの数奇な転生を経て、ひとつの可能性として、しかし同時に現実の事象としてグリフィンの一員に迎えられたのだ。

 

 そんなのただの辻褄合わせじゃないかって?

 けっきょく上っ面だけコピーした人形じゃあないかって?

 

 でも本物と見分けられない嘘なら、本当だと思ったっていいじゃないか。

 

*1:ヴァーチャルユーチューバーもコラボしてなんぼのものである。

*2:『HiGH&LOW THE WORST』ならワーストとハイローの双方がヤンキー漫画の文法で成立しているので世界観云々は気にする必要がないけどね。

*3:ジェイソンも夢を見るのだろうか?

*4:これは型月とマーベルの悪口です。

*5:人形でも酔うし、内部機関がおかしくなることだってある。

*6:416とジルの個人的な友人に限るけど

*7:セカイ系じゃん。

*8:事情が複雑なので言及はしないけど

*9:少なくともドルフロの世界における現実として

小説/ひらいば、ひきこもごも


 外に出て、人々の往来を見てみれば分かるように、ひとにはそれぞれの速度がある。せかせかと歩くひと、ゆうゆうと歩くひと、一歩ずつ自分の足元を確かめるように歩くひともいるし、浮足立って突っ走っていくひとだってときにはいるだろう。
 ひとそれぞれに速度があるように、それぞれの町、それぞれの道にもまた速度がある。先を急ぐひとびとで溢れた都会の街路。日々の生活をゆったりと味わって生きるひとの歩く郊外の町並み。それぞれに速度があり、速かったり遅かったりする。上手く歩くコツは、その町の速度に合わせることにある。その町の速度どおりに歩けば、誰かにぶつかったりもしないし、下品に睨まれたりもしないはず。
 そういうわけだから、これは速度のお話であって、今から話すのは色々な速度のことだ。でも肩肘張る必要はない。小説なんてゆっくり読んでもちゃっちゃと読んでも良いのだし。

 ヒライバは楽器だ。あまり知られてはいない。形状はヴァイオリンに近い。大きさもそのような感じなので、ちょっとした心得さえあれば子供でも演奏することができる。でもこのこともあまり知られていない。
 ヒライバの演奏者はとても少ない。この国にふたりしかいない。少年と少女。昔から少なかったけれど、近年はもっと少なくなってしまった。数年前まではもうひとり奏者がいたのだが、色々なことがあってやめてしまった。
 今。そのふたりは練習に使っている少女の家の防音室で、演奏もせずに押し黙っている。ふたりの視線の先にはヒライバがあった。そのヒライバはちょうど開花したコスモスを思わせる形に、中心部から四方へと裂け、砕けていた。

 ヒライバは木から作られる。別に珍しいことではない。楽器というのは大概、木から作られる。でもヒライバの原料になる木は珍しいものだったので、ヒライバをあまり沢山作ることはできなかった。これが、ヒライバが世人に知られていないことの理由のひとつ目だ。
 ヒライバを作るのはヒライバ職人だ。彼らは、古来より続くヒライバ制作の手法を受け継ぎ、ひとつひとつ丁寧にヒライバを作っていく。普通の弦楽器によく似た形状をしているヒライバだが、その内部には複雑な空洞が彫り込まれている。職人はそうした空洞にこまごまとした仕掛けをめぐらして、そんな風にしてヒライバは作られていく。とても難しい。とても難しいので、ヒライバを作ることができるのはヒライバ職人だけなのだ。
 近年では、もっと安価にヒライバを作ろうとする試みも持ち上がった。流行りのプリンターとかカーボンとかで職人の技を再現しようとしたのだ。けれど今のところ、そうした試みが上手くいったという話は聞かない。結局、科学技術を持ってしても、贋物が本物を超えるのにはそれだけ長い時間が必要なのだ。
 少女の祖父はヒライバ職人だった。正確に云えば、最後のヒライバ職人だった。彼の死後、もうヒライバを作ることができる者はいない。

 少年と少女は幼いときからずっとヒライバ演奏の練習をしてきた。というわけではない。彼らがこの奇妙な楽器と初めて出会ったのは事実幼いときだったが、ふたりの保護者はヒライバではなくピアノやヴァイオリンを習わせた。ヒライバ業界の権威である少年の母と、ヒライバ職人である少女の祖父もこのことには賛成した。そもそもヒライバは幼い子が弾いて楽しいようなものではないからだった。
 ヒライバの演奏法はちょっと変わっている。ヴァイオリン様の本体を「刃」と呼ばれる棒で撫でることによって音を出す。このとき、刃は本体の木と摩擦を起こし、ヒライバは今にも壊れそうな危うい軋みの音を立てる。
 ヒライバは、「刃」で本体を削ることによって音を奏でる楽器だ。つまり、ヒライバを演奏し続けると、ヒライバは削られ削られ削られて、小さくなっていく。そしていつか音を奏でることもできないくらいまで削られる。演奏中ずっと削られ続けるため、ヒライバの奏でる音は常に変化し続ける。奏者はそれを巧みにコントロールしながらヒライバを奏でていく。その調べは、ただただ物悲しい。削られ続けるヒライバ自身の悲愴が伝わってくるかのような錯覚を受ける。ああなんて苦しいんだろう。なんて痛切なんだろう。聴衆はそう感じずにいられない。
 今、現在。演奏可能なヒライバはふたつしか残されていない。少年のぶんと少女のぶん。最後のヒライバ職人が死んでしまったので、本当にもうこれしかない。みなさんがヒライバをよく知らない、そのもうひとつの理由はこれだ。
 そして、残されたふたつのヒライバのうち、ひとつが無残な姿で壊れてしまった。少年と少女が押し黙っている理由はこれだ。

 ヒライバは悲しい。その音は聴衆にとっても悲しいし、演奏者にとってはもっと悲しい。
 三年前までヒライバの奏者は三人だった。少年と少女と、あともうひとり。失われゆくヒライバという楽器の文化を守ろうとするやる気に満ち溢れたひとだった。そのひとは毎日毎日、熱心にヒライバを奏でた。色んなところへ出向き、その音を人々に伝えようとした。そんなふうにしているうちに、あっという間にヒライバは削れ、演奏できなくなってしまった。ヒライバ職人がいなくなった以上、もちろん新品のヒライバはどこにもない。だからそのひとはヒライバの演奏者ではなくなった。
 どうも今は、また別の変わった楽器を弾いているらしい。元気そうで良かった。少年と少女はある日、そんなことを話した。
 結局、親族からヒライバを受け継いだふたりだけが残った。
 伝説のヒライバ奏者がいた。少年の母だ。今も生きている。でもヒライバの演奏はやめてしまった。彼女は幸せになりすぎたから、ヒライバの悲しい音なんか聴きたくなくなったのだ。でも少年と少女がヒライバを演奏しているところをたまに見に来るし、聴いてくれる。そうしていつも。ああやっぱり悲しいなと沈痛な面持ちをしてふたりの頭を撫でるのだった。
 彼女の演奏は、今もインターネットの動画サイトを探せば見つけることができる。再生回数は大したことない。彼女は確かに伝説のヒライバ奏者だったが、そもそもヒライバを知っているひとは少ないからだ。でも、その演奏はたまらなく心を揺さぶる。もうこんな時間だ。諦めるしかないのかな。何もできることがない。なんてことだ。彼女の演奏は、とてもとても悲しい。わざわざ悲しくなりたいひとなどあまりいないので、彼女の動画の再生回数が少ないのは良いことなのかもしれない。
 もしかしたら「かつていた伝説のヒライバ奏者」という称号が、その演奏をいっそう悲しいものにしているのかもしれない。少年は思う。

「私じゃない」
「ぼくでもないよ」
 壊れてしまったヒライバを前にふたりは云い合う。少女のヒライバだった。職人が作ったヒライバはひとつひとつ意匠が違うので、すぐに区別がつく。一方少年はというと、自分のヒライバを大事そうに抱えていた。なぜヒライバが壊れてしまったのか。誰かが壊したのか。ふたりはそれが分からずにいた。
「ずっと練習していて……それで休憩のためにちょっとテーブルに置いて目を離しただけなのに」
「でもそのとき、ぼくは部屋の中にはいなかったじゃないか」
「誰かが部屋に入ってきても気付かなかったのかもしれない」
「ひとを疑うのはやめてくれよ」
「でも、私だって何が起こったのか分からない」
 ふたりのヒライバは半分ほど削れている。この調子ならあと何年か、使い続けることができるだろう。でも少女のヒライバの方はもう……。
 ふたりは次の言葉を出せずにいた。少年は机上のヒライバの破片をひとつ手に取り眺める。
「楽器なのに楽しくない、悲しい楽器なんておかしいよな……」
 少年は云ったが、少女は何も答えなかった。

 元々ヒライバは新年の祝の儀式で演奏されたらしい。こんなに悲しい音色なのに? 幼い日の少女は祖父に問うた。老人は、年が明けるのは悲しいことでもあるんだよ。と云った。悲しいだけじゃないけどね。と付け加えることも忘れなかった。
 少年の母はかつて一度、テレビのインタヴューを受けたことがある。そのときの映像は今もインターネットのどこかにあるはずだ。誰かがアップロードした荒い映像の中で、彼女はこう喋っている。
「どうしてヒライバを演奏するのか? ……うーん、難しい質問ですね。家族に演奏者がいたから……でも、それじゃつまらないかも。…………でもたまに確認しないと分からなくなってしまうじゃないですか。悲しいって気持ちも」
 聞き手はここで怪訝な顔をする。小首をかしげている。
「変わり続けるヒライバの音の中で、一本の旋律を追いかけようと必死になっているときに、自分の中にある悲しい気持ちに気づけるんです。変わらない。ただ暗澹たる悲しみの気持ちに」
 聞き手は彼女の言葉を理解しようと、首が折れてしまいそうなほどにまで捻って唸り声をあげる。
「速度の問題ですよ。ゆっくり立ち止まってみれば、波が止んで見えてくるかも」
 聞き手の首はぐるっと一周回って、あるべき場所に戻ってくる。

ヒライバはそれなりに頑丈なはずだけど、ここまでボロボロになったらもう音はならないかもしれないな」
 少年がそう云うと、少女はそれに答えるかのように一番大きな木片を拾い上げて、そこに「刃」を当てる。刃とヒライバの擦れ合う音が、最初の一瞬、とても不愉快な気味の悪い音で、そして次第にとても小さな、けれどとても悲しい音色で聴こえてくる。
「こんなになっても、まだ音を立てることができるのね」
 少女は少し驚いたように目を見開いて木片を凝視した。
 一方、ヒライバの残骸を見ていた少年は少女の方を見て口を開く。
「何が起こったのか分かった気がするよ」

 ヒライバの音は変化し続ける。演奏者はその音の流れの中で紛れもない「今」をすくい取り続けないといけない。少女の祖父はそう教えてくれた。
 少女は思う。「今」というのはいかに不確かなものか。それは祖父が云った通り、流れる川の水を素手ですくい取るようなものかもしれない。取ったそばから零れ落ちてしまう。すくい取れる量だって不確かだ。手の大きなひとは沢山すくい取れるけれど、手が小さい子供にはほんの僅かしか水を拾えないかもしれない。
 でも何度もヒライバの練習を重ねていくうちに、次第にそれが見えてきたかもしれない。少女の祖父が云った「今」も。少年の母が云った「変わらない悲しみ」も。

「爆ぜたんだ。ヒライバ自体が爆ぜたんだ」
「そんなことある?」
ヒライバの内部には無数の空洞がある。どうやらこのヒライバは、ある程度まで削れると内圧が一点に集中するように作られていた。ヒライバは音を出すための細かい仕掛けがたくさん付属しているわけだけど、そのなかに破裂を誘発するような仕掛けもあったみたいなんだ」
 少年は残骸をいくつか拾って見せる。
「じゃあ、ヒライバが壊れたのはおじいちゃんが……」
「そうだろうね」
 少女は宙を見る。祖父は少女のヒライバがいつか壊れるように、あらかじめ設計していたようだった。ヒライバ職人の技術を持ってすれば、難しいことではないのだろうか。でもどうして?

 少年と少女がヒライバの演奏を始めたのは、少女の祖父が他界する数ヶ月前のことだった。少女の祖父と少年の母は、真剣にヒライバの演奏法を教えてくれたが、熱心になりすぎないことを注意しておくのも忘れなかった。
「楽器が楽しいことだけを奏でるわけではないように、ふたりとも悲しい音ばかり聴いているわけにはいかないよ。あくまで、それは移り変わるものの中にあるひとつの澪標にすぎないのだから」
 老人の死期は迫っていた。ヒライバという楽器が、地上から永久に姿を消そうとしていることは、その場の全員が分かっていた。でもそれは、悪いことじゃない。ヒライバは削られるときにしかその音色を響かせてはくれないのだ。
「もしぼくらのヒライバが全部使えなくなってしまったら……そのときはどうしたら良いのかな?」
 少年は不安げに尋ねた。老人が答える。
「どうもしなくて良いさ。普通に生きていれば良い。それで、ふとしたときに録音した自分たちの演奏を聴いてみたら良いじゃないか。それはどんな音よりいっとう悲しく聴こえるはずだ」

「時間が来たということだと思う」
 少女はヒライバの木片を片手に、少年に背を向けた。
「どこへ……?」
 少女は振り返って手元の欠片を示した。
「悲しみを忘れずにいるには、これで十分」
 少女は部屋を去った。
 少年はしばし呆然と立ち尽くしていたが、やがて椅子に軽く腰掛け、自分のヒライバに「刃」を当てる。
 とても悲しい音が、部屋を満たした。

『クロック城』に囚われている

 

 あまりにもこのページを放置しすぎたため、今回の更新は208日ぶりの更新となる。(型通りのオタクならここで「2億年ぶり」だとかなんとか適当な誇張をするところであるが、筆者はそのようなことはしない。筆者はオタクではないので)。

 さすがにこのまま腐らせておくのももったいないのでなんか書くか〜、とは度々思っていたものの特に書くことはなかったのでなあなあになっていたが、今日10月6日は霧切響子さんの誕生日であるし、北山猛邦先生の話などを書こうかと思う。

 思えば折に触れて北山作品について言及してきたような気がするが、まとまった文章として作品について語ったことはなかった。ぼちぼち「ダンガンロンパ霧切」シリーズも完結しそうな空気感を出しているし、改めて北山作品についておすすめするタイミングとしてはちょうど良いかもしれない。そういうわけで、今回は北山猛邦のデビュー作『『クロック城』殺人事件』(以下「『クロック城』」)の話をしよう。*1

 

『クロック城』殺人事件 (講談社文庫)

『クロック城』殺人事件 (講談社文庫)

 

 

終焉をむかえつつある人類の世界。探偵・南深騎みきと菜美の下に、黒鴣くろく瑠華るかと名乗る美少女が現れた。眠り続ける美女。蠢く人面蒼。3つの時を刻む巨大な時計。謎が漂うクロック城に2人を誘う瑠華。そこに大きな鐘が鳴り響いたとき、首なし遺体が次々と現れた。驚愕のトリックが待つ、本格ミステリ。(本書あらすじより)

 

  なお、以下の内容は当然『クロック城』の展開について触れている。本格ミステリとしての謎解きやトリックに関わる部分(密室トリック、犯人など)については一切ネタバレをしていないが、ストーリーについては結末まで言及する。この文章を読んだくらいで、興が削がれるような本ではないと思うが、事前知識なしで読みたいという方は以下を読まないことをすすめる。

 また、以下では作品名を指す「『クロック城』」と、作中の城の名前を示す「クロック城」を表記分けする。文中で指し示すページ数は文庫版のページに拠る。

 

名探偵の不在

 この物語には名探偵が登場しない。

 本書は明らかに「城」を舞台にした古風な館ミステリをベースにしているし、密室殺人や頭部のない遺体など本格ミステリらしいガジェットに溢れているのに、どうも明確な名探偵が登場しないのだ。北山猛邦という作家は麻耶雄嵩のアプローチを受け継ぎ、かなり自覚的に名探偵の在り方を模索しているため、ここで名探偵が登場しないというのは注視すべき事実だ。*2

 もちろん主人公の深騎は探偵だが、その業務は「幽霊退治」という特異なものだ。事件の捜査をしたり怪異の探索をやったりはするものの、実際に殺人事件に際して快刀乱麻を断つ推理ができるわけではない。それどころか、深騎が進行する事態に為す術もない強烈な無力感を抱くことが、物語の重要な因子になっている。

 では他に名探偵に相応しい人物がいるだろうか。登場人物紹介も兼ねて、各キャラクターを見ていくとしよう。

 〈第三の天使〉クロスを名乗る人物は、世界滅亡を回避するために奔走する「十一人委員会」のメンバーだ。白ずくめの派手な衣装といい、クールな立ち居振る舞いといい、名探偵の称号に相応しいカリスマを持つキャラクターに見えるが、彼の目的は事件の解決よりも人類の救済という点にあり、実際彼が事件を解決するわけではない。

 クロック城に住まう黒鴣家の人びとの中には、名探偵と呼べる人物はいないだろう。彼らが作品の解決に大きく介入したり、といったことはあるものの、それは必ずしも純粋に事件を解決するために取られた行動ではない。

 民間セキュリティ会社「SEEM」は、クロスたち十一人委員会とは別のやり方で世界滅亡を回避しようとするが、そのやり方は非常に暴力的。当然、彼らの中に名探偵を見出すことはできないだろう。

 志乃美しのみ菜美なみは、深騎の幼馴染であり作品のヒロインのひとりだ。そして、作中で最も「名探偵」らしい行動をするのは彼女である。

 事件の不可解な謎を解き明かし、最後の最後に至るまで深騎に正しい道を示し続ける。そんな菜美の姿は私たちが普段思い描く名探偵の姿に近い。しかし、彼女が探偵を名乗ることはないし、また次項で説明することだが菜美はある特殊な事情を抱えている。

 

ゲシュタルト欠片かけら

 作中重要なキーワードとして登場するのが「ゲシュタルトの欠片」だ。これはある種の幽霊であり、深騎が幽霊退治をしているのも、彼がこの「ゲシュタルトの欠片」を視認し攻撃することができるからである。

 ゲシュタルトとは主に心理学や現象学で用いられる「全体」の理論である。(中略)個々の事象が織り成す形態。様々なものが総合されて「全体」になる時、幻の如く一つの形が生み出され、脳に知覚される(16ページ)

 ゲシュタルトの欠片は、場の全体の雰囲気によって生成されるものであり、一般には幽霊として解釈されている…………作中ではそのように説明される。

週末に起きる事件の幾つかは、〈ゲシュタルトの欠片〉を表出させ、事件を一層混沌とさせていた。深騎はそれらを解決していくうちに、ある時、自分に〈ゲシュタルトの欠片〉を消滅させる能力があることに気づいた。深騎自身が場の一要素となることで、そこに浮かび上がる「全体」に変化をもたらすのである。(17ページ)

 これは深騎の能力についての説明だが、作中における深騎の立ち位置を考えるうえで非常に重要な部分でもある。彼は「場の一要素となる」ことで、ゲシュタルトの欠片に影響を与え、それらを消滅させて世界の秩序を回復することができるのだ。

 そして、この能力ゆえに深騎はクロック城の「内部」に入り、内側から事件を解決しなくてはいけない必要性に迫られる。

 もうひとつ、抑えておかなくてはいけないことがある。それは菜美が一種のゲシュタルトの欠片として描かれていることだ。彼女は実体を持っていて普通に生活し、他の登場人物たちと自在に会話を繰り広げるのだから、明らかに普通の幽霊とは異なっている。しかし彼女は、深騎と寄り添うために自らゲシュタルトの欠片となることを選んだ過去がある。*3

 このため、菜美はひとりの独立した人格であると同時に、深騎の記憶から生じたゲシュタルトの欠片でもある、という特異な状況が生まれている。設定が雑ではないか、という話は置いておくとして、以降では菜美のこの奇妙な立ち位置にも注意して読解していきたい。

 

狙撃手と探偵

 狙撃手は北山猛邦が好んで登場させるキャラクターである。『つめたい転校生』(KADOKAWA)にはずばり「かわいい狙撃手」という短編があるし、『ダンガンロンパ霧切6』(星海社)ではスナイパーたちの対決が描かれている。探偵ほどではないが、狙撃手も北山作品において非常に大切なキーパーソンとなるのだ。

『クロック城』においても脇役ながらスナイパーが登場する。SEEMのメンバーである東錠だ。

 クロック城の外壁には過去・現在・未来を表す三つの巨大な大時計が並んでいるが、作品後半においてSEEMがクロック城の事件に介入しようとする際に、彼は城の大時計のひとつ「現在の時計」を狙撃してその戦端を切る。ここから物語は一気に破局と絶望に満ちたクライマックスへ雪崩れ込むわけで、つまり東錠の役割は極めて重要だ。

 主人公・深騎も幽霊退治のためにボウガンを用いる。彼もある部分では「狙撃手」としての素質を持っているというわけだ。そしてこの項では、東錠との比較を通して深騎の在り方を探っていく。

 ここで一度、「狙撃手」とはどういう立場なのかを考えてみたい。

 狙撃手は、遠距離から的確に目標を撃ち抜くことができる。

 北山作品を語るうえで欠かせないのが高度な物理トリックだ。そして、銃火器やボウガンのような飛び道具もまた「遠方にいる相手を確実に攻撃する」ことができる一種の物理トリックと云えよう

 ここで特に重要なのは、こうした飛び道具が、直接殴る蹴るの暴行を加えるのとは一線を画した攻撃方法である、ということだ。例えば、銃火器の大量生産は戦場の兵士個人から「合戦の技術」を無用のものとした。*4その背景には、これらの飛び道具が「加害者の行動」と「被害者の傷害」という二項の間に物理的にも心理的にもある種の断絶を生み出した、という事実があるだろう。

 物語に立ち返って考えてみよう。深騎はクロック城の内部で事件に巻き込まれ、閉塞的な状況の下で様々な困難に立ち向かわざるをえなくなる。一方、狙撃手の東錠はクロック城の外部から狙撃を行い、SEEMの介入を可能にする。両者は極めて対照的な立場にあることは自明だ。

 深騎も東錠も、世界の終焉に対してはほとんど興味を払っていない。加えて深騎も本来的にはボウガンを使って幽霊退治を行う「狙撃手」である。ではどこで、二人の命運は分かれ、深騎だけがクロック城の内部に囚われることになってしまったのだろうか。

 まず、先述したように深騎はゲシュタルトの欠片を消滅させるため「場の一要素」となる必要がある。そのため、探偵として幽霊退治を行う以上、彼は城の内部に居続けなくてはいけない

 そして第二に、ゲシュタルトの欠片が場の空気感の「全体」によって作り出されることに注目したい。なぜ、先程引用した本文の中で「全体」という言葉が鍵括弧付きで表現されていたのか。

 ゲシュタルトの欠片を消滅させるうえで、深騎は場の一要素とならなくてはいけない他に、その場の「全体」を視野に収めなくてはいけない。なぜなら、ゲシュタルトの欠片とは「個々の事象が総合され「全体」になる」ときに発生するのであり、それを目撃するためにはやはり事象の全体を見渡してなくてはいけないからだ。

 これに対して、狙撃手・東錠は「全体」を見る必要がない。彼が見るべきはスナイパーライフルのスコープの狭い視界から見える「目標物」だけだ。この点においても東錠と深騎の在り方は決定的に異なってしまっている。

 そして、深騎は作品中盤でクロック城の幽霊少女「スキップマン」を退治するにあたり、ボウガンは使わずあえて素手で扼殺することを選ぶ

深騎は〈スキップマン〉の首を掴んだ。

感触はなかった。けれど、冷たく、細く、この世でもっともつややかなイメージ。深騎は確かに、彼女の首を掴んでいた。(288ページ)

 この瞬間において、完全に深騎は狙撃手ではなくなったのだ。深騎のこの行動については次項で再考するが、とにかく彼が自らの手で幽霊を葬ったことが、彼が外部からの「狙撃手」ではなく内部から事件に介入する「探偵」とならざるをえなかった事実を強く示している。

 

破壊された時間

 ここで作品の中でも最も大きなテーマのひとつ、「時間」について触れたい。

 世界が終焉に向かう中、各地では磁気異常が発生しありとあらゆる時計は狂い始めてしまう。そんな中で人里離れた地に建ち、正確な時を刻む大時計を有するクロック城は、「時間」という概念にとってのいわば最後の砦であったと云える。

 先述のように、クロック城の外壁には三つの巨大な時計が設置されている時計はそれぞれ「過去」「現在」「未来」を表し、正しい時刻を示す「現在の時計」以外はそれぞれ前後に十分ずつずれた時刻を示している

 東錠によって「現在の時計」が狙撃され、事件を穏便に解決する試みも世界滅亡を回避する試みも挫折し、物語はそのまま終わってしまう。その後、世界が滅亡したのか、あるいはひとびとの努力が奏功して世界が救われたのか。それは永久に決定されないまま、深騎と菜美、そしてわれわれ読者は壊れてしまった現在の中に取り残される。

大時計は無事だったが、もう時を刻んでいなかった。『クロック城』の死だ。(370ページ)

 そもそも物語冒頭から、世界が終焉の危機に瀕していることは語られている。『クロック城』の物語においては、初めから未来などなかったのだった。しかし城内で事件が起こり、様々な勢力の闘争が起こった結果、正しい時を刻み続けてきたクロック城の時計も完全に停止し、あたかも時計が壊れてしまうように未来のみならず現在も壊れてしまう

 現在とはひたすら移りゆく時間の流れそのものだろう。もし「現在」も「未来」も消滅してしまったら、そんな世界に存在するのは永久に変化しないまま保存された「過去」だけになってしまう。それは云わば化石のようなものであり、ここまで考えると幼い日の深騎と菜美の出会いのシーンが新たな意味を持って立ち上がってくる。

「化石を探しているの」

 菜美は答えた。(中略)

「この公園は、海岸に近い土砂を使っているのよ。だから貝殻の化石がよく見つかるの」(174-175ページ)

  そして、作中において「時間」と相通ずる概念として描かれるのが人間の体内時計を象徴する「眠り」という行為だ。「時間」が壊れてしまったら、「眠り」も壊れてしまう。「壊れた眠り」とはすなわち永眠に他ならない。

 ここで、「スキップマン」を扼殺した深騎の行動を再考する。ゲシュタルトの欠片を自らの手で葬ろうとする行為は、同じくゲシュタルトの欠片となった菜美の記憶と決別しようとする行為であることは容易に想像できる。かつて菜美に対して何もできなかったことへの自省もあるだろう。この時点では、深騎は自らの手で過去と決別し、事件の解決を試みようとしていたのだ。*5

〈スキップマン〉は幼い頃の菜美に似ていた。菜美も昔は髪が長かった。(288ページ)

 しかし、その試みは終盤になって致命的な挫折を迎えてしまう。かつて菜美を失ってしまったように、深騎は失敗を繰り返してしまう。 やはり未来への道は絶たれていたのだ。

 

「おしまいの瞬間、私たちは一緒にいられるのかな」

 冒頭の疑問に回帰する。なぜ、『クロック城』には名探偵が登場しないのか。

 答えは簡単。必要ないから。名探偵にも事件を解決することができないからだ。

 本格ミステリのひとつのテーマとして、「事件の真相が明かされたからと云って、それが望ましい結果につながるのか」という問題があるだろう。「真相の解明」と納得のいくハッピーエンドとしての「事件の解決」は、必ずしも両立するものではない。「真相の解明」がむしろ不幸な事態に直結することもあるし、むしろ真相が秘匿されることによって「事件の解決」が訪れることだってあるだろう。

『クロック城』においては、「真相の解明」はあるが「事件の解決」はない。

  なぜか。個人の力では世界の終焉を阻止することなど到底できないからだ。十一人委員会やSEEMなら、あるいはできるかもしれない。けれどひとりの探偵風情が、たとえその探偵が名探偵と呼ばれるほど優れた人物であったとしても、世界を救うことなどできるはずがないのだ。

 個人は世界の強大な流れに立ち向かうことはできない。『クロック城』ではその無力が繰り返し繰り返し描かれる。深騎はかつて菜美を失ってしまった反省から事件の解決を試みるが、殺人は連鎖し、事態は救いのない結末へと向かっていってしまう。クロック城は破壊され、未来のみならず現在までも失われてしまう。

「僕に救いを期待しないでくれ」(243ページ)

 そうした悲劇的な、救いのない結末の末に深騎は何を見るのか。クロック城に向かった前と後で、彼がなにかを失ったのかと云えばそうではないだろう。彼は抗えない世界を見せつけられただけとも云える。

 絶望に満ちたクライマックスの先、菜美は無力感の中で自暴自棄へ陥った深騎を救うため真相解明を行う。菜美が深騎の記憶や過去を象徴する人物であることを鑑みれば、この真相解明は深騎の精神の内部で起こった出来事として捉えることもできる。

 そして菜美の推理を受け、深騎はみずからの在り方を見出す。そこには一切の救いなどない。未来は当然ありえないし、現在すらもおぼつかない状況だ。これを「解決」と呼ぶのはさすがに無理があるだろう。

 けれど、そんな真っ暗な世界の中、すべての希望が失われたわけではない。そのささやかな、本当に弱々しい光が、この物語を強烈に魅力的なものにしている。

 

 そしてなにより、北山猛邦の物語はここから始まったのだ。

*1:今回はミステリ的な仕掛けにはほとんど触れず、ストーリーやキャラクターに焦点を絞って書いているが、本格ミステリとしても最高に素晴らしい小説であることは付言しておきたい。

*2:『『アリス・ミラー城』殺人事件』や『ダンガンロンパ霧切』シリーズには数多くの「名探偵」が登場するし、『猫柳十一弦』シリーズや『音野順』シリーズは古典的な名探偵像とは別の名探偵像を模索する試みと云える。

*3:正直なところ、この辺りの設定はぼかされているのであまり掘り下げたくないが、同時に深騎の心理に大きな影響を与えている部分でもあるので触れざるをえない。特にデビュー当初の北山先生は特殊設定というものをあまり自覚的に導入していなかった節があり、本書には設定が詳細に描かれない部分がある。

*4:より丁寧に書くなら、戦争の技術が「他者を直接的な暴力によって制圧する」ということから、「的確に目標へ弾を打ち込む」ことに変化した。

*5:もともと深騎が城にやって来たのはスキップマンを退治するよう依頼を受けたからであったが、実際にスキップマンを退治するのは依頼人の瑠華が依頼を取り下げたあとだった

小説/ヴァーチャルプロクター

  
 起立、気を付け。
 おはよう、諸君。私が君たちに講義を行うのはこれが初めてとなる。
 まず私の仕事について説明せねばなるまい。
 必要なのは何をおいてもまず、ヴァーチャルユーチューバーだ。

 ヴァーチャルユーチューバーが世に広まったのは2010年代後半とされている。その起源については諸説あるが、詳しいことは配布資料35頁を参照していただきたい。ここに来た諸君にとっては既知の事柄も多いと思うが……。

 

〈配布資料35頁より〉
「―― ヴァーチャルユーチューバーのブームがどこから始まったか、という議論については専門家の間でも意見が割れる。当然のじゃロリおじさんがバズったところを節目とする見方もあるし、ほとんど時を同じくして輝夜月が流星のごとく現れたことが着火剤になったとする見方もある。
 ※アンドリュー・パーカーが提唱した、いわゆる光スイッチ説。
当然草分け的存在としてキズナアイを上げる向きもあれば、さらにそれ以前からブームの土壌がつくられていたとする意見もある。
 ※「ポン子なくしてキズナアイなし」とするピレンヌテーゼで知られるアンリ・ピレンヌなど。 ――」

 

 こうした不毛な議論はさておき、ヴァーチャルユーチューバーが従来の配信者や映像作品とは異質な立ち位置にあることは理解していただけるだろう。ここで、その立ち位置を模式的にまとめておく。

 

〈板書 図Ⅰより〉


 この概念図を見れば分かるように、ヴァーチャルユーチューバーという存在は製作者側からも視聴者側からも離れた位置にある。そしてさらに、ヴァーチャルユーチューバーを挟んで、製作者側と視聴者側はある意味対等の地位に置かれているということが明らかとなってくるのだ。
 なに? 製作者側と視聴者側が対等とは思えない、と言うのか?
 気持ちは分かるがよく考えてみたまえ。ヴァーチャルユーチューバーとはあくまで人格である。それを形作ったのは製作者側であろう。しかし、製作者側が配信開始後にその人格を改竄することは、少なくともヴァーチャルユーチューバーの設定上不可能だ。無論例外はある。しかし多くの場合そうなっている。
 話を進めよう。
 加えて注目してほしいのは、製作者側の存在が設定上視聴者から秘匿されているケースについてだ。ヴァーチャルユーチューバーという仮想の個人が配信している、という設定上はある程度“舞台裏”の部分を隠さなくてはならない。一方で視聴者側としては表向き隠されている舞台裏部分について承知したうえで動画を見ることになる。
 今後の議論のために、ヴァーチャルユーチューバーの特徴としてこの二点、対等関係と舞台裏の秘匿について覚えておいていただきたい。

 さて、優秀な諸君はそろそろお気づきのことと思う。先ほどの概念図は諸君の知るあるものと酷似しているのだ。

 

 そう。

 大学受験である。

 


〈板書 図Ⅱより〉

 


 これは2020年に当時の当大学学長である万丈カグラが提唱した理論に基づく概念図、いわゆるカグラチャートだ。発表当初、学会はこの理論を牽強付会として一蹴し、万丈は発狂したとまで揶揄された。しかし、この理論が今日、すなわち2030年2月現在における教育システムの中枢を形作ったことは諸君の知る通りである。

 

 さて、先ほど私はヴァーチャルユーチューバーの特徴として二点あげた。対等関係と舞台裏の秘匿である。
 これは大学受験にも当然当てはまる。
 第一に、大学と生徒は入試問題を挟んで対等の位置にある。生徒側が入試問題に介入できないのと同じように、問題を作成する大学側も完成した入試問題に介入することはできない。かつては大学側が作問ミスを犯し、さらには一年間に渡ってその事実を放置するという事態も起こった。大学側はこれについて適切な対応を怠ったが、これは既に出題された入試問題について大学側が無力であることを否認しようとした結果である。
 第二に、大学入試作成の過程や、採点の過程は生徒側には秘匿された状況で行われる。これは、入試実施における公平性の維持には不可欠な過程であり、生徒側にとっても舞台裏の秘匿は重要な意味を持っている。
 加えて、入試とは言わば「大学入学後に生徒が望ましいパフォーマンスをしうるか」という点を仮想された状況においてシミュレートする役割を持つ。

 以上のことから、大学入試とヴァーチャルユーチューバーの親和性については十分理解いただけたかと思う。重要なのはここからだ。
 カグラチャートを考案した万丈カグラは、さらにその理論を発展させ、ついに一つの画期的発明に至る。

 

 その発明とは、大学入試とヴァーチャルユーチューバーを融合させるということ。

 

 仮想入試監督者ヴァーチャルプロクターだ。

 

 AI技術の発達により、2030年現在において専門的知識の重要性は急速に薄れつつあり、読解力や表現力が重要性を増してきたことは言うまでもない。当然ある程度の知識は年数回に渡り行われる、小テストで問われているが、大学入試において特に重要なのはその知識を活用する能力をいかに図るかということだった。
 仮想入試監督者ヴァーチャルプロクターは、それ自体が一つの入試問題である。2020年代以降急速に発達したVR技術により、主要大学はそれぞれに仮想入試監督者を開発し、受験生はヴァーチャル空間において仮想入試監督者が出題する“問”に解答する形で受験を行うようになった。問題への解答は口頭試問から記述まで多岐に渡り、同時に解答中の受験生の脳波を計測することでより正確な採点を可能にした。旧来の教科区分や文理の垣根が崩壊したこともあり、仮想入試監督者のシステムはわが国全体へと広がりつつある。

 

 おっとそろそろ時間が来たようだ。
 では“問”を出題するとしよう。
「学生の学びについて審査する方法として、どういったものが望ましいのか。本講義全体をふまえて100字から120字以内で記せ」
 これで私からの出題は終わりだ。諸君の検討を祈る。

 

 T***大学仮想入試監督者ヴァーチャルプロクター、南方美熊による試験は以上だ。
 気を付け。着席。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 以上の文章を読んで次の問いに答えなさい。

第一問 私たちが得たものは何か。本文中の言葉を使い60字以内で書きなさい。

第二問 私たちが失ったものは何か。本文中の言葉を使い60字以内で書きなさい。

第三問 ヴァーチャルユーチューバーとは何であるか。本文から5字以内で抜き出せ。


(出典:T***大学2019年度入試問題)

 

 

 

[少女庭国]とはなんだったのか

 

〔少女庭国〕

〔少女庭国〕

 

 

〔少女庭国〕 (ハヤカワ文庫JA)

〔少女庭国〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

 

 

 『[少女庭国]』とは、矢部嵩によって書かれた異形の小説ないし立川野田子女学院卒業試験の記録である。

 ホラーがメインではないのでさしてグロテスクではないものの、それなりにそれなりのエグい描写がカジュアルに出てくるので嫌な方は心した方が良いかと。文体の個性も結構あるので人によっては拒絶反応が起きるかもしれない。

 あらすじは以下の通り。 

 

  卒業式会場の講堂へと続く狭い通路を歩いていた中3の仁科羊歯子は、気づくと暗い部屋に寝ていた。隣に続くドアには、こんな貼り紙が。卒業生各位。下記の通り卒業試験を実施する。

“ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ。時間は無制限とする”

羊歯子がドアを開けると、同じく寝ていた中3女子が目覚める。またたく間に人数は13人に。脱出条件“卒業条件”に対して彼女たちがとった行動は…。扉を開けるたび、中3女子が目覚める。扉を開けるたび、中3女子が無限に増えてゆく。果てることのない少女たちの“長く短い脱出の物語”。 

 

 この本がデスゲームものへのアンチテーゼとして書かれたことや、思考実験としての要素を持つことは下のページなどで既に指摘されているので、今回は特に言及しない。適度に参照されたい。

(2019年6月21日加筆 以下の記述は原則的に初出のJコレクション版に対応し、文庫版において変更がある場合については註にて言及。引用箇所についても同様とする)

 

少女庭国 - ナナメ読みには最適の日々

 

※ざっくりと作品のネタを割ることになりますが、そこまで読後感にアレはないと思うので、未読の好事家の読書ガイドになれば良いと思います。

 

 作品は二部構成。冒頭1/4が「少女庭国」(以下便宜上「本編」とする)で、残りは「少女庭国補遺」(以下「補遺」)となっている。本編はあらすじの通り仁科羊歯子を視点人物としてゲームクリアまでを描き、補遺では新たに62人の視点人物が体験する同じルールの卒業試験が順番に叙述される。

 「n-m=1の達成」。これこそが卒業試験の目的であり、物語の肝だ。念のため書いておくが、「n-m=1の達成」とはつまり、「一度開放された部屋の内部にいる自分以外の生徒すべてを排除する」ことを意味する。*1

 曲がりなりにも真っ当なデスゲームものとして語られていた本編に対し、補遺においてはあらゆるゲーム展開が次々と提示されセルフパロディの様相を呈していく。これがこの本の特異性であり醍醐味でもあるのだけれど、今回はそうした特異な構図によって浮かび上がってくる「少女と現実の邂逅」について話したい。*2

 

[少女庭国](本編)

 

 「デスゲームものへのアンチテーゼ」とかそうしたごちゃごちゃした話の前に、もう少し初歩的な話をしていきたい。

 なぜ、卒業試験の課題が「n-m=1の達成」なのか。

 ここで注目したいのは登場人物が「中3」であること。ご存知の通り、義務教育制度下では中学校まで無試験で上がることができる。そして、中学校卒業後は高校・大学受験や入社・資格試験など、誰もが様々な形でテストされ合否を突きつけられることになる。

 それは同時に「他者を蹴落とす」ことを意味していて、だから「中学校の卒業」とは、誰もが「淘汰の仕組み」を受け入れることとなる通過点だ。

 もうお分かりと思うが、n-m=1」はこの「淘汰の仕組み」そのものであり、「n-m=1」を受容したものだけが中学校を卒業できるのは必然的といって良い。

 

 本編の主人公・仁科羊歯子は成り行きで「n-m=1」を受け入れることになるが、彼女同様自ら望んだ訳でもないのに「n-m=1」と付き合っている人は多い。他人を蹴落とさないとクリアできない、こうした類のゼロサムゲームはデスゲームものの常道だが、[少女庭国]はそれを卒業式という通過儀礼の装置に組み込んでいる。

 言い換えれば、[少女庭国]は「中学校」と「競争社会」の間に位置する分水嶺なのだ。

 

[少女庭国](補遺)

 

 さて。以上のようなことはこの小説の前提条件に過ぎない。補遺に突入すると、物語の構造はちょっと一筋縄ではいかない様相を呈してくる。

 仁科羊歯子個人の物語として書かれていた本編と違い、補遺においては62人の視点人物によって少女庭国の栄枯盛衰が次々と語られていく。時に彼らは庭国の開拓を進め、領域を拡大し、どういう訳かクローズドサークルの内部に新しい文明を築いていく。ここにきて、閉じ込められた生徒たちの目的は「脱出」ではなく「生活」へとねじ曲がっていってしまう。

 奇妙なのは、そうして現実世界での淘汰を受け入れられずに文明を作った生徒たちも、やがて奴隷制や食人のシステムを作り上げて庭国の内部に搾取の仕組みを作り上げてしまう点だ。そうなってしまうと、当然卒業試験は分水嶺としての役割を喪失し有名無実のものと化してしまう。

 

 こうした展開は一見、本編にて作り上げた構図を著者自らが破壊してしまう行為のように見える。

 

 しかし、こうして庭国がもうひとつの現実として拡大していくことも、卒業試験の一部として最初から組み込まれているのではないか。庭国の内部にはその他の部屋と明らかに異なる「無限の石室」が存在する。

 

 地上に出たかと見まがうほど天地四方にどこまでも続く広大な空間(P.147)    *3

 

 初読時にはこれもまた生徒たちの開拓で作られた部屋なのかと思ったが、「天地四方に広がる」という設定を踏まえると人力で作ることが出来るものとは考え難い。上の描写を踏まえると最初から庭国の一部として存在したと考えるのが自然だ。さらに言えば、「無限の石室」は庭国内部での文明発展の場として、試験の主催者たる校長から与えられたものに他ならないだろう。*4

 要するに、試験に参加しようと参加しまいと生徒たちは淘汰の仕組みに飲み込まれてしまう。そして、庭国は最初からこの事実を踏まえたうえで設計されている。

 

 話はここで終わらない。

 少し唐突ではあるが、一度補遺の「性質」について振り返っておきたい。

 補遺は62人*5の生徒によるそれぞれの体験を淡々と羅列していく。そして本編たる仁科羊歯子の物語すら羅列される全体の物語に飲み込まれ、客観化されていってしまう。

 そう、補遺において特徴的なのは客観の視点だ。

 直接的に明かされている訳ではないが、補遺の文章は庭国に住む生徒たちによって書かれた歴史研究そのものだ。彼らは「過去方向の部屋」を発掘して自分たち以外の生徒の試験結果を探索し、研究している。

 

四九番というのもここで便宜的な国分星子のただあったら読みやすいかなと思って付けた読書の目安であり(P.138)*6

 

 例えばこれは章題の番号についての言及。こうしたメタ的な描写は、補遺そのものが生徒たちによって書かれた歴史研究の書であることをさし示している。実際148頁*7などには、補遺の内容がそのまま庭国の文明世界において教科書となっている、と露骨に書かれている。

 なお、補遺では登場人物が試験に合格したのかどうかもロクに描かれない箇所が複数あるが、テキストが庭国内部にいる生徒によって書かれたものと考えれば、脱出につながる描写が欠落しているのも納得がいく。*8

 ここで話は戻ってくる。補遺が生徒たちによる歴史研究である以上、先述した庭国の仕掛け――淘汰の仕組みから逃れられないという仕掛けは、当然生徒たちにも認識されている。されているからこそ、物語は最後に一つの答えに辿り着く。

 

 話が煩雑になってきたのでまとめておきたい。

  • 卒業試験の合格は淘汰の仕組みの受容と同義
  • 庭国が文明に発展すると庭国内部にも淘汰の仕組みが形成される
  • 庭国は以上を踏まえたうえで設計されている
  • 以上のことを生徒たちも認識している

 

  ここに来て、生徒たちは避けることが出来ない「淘汰の仕組み」との対峙を迫られる。システムをいかに克服するのか、それとも現状を受け入れ続けるのか。

 補遺の叙述者である生徒たち、そして『[少女庭国]』の著者である矢部嵩の結論は最後の断章にて二人の少女に委ねられる。その答えがどういったものか、それをわざわざ説明するのも無粋という感じがするのでここには記さない。

 

 ただ一つだけ言えるのは、結局のところこの小説に通底するテーマが「百合」であるということだけだ。*9*10

 

※本記事作成にあたり、てんつく氏の手を借りました。感謝。

 

 

*1:一つの扉を開くと自動的に「開放された部屋の数n=2」となるのでその場合は誰か一人が死んで「m=1」としないと脱出は不可能になる。「n=1」となる状況は存在しないので、いかなる場合も誰かが死なない限り脱出は不可能となる

*2:本当は登場人物の命名の意味合いとかを掘り下げたかったが、諸々考えたところ完全に分からなくなってしまったのでこうなった

*3:文庫P.171 加筆修正なし。

*4:無限の石室が校長から与えられたものでなかったとしても、そもそも「部屋の壁を削って庭国を拡張できる」ことや「ドアさえ破れば過去方向の部屋を探索できる」ように庭国が設計されていることから、やはり生徒による開拓は庭国の設計に組み込まれていることが分かる

*5:文庫版では補遺の小節がひとつ多いため、63人である。なお加筆挿入されたのは「三九 [浮島茉莉子]」(文庫P.149)。

*6:文庫P.159 補遺の小節がひとつ増えたため「四九番」が「五〇番」に修正されている。

*7:文庫P.172

*8:先述リンクでは「全編においてこの最後の二人の少女(ラスト即ち62節──文庫版では63節──に登場)だけが、その『末路』を描かれない」と書かれているがこれは誤解

*9:……と、このときは書いたものの、2019年以降、本書が早川書房の百合SFコマーシャルに利用されるとモヤっとくるのも事実。早川に限らず、こうした"下品"な売り方は今に始まったことではないが、特に百合ジャンルに関しては定義論の難しさやジャンルとしての歴史の浅さゆえ、誤った商業戦略がジャンル全体の寿命を縮めるリスクを考えなくてはいけない……なーんていうことは明白だけど、下品な売り方で喜んでいる勢力が大きいのも事実なので苦しいところ。まぁ何を云いたいのかといえば、「百合かどうかはお前が決めろ」という話であって、そんなことより何より、『[少女庭国]』が傑作であるということが重要だ。

*10:若干この感想文も投げ出し方を失敗してる感があり、なんとなく自分でも思うところがあるので、もしかしたら今後もうちょっとちゃんとした感想文をリライトするかもしれない。もしかしたら。