小説/ひらいば、ひきこもごも


 外に出て、人々の往来を見てみれば分かるように、ひとにはそれぞれの速度がある。せかせかと歩くひと、ゆうゆうと歩くひと、一歩ずつ自分の足元を確かめるように歩くひともいるし、浮足立って突っ走っていくひとだってときにはいるだろう。
 ひとそれぞれに速度があるように、それぞれの町、それぞれの道にもまた速度がある。先を急ぐひとびとで溢れた都会の街路。日々の生活をゆったりと味わって生きるひとの歩く郊外の町並み。それぞれに速度があり、速かったり遅かったりする。上手く歩くコツは、その町の速度に合わせることにある。その町の速度どおりに歩けば、誰かにぶつかったりもしないし、下品に睨まれたりもしないはず。
 そういうわけだから、これは速度のお話であって、今から話すのは色々な速度のことだ。でも肩肘張る必要はない。小説なんてゆっくり読んでもちゃっちゃと読んでも良いのだし。

 ヒライバは楽器だ。あまり知られてはいない。形状はヴァイオリンに近い。大きさもそのような感じなので、ちょっとした心得さえあれば子供でも演奏することができる。でもこのこともあまり知られていない。
 ヒライバの演奏者はとても少ない。この国にふたりしかいない。少年と少女。昔から少なかったけれど、近年はもっと少なくなってしまった。数年前まではもうひとり奏者がいたのだが、色々なことがあってやめてしまった。
 今。そのふたりは練習に使っている少女の家の防音室で、演奏もせずに押し黙っている。ふたりの視線の先にはヒライバがあった。そのヒライバはちょうど開花したコスモスを思わせる形に、中心部から四方へと裂け、砕けていた。

 ヒライバは木から作られる。別に珍しいことではない。楽器というのは大概、木から作られる。でもヒライバの原料になる木は珍しいものだったので、ヒライバをあまり沢山作ることはできなかった。これが、ヒライバが世人に知られていないことの理由のひとつ目だ。
 ヒライバを作るのはヒライバ職人だ。彼らは、古来より続くヒライバ制作の手法を受け継ぎ、ひとつひとつ丁寧にヒライバを作っていく。普通の弦楽器によく似た形状をしているヒライバだが、その内部には複雑な空洞が彫り込まれている。職人はそうした空洞にこまごまとした仕掛けをめぐらして、そんな風にしてヒライバは作られていく。とても難しい。とても難しいので、ヒライバを作ることができるのはヒライバ職人だけなのだ。
 近年では、もっと安価にヒライバを作ろうとする試みも持ち上がった。流行りのプリンターとかカーボンとかで職人の技を再現しようとしたのだ。けれど今のところ、そうした試みが上手くいったという話は聞かない。結局、科学技術を持ってしても、贋物が本物を超えるのにはそれだけ長い時間が必要なのだ。
 少女の祖父はヒライバ職人だった。正確に云えば、最後のヒライバ職人だった。彼の死後、もうヒライバを作ることができる者はいない。

 少年と少女は幼いときからずっとヒライバ演奏の練習をしてきた。というわけではない。彼らがこの奇妙な楽器と初めて出会ったのは事実幼いときだったが、ふたりの保護者はヒライバではなくピアノやヴァイオリンを習わせた。ヒライバ業界の権威である少年の母と、ヒライバ職人である少女の祖父もこのことには賛成した。そもそもヒライバは幼い子が弾いて楽しいようなものではないからだった。
 ヒライバの演奏法はちょっと変わっている。ヴァイオリン様の本体を「刃」と呼ばれる棒で撫でることによって音を出す。このとき、刃は本体の木と摩擦を起こし、ヒライバは今にも壊れそうな危うい軋みの音を立てる。
 ヒライバは、「刃」で本体を削ることによって音を奏でる楽器だ。つまり、ヒライバを演奏し続けると、ヒライバは削られ削られ削られて、小さくなっていく。そしていつか音を奏でることもできないくらいまで削られる。演奏中ずっと削られ続けるため、ヒライバの奏でる音は常に変化し続ける。奏者はそれを巧みにコントロールしながらヒライバを奏でていく。その調べは、ただただ物悲しい。削られ続けるヒライバ自身の悲愴が伝わってくるかのような錯覚を受ける。ああなんて苦しいんだろう。なんて痛切なんだろう。聴衆はそう感じずにいられない。
 今、現在。演奏可能なヒライバはふたつしか残されていない。少年のぶんと少女のぶん。最後のヒライバ職人が死んでしまったので、本当にもうこれしかない。みなさんがヒライバをよく知らない、そのもうひとつの理由はこれだ。
 そして、残されたふたつのヒライバのうち、ひとつが無残な姿で壊れてしまった。少年と少女が押し黙っている理由はこれだ。

 ヒライバは悲しい。その音は聴衆にとっても悲しいし、演奏者にとってはもっと悲しい。
 三年前までヒライバの奏者は三人だった。少年と少女と、あともうひとり。失われゆくヒライバという楽器の文化を守ろうとするやる気に満ち溢れたひとだった。そのひとは毎日毎日、熱心にヒライバを奏でた。色んなところへ出向き、その音を人々に伝えようとした。そんなふうにしているうちに、あっという間にヒライバは削れ、演奏できなくなってしまった。ヒライバ職人がいなくなった以上、もちろん新品のヒライバはどこにもない。だからそのひとはヒライバの演奏者ではなくなった。
 どうも今は、また別の変わった楽器を弾いているらしい。元気そうで良かった。少年と少女はある日、そんなことを話した。
 結局、親族からヒライバを受け継いだふたりだけが残った。
 伝説のヒライバ奏者がいた。少年の母だ。今も生きている。でもヒライバの演奏はやめてしまった。彼女は幸せになりすぎたから、ヒライバの悲しい音なんか聴きたくなくなったのだ。でも少年と少女がヒライバを演奏しているところをたまに見に来るし、聴いてくれる。そうしていつも。ああやっぱり悲しいなと沈痛な面持ちをしてふたりの頭を撫でるのだった。
 彼女の演奏は、今もインターネットの動画サイトを探せば見つけることができる。再生回数は大したことない。彼女は確かに伝説のヒライバ奏者だったが、そもそもヒライバを知っているひとは少ないからだ。でも、その演奏はたまらなく心を揺さぶる。もうこんな時間だ。諦めるしかないのかな。何もできることがない。なんてことだ。彼女の演奏は、とてもとても悲しい。わざわざ悲しくなりたいひとなどあまりいないので、彼女の動画の再生回数が少ないのは良いことなのかもしれない。
 もしかしたら「かつていた伝説のヒライバ奏者」という称号が、その演奏をいっそう悲しいものにしているのかもしれない。少年は思う。

「私じゃない」
「ぼくでもないよ」
 壊れてしまったヒライバを前にふたりは云い合う。少女のヒライバだった。職人が作ったヒライバはひとつひとつ意匠が違うので、すぐに区別がつく。一方少年はというと、自分のヒライバを大事そうに抱えていた。なぜヒライバが壊れてしまったのか。誰かが壊したのか。ふたりはそれが分からずにいた。
「ずっと練習していて……それで休憩のためにちょっとテーブルに置いて目を離しただけなのに」
「でもそのとき、ぼくは部屋の中にはいなかったじゃないか」
「誰かが部屋に入ってきても気付かなかったのかもしれない」
「ひとを疑うのはやめてくれよ」
「でも、私だって何が起こったのか分からない」
 ふたりのヒライバは半分ほど削れている。この調子ならあと何年か、使い続けることができるだろう。でも少女のヒライバの方はもう……。
 ふたりは次の言葉を出せずにいた。少年は机上のヒライバの破片をひとつ手に取り眺める。
「楽器なのに楽しくない、悲しい楽器なんておかしいよな……」
 少年は云ったが、少女は何も答えなかった。

 元々ヒライバは新年の祝の儀式で演奏されたらしい。こんなに悲しい音色なのに? 幼い日の少女は祖父に問うた。老人は、年が明けるのは悲しいことでもあるんだよ。と云った。悲しいだけじゃないけどね。と付け加えることも忘れなかった。
 少年の母はかつて一度、テレビのインタヴューを受けたことがある。そのときの映像は今もインターネットのどこかにあるはずだ。誰かがアップロードした荒い映像の中で、彼女はこう喋っている。
「どうしてヒライバを演奏するのか? ……うーん、難しい質問ですね。家族に演奏者がいたから……でも、それじゃつまらないかも。…………でもたまに確認しないと分からなくなってしまうじゃないですか。悲しいって気持ちも」
 聞き手はここで怪訝な顔をする。小首をかしげている。
「変わり続けるヒライバの音の中で、一本の旋律を追いかけようと必死になっているときに、自分の中にある悲しい気持ちに気づけるんです。変わらない。ただ暗澹たる悲しみの気持ちに」
 聞き手は彼女の言葉を理解しようと、首が折れてしまいそうなほどにまで捻って唸り声をあげる。
「速度の問題ですよ。ゆっくり立ち止まってみれば、波が止んで見えてくるかも」
 聞き手の首はぐるっと一周回って、あるべき場所に戻ってくる。

ヒライバはそれなりに頑丈なはずだけど、ここまでボロボロになったらもう音はならないかもしれないな」
 少年がそう云うと、少女はそれに答えるかのように一番大きな木片を拾い上げて、そこに「刃」を当てる。刃とヒライバの擦れ合う音が、最初の一瞬、とても不愉快な気味の悪い音で、そして次第にとても小さな、けれどとても悲しい音色で聴こえてくる。
「こんなになっても、まだ音を立てることができるのね」
 少女は少し驚いたように目を見開いて木片を凝視した。
 一方、ヒライバの残骸を見ていた少年は少女の方を見て口を開く。
「何が起こったのか分かった気がするよ」

 ヒライバの音は変化し続ける。演奏者はその音の流れの中で紛れもない「今」をすくい取り続けないといけない。少女の祖父はそう教えてくれた。
 少女は思う。「今」というのはいかに不確かなものか。それは祖父が云った通り、流れる川の水を素手ですくい取るようなものかもしれない。取ったそばから零れ落ちてしまう。すくい取れる量だって不確かだ。手の大きなひとは沢山すくい取れるけれど、手が小さい子供にはほんの僅かしか水を拾えないかもしれない。
 でも何度もヒライバの練習を重ねていくうちに、次第にそれが見えてきたかもしれない。少女の祖父が云った「今」も。少年の母が云った「変わらない悲しみ」も。

「爆ぜたんだ。ヒライバ自体が爆ぜたんだ」
「そんなことある?」
ヒライバの内部には無数の空洞がある。どうやらこのヒライバは、ある程度まで削れると内圧が一点に集中するように作られていた。ヒライバは音を出すための細かい仕掛けがたくさん付属しているわけだけど、そのなかに破裂を誘発するような仕掛けもあったみたいなんだ」
 少年は残骸をいくつか拾って見せる。
「じゃあ、ヒライバが壊れたのはおじいちゃんが……」
「そうだろうね」
 少女は宙を見る。祖父は少女のヒライバがいつか壊れるように、あらかじめ設計していたようだった。ヒライバ職人の技術を持ってすれば、難しいことではないのだろうか。でもどうして?

 少年と少女がヒライバの演奏を始めたのは、少女の祖父が他界する数ヶ月前のことだった。少女の祖父と少年の母は、真剣にヒライバの演奏法を教えてくれたが、熱心になりすぎないことを注意しておくのも忘れなかった。
「楽器が楽しいことだけを奏でるわけではないように、ふたりとも悲しい音ばかり聴いているわけにはいかないよ。あくまで、それは移り変わるものの中にあるひとつの澪標にすぎないのだから」
 老人の死期は迫っていた。ヒライバという楽器が、地上から永久に姿を消そうとしていることは、その場の全員が分かっていた。でもそれは、悪いことじゃない。ヒライバは削られるときにしかその音色を響かせてはくれないのだ。
「もしぼくらのヒライバが全部使えなくなってしまったら……そのときはどうしたら良いのかな?」
 少年は不安げに尋ねた。老人が答える。
「どうもしなくて良いさ。普通に生きていれば良い。それで、ふとしたときに録音した自分たちの演奏を聴いてみたら良いじゃないか。それはどんな音よりいっとう悲しく聴こえるはずだ」

「時間が来たということだと思う」
 少女はヒライバの木片を片手に、少年に背を向けた。
「どこへ……?」
 少女は振り返って手元の欠片を示した。
「悲しみを忘れずにいるには、これで十分」
 少女は部屋を去った。
 少年はしばし呆然と立ち尽くしていたが、やがて椅子に軽く腰掛け、自分のヒライバに「刃」を当てる。
 とても悲しい音が、部屋を満たした。