偽史邪神殿

なんでも書きます

『クロック城』に囚われている

 

 あまりにもこのページを放置しすぎたため、今回の更新は208日ぶりの更新となる。(型通りのオタクならここで「2億年ぶり」だとかなんとか適当な誇張をするところであるが、筆者はそのようなことはしない。筆者はオタクではないので)。

 さすがにこのまま腐らせておくのももったいないのでなんか書くか〜、とは度々思っていたものの特に書くことはなかったのでなあなあになっていたが、今日10月6日は霧切響子さんの誕生日であるし、北山猛邦先生の話などを書こうかと思う。

 思えば折に触れて北山作品について言及してきたような気がするが、まとまった文章として作品について語ったことはなかった。ぼちぼち「ダンガンロンパ霧切」シリーズも完結しそうな空気感を出しているし、改めて北山作品についておすすめするタイミングとしてはちょうど良いかもしれない。そういうわけで、今回は北山猛邦のデビュー作『『クロック城』殺人事件』(以下「『クロック城』」)の話をしよう。*1

 

『クロック城』殺人事件 (講談社文庫)

『クロック城』殺人事件 (講談社文庫)

 

 

終焉をむかえつつある人類の世界。探偵・南深騎みきと菜美の下に、黒鴣くろく瑠華るかと名乗る美少女が現れた。眠り続ける美女。蠢く人面蒼。3つの時を刻む巨大な時計。謎が漂うクロック城に2人を誘う瑠華。そこに大きな鐘が鳴り響いたとき、首なし遺体が次々と現れた。驚愕のトリックが待つ、本格ミステリ。(本書あらすじより)

 

  なお、以下の内容は当然『クロック城』の展開について触れている。本格ミステリとしての謎解きやトリックに関わる部分(密室トリック、犯人など)については一切ネタバレをしていないが、ストーリーについては結末まで言及する。この文章を読んだくらいで、興が削がれるような本ではないと思うが、事前知識なしで読みたいという方は以下を読まないことをすすめる。

 また、以下では作品名を指す「『クロック城』」と、作中の城の名前を示す「クロック城」を表記分けする。文中で指し示すページ数は文庫版のページに拠る。

 

名探偵の不在

 この物語には名探偵が登場しない。

 本書は明らかに「城」を舞台にした古風な館ミステリをベースにしているし、密室殺人や頭部のない遺体など本格ミステリらしいガジェットに溢れているのに、どうも明確な名探偵が登場しないのだ。北山猛邦という作家は麻耶雄嵩のアプローチを受け継ぎ、かなり自覚的に名探偵の在り方を模索しているため、ここで名探偵が登場しないというのは注視すべき事実だ。*2

 もちろん主人公の深騎は探偵だが、その業務は「幽霊退治」という特異なものだ。事件の捜査をしたり怪異の探索をやったりはするものの、実際に殺人事件に際して快刀乱麻を断つ推理ができるわけではない。それどころか、深騎が進行する事態に為す術もない強烈な無力感を抱くことが、物語の重要な因子になっている。

 では他に名探偵に相応しい人物がいるだろうか。登場人物紹介も兼ねて、各キャラクターを見ていくとしよう。

 〈第三の天使〉クロスを名乗る人物は、世界滅亡を回避するために奔走する「十一人委員会」のメンバーだ。白ずくめの派手な衣装といい、クールな立ち居振る舞いといい、名探偵の称号に相応しいカリスマを持つキャラクターに見えるが、彼の目的は事件の解決よりも人類の救済という点にあり、実際彼が事件を解決するわけではない。

 クロック城に住まう黒鴣家の人びとの中には、名探偵と呼べる人物はいないだろう。彼らが作品の解決に大きく介入したり、といったことはあるものの、それは必ずしも純粋に事件を解決するために取られた行動ではない。

 民間セキュリティ会社「SEEM」は、クロスたち十一人委員会とは別のやり方で世界滅亡を回避しようとするが、そのやり方は非常に暴力的。当然、彼らの中に名探偵を見出すことはできないだろう。

 志乃美しのみ菜美なみは、深騎の幼馴染であり作品のヒロインのひとりだ。そして、作中で最も「名探偵」らしい行動をするのは彼女である。

 事件の不可解な謎を解き明かし、最後の最後に至るまで深騎に正しい道を示し続ける。そんな菜美の姿は私たちが普段思い描く名探偵の姿に近い。しかし、彼女が探偵を名乗ることはないし、また次項で説明することだが菜美はある特殊な事情を抱えている。

 

ゲシュタルト欠片かけら

 作中重要なキーワードとして登場するのが「ゲシュタルトの欠片」だ。これはある種の幽霊であり、深騎が幽霊退治をしているのも、彼がこの「ゲシュタルトの欠片」を視認し攻撃することができるからである。

 ゲシュタルトとは主に心理学や現象学で用いられる「全体」の理論である。(中略)個々の事象が織り成す形態。様々なものが総合されて「全体」になる時、幻の如く一つの形が生み出され、脳に知覚される(16ページ)

 ゲシュタルトの欠片は、場の全体の雰囲気によって生成されるものであり、一般には幽霊として解釈されている…………作中ではそのように説明される。

週末に起きる事件の幾つかは、〈ゲシュタルトの欠片〉を表出させ、事件を一層混沌とさせていた。深騎はそれらを解決していくうちに、ある時、自分に〈ゲシュタルトの欠片〉を消滅させる能力があることに気づいた。深騎自身が場の一要素となることで、そこに浮かび上がる「全体」に変化をもたらすのである。(17ページ)

 これは深騎の能力についての説明だが、作中における深騎の立ち位置を考えるうえで非常に重要な部分でもある。彼は「場の一要素となる」ことで、ゲシュタルトの欠片に影響を与え、それらを消滅させて世界の秩序を回復することができるのだ。

 そして、この能力ゆえに深騎はクロック城の「内部」に入り、内側から事件を解決しなくてはいけない必要性に迫られる。

 もうひとつ、抑えておかなくてはいけないことがある。それは菜美が一種のゲシュタルトの欠片として描かれていることだ。彼女は実体を持っていて普通に生活し、他の登場人物たちと自在に会話を繰り広げるのだから、明らかに普通の幽霊とは異なっている。しかし彼女は、深騎と寄り添うために自らゲシュタルトの欠片となることを選んだ過去がある。*3

 このため、菜美はひとりの独立した人格であると同時に、深騎の記憶から生じたゲシュタルトの欠片でもある、という特異な状況が生まれている。設定が雑ではないか、という話は置いておくとして、以降では菜美のこの奇妙な立ち位置にも注意して読解していきたい。

 

狙撃手と探偵

 狙撃手は北山猛邦が好んで登場させるキャラクターである。『つめたい転校生』(KADOKAWA)にはずばり「かわいい狙撃手」という短編があるし、『ダンガンロンパ霧切6』(星海社)ではスナイパーたちの対決が描かれている。探偵ほどではないが、狙撃手も北山作品において非常に大切なキーパーソンとなるのだ。

『クロック城』においても脇役ながらスナイパーが登場する。SEEMのメンバーである東錠だ。

 クロック城の外壁には過去・現在・未来を表す三つの巨大な大時計が並んでいるが、作品後半においてSEEMがクロック城の事件に介入しようとする際に、彼は城の大時計のひとつ「現在の時計」を狙撃してその戦端を切る。ここから物語は一気に破局と絶望に満ちたクライマックスへ雪崩れ込むわけで、つまり東錠の役割は極めて重要だ。

 主人公・深騎も幽霊退治のためにボウガンを用いる。彼もある部分では「狙撃手」としての素質を持っているというわけだ。そしてこの項では、東錠との比較を通して深騎の在り方を探っていく。

 ここで一度、「狙撃手」とはどういう立場なのかを考えてみたい。

 狙撃手は、遠距離から的確に目標を撃ち抜くことができる。

 北山作品を語るうえで欠かせないのが高度な物理トリックだ。そして、銃火器やボウガンのような飛び道具もまた「遠方にいる相手を確実に攻撃する」ことができる一種の物理トリックと云えよう

 ここで特に重要なのは、こうした飛び道具が、直接殴る蹴るの暴行を加えるのとは一線を画した攻撃方法である、ということだ。例えば、銃火器の大量生産は戦場の兵士個人から「合戦の技術」を無用のものとした。*4その背景には、これらの飛び道具が「加害者の行動」と「被害者の傷害」という二項の間に物理的にも心理的にもある種の断絶を生み出した、という事実があるだろう。

 物語に立ち返って考えてみよう。深騎はクロック城の内部で事件に巻き込まれ、閉塞的な状況の下で様々な困難に立ち向かわざるをえなくなる。一方、狙撃手の東錠はクロック城の外部から狙撃を行い、SEEMの介入を可能にする。両者は極めて対照的な立場にあることは自明だ。

 深騎も東錠も、世界の終焉に対してはほとんど興味を払っていない。加えて深騎も本来的にはボウガンを使って幽霊退治を行う「狙撃手」である。ではどこで、二人の命運は分かれ、深騎だけがクロック城の内部に囚われることになってしまったのだろうか。

 まず、先述したように深騎はゲシュタルトの欠片を消滅させるため「場の一要素」となる必要がある。そのため、探偵として幽霊退治を行う以上、彼は城の内部に居続けなくてはいけない

 そして第二に、ゲシュタルトの欠片が場の空気感の「全体」によって作り出されることに注目したい。なぜ、先程引用した本文の中で「全体」という言葉が鍵括弧付きで表現されていたのか。

 ゲシュタルトの欠片を消滅させるうえで、深騎は場の一要素とならなくてはいけない他に、その場の「全体」を視野に収めなくてはいけない。なぜなら、ゲシュタルトの欠片とは「個々の事象が総合され「全体」になる」ときに発生するのであり、それを目撃するためにはやはり事象の全体を見渡してなくてはいけないからだ。

 これに対して、狙撃手・東錠は「全体」を見る必要がない。彼が見るべきはスナイパーライフルのスコープの狭い視界から見える「目標物」だけだ。この点においても東錠と深騎の在り方は決定的に異なってしまっている。

 そして、深騎は作品中盤でクロック城の幽霊少女「スキップマン」を退治するにあたり、ボウガンは使わずあえて素手で扼殺することを選ぶ

深騎は〈スキップマン〉の首を掴んだ。

感触はなかった。けれど、冷たく、細く、この世でもっともつややかなイメージ。深騎は確かに、彼女の首を掴んでいた。(288ページ)

 この瞬間において、完全に深騎は狙撃手ではなくなったのだ。深騎のこの行動については次項で再考するが、とにかく彼が自らの手で幽霊を葬ったことが、彼が外部からの「狙撃手」ではなく内部から事件に介入する「探偵」とならざるをえなかった事実を強く示している。

 

破壊された時間

 ここで作品の中でも最も大きなテーマのひとつ、「時間」について触れたい。

 世界が終焉に向かう中、各地では磁気異常が発生しありとあらゆる時計は狂い始めてしまう。そんな中で人里離れた地に建ち、正確な時を刻む大時計を有するクロック城は、「時間」という概念にとってのいわば最後の砦であったと云える。

 先述のように、クロック城の外壁には三つの巨大な時計が設置されている時計はそれぞれ「過去」「現在」「未来」を表し、正しい時刻を示す「現在の時計」以外はそれぞれ前後に十分ずつずれた時刻を示している

 東錠によって「現在の時計」が狙撃され、事件を穏便に解決する試みも世界滅亡を回避する試みも挫折し、物語はそのまま終わってしまう。その後、世界が滅亡したのか、あるいはひとびとの努力が奏功して世界が救われたのか。それは永久に決定されないまま、深騎と菜美、そしてわれわれ読者は壊れてしまった現在の中に取り残される。

大時計は無事だったが、もう時を刻んでいなかった。『クロック城』の死だ。(370ページ)

 そもそも物語冒頭から、世界が終焉の危機に瀕していることは語られている。『クロック城』の物語においては、初めから未来などなかったのだった。しかし城内で事件が起こり、様々な勢力の闘争が起こった結果、正しい時を刻み続けてきたクロック城の時計も完全に停止し、あたかも時計が壊れてしまうように未来のみならず現在も壊れてしまう

 現在とはひたすら移りゆく時間の流れそのものだろう。もし「現在」も「未来」も消滅してしまったら、そんな世界に存在するのは永久に変化しないまま保存された「過去」だけになってしまう。それは云わば化石のようなものであり、ここまで考えると幼い日の深騎と菜美の出会いのシーンが新たな意味を持って立ち上がってくる。

「化石を探しているの」

 菜美は答えた。(中略)

「この公園は、海岸に近い土砂を使っているのよ。だから貝殻の化石がよく見つかるの」(174-175ページ)

  そして、作中において「時間」と相通ずる概念として描かれるのが人間の体内時計を象徴する「眠り」という行為だ。「時間」が壊れてしまったら、「眠り」も壊れてしまう。「壊れた眠り」とはすなわち永眠に他ならない。

 ここで、「スキップマン」を扼殺した深騎の行動を再考する。ゲシュタルトの欠片を自らの手で葬ろうとする行為は、同じくゲシュタルトの欠片となった菜美の記憶と決別しようとする行為であることは容易に想像できる。かつて菜美に対して何もできなかったことへの自省もあるだろう。この時点では、深騎は自らの手で過去と決別し、事件の解決を試みようとしていたのだ。*5

〈スキップマン〉は幼い頃の菜美に似ていた。菜美も昔は髪が長かった。(288ページ)

 しかし、その試みは終盤になって致命的な挫折を迎えてしまう。かつて菜美を失ってしまったように、深騎は失敗を繰り返してしまう。 やはり未来への道は絶たれていたのだ。

 

「おしまいの瞬間、私たちは一緒にいられるのかな」

 冒頭の疑問に回帰する。なぜ、『クロック城』には名探偵が登場しないのか。

 答えは簡単。必要ないから。名探偵にも事件を解決することができないからだ。

 本格ミステリのひとつのテーマとして、「事件の真相が明かされたからと云って、それが望ましい結果につながるのか」という問題があるだろう。「真相の解明」と納得のいくハッピーエンドとしての「事件の解決」は、必ずしも両立するものではない。「真相の解明」がむしろ不幸な事態に直結することもあるし、むしろ真相が秘匿されることによって「事件の解決」が訪れることだってあるだろう。

『クロック城』においては、「真相の解明」はあるが「事件の解決」はない。

  なぜか。個人の力では世界の終焉を阻止することなど到底できないからだ。十一人委員会やSEEMなら、あるいはできるかもしれない。けれどひとりの探偵風情が、たとえその探偵が名探偵と呼ばれるほど優れた人物であったとしても、世界を救うことなどできるはずがないのだ。

 個人は世界の強大な流れに立ち向かうことはできない。『クロック城』ではその無力が繰り返し繰り返し描かれる。深騎はかつて菜美を失ってしまった反省から事件の解決を試みるが、殺人は連鎖し、事態は救いのない結末へと向かっていってしまう。クロック城は破壊され、未来のみならず現在までも失われてしまう。

「僕に救いを期待しないでくれ」(243ページ)

 そうした悲劇的な、救いのない結末の末に深騎は何を見るのか。クロック城に向かった前と後で、彼がなにかを失ったのかと云えばそうではないだろう。彼は抗えない世界を見せつけられただけとも云える。

 絶望に満ちたクライマックスの先、菜美は無力感の中で自暴自棄へ陥った深騎を救うため真相解明を行う。菜美が深騎の記憶や過去を象徴する人物であることを鑑みれば、この真相解明は深騎の精神の内部で起こった出来事として捉えることもできる。

 そして菜美の推理を受け、深騎はみずからの在り方を見出す。そこには一切の救いなどない。未来は当然ありえないし、現在すらもおぼつかない状況だ。これを「解決」と呼ぶのはさすがに無理があるだろう。

 けれど、そんな真っ暗な世界の中、すべての希望が失われたわけではない。そのささやかな、本当に弱々しい光が、この物語を強烈に魅力的なものにしている。

 

 そしてなにより、北山猛邦の物語はここから始まったのだ。

*1:今回はミステリ的な仕掛けにはほとんど触れず、ストーリーやキャラクターに焦点を絞って書いているが、本格ミステリとしても最高に素晴らしい小説であることは付言しておきたい。

*2:『『アリス・ミラー城』殺人事件』や『ダンガンロンパ霧切』シリーズには数多くの「名探偵」が登場するし、『猫柳十一弦』シリーズや『音野順』シリーズは古典的な名探偵像とは別の名探偵像を模索する試みと云える。

*3:正直なところ、この辺りの設定はぼかされているのであまり掘り下げたくないが、同時に深騎の心理に大きな影響を与えている部分でもあるので触れざるをえない。特にデビュー当初の北山先生は特殊設定というものをあまり自覚的に導入していなかった節があり、本書には設定が詳細に描かれない部分がある。

*4:より丁寧に書くなら、戦争の技術が「他者を直接的な暴力によって制圧する」ということから、「的確に目標へ弾を打ち込む」ことに変化した。

*5:もともと深騎が城にやって来たのはスキップマンを退治するよう依頼を受けたからであったが、実際にスキップマンを退治するのは依頼人の瑠華が依頼を取り下げたあとだった

小説/ヴァーチャルプロクター

  
 起立、気を付け。
 おはよう、諸君。私が君たちに講義を行うのはこれが初めてとなる。
 まず私の仕事について説明せねばなるまい。
 必要なのは何をおいてもまず、ヴァーチャルユーチューバーだ。

 ヴァーチャルユーチューバーが世に広まったのは2010年代後半とされている。その起源については諸説あるが、詳しいことは配布資料35頁を参照していただきたい。ここに来た諸君にとっては既知の事柄も多いと思うが……。

 

〈配布資料35頁より〉
「―― ヴァーチャルユーチューバーのブームがどこから始まったか、という議論については専門家の間でも意見が割れる。当然のじゃロリおじさんがバズったところを節目とする見方もあるし、ほとんど時を同じくして輝夜月が流星のごとく現れたことが着火剤になったとする見方もある。
 ※アンドリュー・パーカーが提唱した、いわゆる光スイッチ説。
当然草分け的存在としてキズナアイを上げる向きもあれば、さらにそれ以前からブームの土壌がつくられていたとする意見もある。
 ※「ポン子なくしてキズナアイなし」とするピレンヌテーゼで知られるアンリ・ピレンヌなど。 ――」

 

 こうした不毛な議論はさておき、ヴァーチャルユーチューバーが従来の配信者や映像作品とは異質な立ち位置にあることは理解していただけるだろう。ここで、その立ち位置を模式的にまとめておく。

 

〈板書 図Ⅰより〉


 この概念図を見れば分かるように、ヴァーチャルユーチューバーという存在は製作者側からも視聴者側からも離れた位置にある。そしてさらに、ヴァーチャルユーチューバーを挟んで、製作者側と視聴者側はある意味対等の地位に置かれているということが明らかとなってくるのだ。
 なに? 製作者側と視聴者側が対等とは思えない、と言うのか?
 気持ちは分かるがよく考えてみたまえ。ヴァーチャルユーチューバーとはあくまで人格である。それを形作ったのは製作者側であろう。しかし、製作者側が配信開始後にその人格を改竄することは、少なくともヴァーチャルユーチューバーの設定上不可能だ。無論例外はある。しかし多くの場合そうなっている。
 話を進めよう。
 加えて注目してほしいのは、製作者側の存在が設定上視聴者から秘匿されているケースについてだ。ヴァーチャルユーチューバーという仮想の個人が配信している、という設定上はある程度“舞台裏”の部分を隠さなくてはならない。一方で視聴者側としては表向き隠されている舞台裏部分について承知したうえで動画を見ることになる。
 今後の議論のために、ヴァーチャルユーチューバーの特徴としてこの二点、対等関係と舞台裏の秘匿について覚えておいていただきたい。

 さて、優秀な諸君はそろそろお気づきのことと思う。先ほどの概念図は諸君の知るあるものと酷似しているのだ。

 

 そう。

 大学受験である。

 


〈板書 図Ⅱより〉

 


 これは2020年に当時の当大学学長である万丈カグラが提唱した理論に基づく概念図、いわゆるカグラチャートだ。発表当初、学会はこの理論を牽強付会として一蹴し、万丈は発狂したとまで揶揄された。しかし、この理論が今日、すなわち2030年2月現在における教育システムの中枢を形作ったことは諸君の知る通りである。

 

 さて、先ほど私はヴァーチャルユーチューバーの特徴として二点あげた。対等関係と舞台裏の秘匿である。
 これは大学受験にも当然当てはまる。
 第一に、大学と生徒は入試問題を挟んで対等の位置にある。生徒側が入試問題に介入できないのと同じように、問題を作成する大学側も完成した入試問題に介入することはできない。かつては大学側が作問ミスを犯し、さらには一年間に渡ってその事実を放置するという事態も起こった。大学側はこれについて適切な対応を怠ったが、これは既に出題された入試問題について大学側が無力であることを否認しようとした結果である。
 第二に、大学入試作成の過程や、採点の過程は生徒側には秘匿された状況で行われる。これは、入試実施における公平性の維持には不可欠な過程であり、生徒側にとっても舞台裏の秘匿は重要な意味を持っている。
 加えて、入試とは言わば「大学入学後に生徒が望ましいパフォーマンスをしうるか」という点を仮想された状況においてシミュレートする役割を持つ。

 以上のことから、大学入試とヴァーチャルユーチューバーの親和性については十分理解いただけたかと思う。重要なのはここからだ。
 カグラチャートを考案した万丈カグラは、さらにその理論を発展させ、ついに一つの画期的発明に至る。

 

 その発明とは、大学入試とヴァーチャルユーチューバーを融合させるということ。

 

 仮想入試監督者ヴァーチャルプロクターだ。

 

 AI技術の発達により、2030年現在において専門的知識の重要性は急速に薄れつつあり、読解力や表現力が重要性を増してきたことは言うまでもない。当然ある程度の知識は年数回に渡り行われる、小テストで問われているが、大学入試において特に重要なのはその知識を活用する能力をいかに図るかということだった。
 仮想入試監督者ヴァーチャルプロクターは、それ自体が一つの入試問題である。2020年代以降急速に発達したVR技術により、主要大学はそれぞれに仮想入試監督者を開発し、受験生はヴァーチャル空間において仮想入試監督者が出題する“問”に解答する形で受験を行うようになった。問題への解答は口頭試問から記述まで多岐に渡り、同時に解答中の受験生の脳波を計測することでより正確な採点を可能にした。旧来の教科区分や文理の垣根が崩壊したこともあり、仮想入試監督者のシステムはわが国全体へと広がりつつある。

 

 おっとそろそろ時間が来たようだ。
 では“問”を出題するとしよう。
「学生の学びについて審査する方法として、どういったものが望ましいのか。本講義全体をふまえて100字から120字以内で記せ」
 これで私からの出題は終わりだ。諸君の検討を祈る。

 

 T***大学仮想入試監督者ヴァーチャルプロクター、南方美熊による試験は以上だ。
 気を付け。着席。

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 以上の文章を読んで次の問いに答えなさい。

第一問 私たちが得たものは何か。本文中の言葉を使い60字以内で書きなさい。

第二問 私たちが失ったものは何か。本文中の言葉を使い60字以内で書きなさい。

第三問 ヴァーチャルユーチューバーとは何であるか。本文から5字以内で抜き出せ。


(出典:T***大学2019年度入試問題)

 

 

 

[少女庭国]とはなんだったのか

 

〔少女庭国〕

〔少女庭国〕

 

 

〔少女庭国〕 (ハヤカワ文庫JA)

〔少女庭国〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

 

 

 『[少女庭国]』とは、矢部嵩によって書かれた異形の小説ないし立川野田子女学院卒業試験の記録である。

 ホラーがメインではないのでさしてグロテスクではないものの、それなりにそれなりのエグい描写がカジュアルに出てくるので嫌な方は心した方が良いかと。文体の個性も結構あるので人によっては拒絶反応が起きるかもしれない。

 あらすじは以下の通り。 

 

  卒業式会場の講堂へと続く狭い通路を歩いていた中3の仁科羊歯子は、気づくと暗い部屋に寝ていた。隣に続くドアには、こんな貼り紙が。卒業生各位。下記の通り卒業試験を実施する。

“ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ。時間は無制限とする”

羊歯子がドアを開けると、同じく寝ていた中3女子が目覚める。またたく間に人数は13人に。脱出条件“卒業条件”に対して彼女たちがとった行動は…。扉を開けるたび、中3女子が目覚める。扉を開けるたび、中3女子が無限に増えてゆく。果てることのない少女たちの“長く短い脱出の物語”。 

 

 この本がデスゲームものへのアンチテーゼとして書かれたことや、思考実験としての要素を持つことは下のページなどで既に指摘されているので、今回は特に言及しない。適度に参照されたい。

(2019年6月21日加筆 以下の記述は原則的に初出のJコレクション版に対応し、文庫版において変更がある場合については註にて言及。引用箇所についても同様とする)

 

少女庭国 - ナナメ読みには最適の日々

 

※ざっくりと作品のネタを割ることになりますが、そこまで読後感にアレはないと思うので、未読の好事家の読書ガイドになれば良いと思います。

 

 作品は二部構成。冒頭1/4が「少女庭国」(以下便宜上「本編」とする)で、残りは「少女庭国補遺」(以下「補遺」)となっている。本編はあらすじの通り仁科羊歯子を視点人物としてゲームクリアまでを描き、補遺では新たに62人の視点人物が体験する同じルールの卒業試験が順番に叙述される。

 「n-m=1の達成」。これこそが卒業試験の目的であり、物語の肝だ。念のため書いておくが、「n-m=1の達成」とはつまり、「一度開放された部屋の内部にいる自分以外の生徒すべてを排除する」ことを意味する。*1

 曲がりなりにも真っ当なデスゲームものとして語られていた本編に対し、補遺においてはあらゆるゲーム展開が次々と提示されセルフパロディの様相を呈していく。これがこの本の特異性であり醍醐味でもあるのだけれど、今回はそうした特異な構図によって浮かび上がってくる「少女と現実の邂逅」について話したい。*2

 

[少女庭国](本編)

 

 「デスゲームものへのアンチテーゼ」とかそうしたごちゃごちゃした話の前に、もう少し初歩的な話をしていきたい。

 なぜ、卒業試験の課題が「n-m=1の達成」なのか。

 ここで注目したいのは登場人物が「中3」であること。ご存知の通り、義務教育制度下では中学校まで無試験で上がることができる。そして、中学校卒業後は高校・大学受験や入社・資格試験など、誰もが様々な形でテストされ合否を突きつけられることになる。

 それは同時に「他者を蹴落とす」ことを意味していて、だから「中学校の卒業」とは、誰もが「淘汰の仕組み」を受け入れることとなる通過点だ。

 もうお分かりと思うが、n-m=1」はこの「淘汰の仕組み」そのものであり、「n-m=1」を受容したものだけが中学校を卒業できるのは必然的といって良い。

 

 本編の主人公・仁科羊歯子は成り行きで「n-m=1」を受け入れることになるが、彼女同様自ら望んだ訳でもないのに「n-m=1」と付き合っている人は多い。他人を蹴落とさないとクリアできない、こうした類のゼロサムゲームはデスゲームものの常道だが、[少女庭国]はそれを卒業式という通過儀礼の装置に組み込んでいる。

 言い換えれば、[少女庭国]は「中学校」と「競争社会」の間に位置する分水嶺なのだ。

 

[少女庭国](補遺)

 

 さて。以上のようなことはこの小説の前提条件に過ぎない。補遺に突入すると、物語の構造はちょっと一筋縄ではいかない様相を呈してくる。

 仁科羊歯子個人の物語として書かれていた本編と違い、補遺においては62人の視点人物によって少女庭国の栄枯盛衰が次々と語られていく。時に彼らは庭国の開拓を進め、領域を拡大し、どういう訳かクローズドサークルの内部に新しい文明を築いていく。ここにきて、閉じ込められた生徒たちの目的は「脱出」ではなく「生活」へとねじ曲がっていってしまう。

 奇妙なのは、そうして現実世界での淘汰を受け入れられずに文明を作った生徒たちも、やがて奴隷制や食人のシステムを作り上げて庭国の内部に搾取の仕組みを作り上げてしまう点だ。そうなってしまうと、当然卒業試験は分水嶺としての役割を喪失し有名無実のものと化してしまう。

 

 こうした展開は一見、本編にて作り上げた構図を著者自らが破壊してしまう行為のように見える。

 

 しかし、こうして庭国がもうひとつの現実として拡大していくことも、卒業試験の一部として最初から組み込まれているのではないか。庭国の内部にはその他の部屋と明らかに異なる「無限の石室」が存在する。

 

 地上に出たかと見まがうほど天地四方にどこまでも続く広大な空間(P.147)    *3

 

 初読時にはこれもまた生徒たちの開拓で作られた部屋なのかと思ったが、「天地四方に広がる」という設定を踏まえると人力で作ることが出来るものとは考え難い。上の描写を踏まえると最初から庭国の一部として存在したと考えるのが自然だ。さらに言えば、「無限の石室」は庭国内部での文明発展の場として、試験の主催者たる校長から与えられたものに他ならないだろう。*4

 要するに、試験に参加しようと参加しまいと生徒たちは淘汰の仕組みに飲み込まれてしまう。そして、庭国は最初からこの事実を踏まえたうえで設計されている。

 

 話はここで終わらない。

 少し唐突ではあるが、一度補遺の「性質」について振り返っておきたい。

 補遺は62人*5の生徒によるそれぞれの体験を淡々と羅列していく。そして本編たる仁科羊歯子の物語すら羅列される全体の物語に飲み込まれ、客観化されていってしまう。

 そう、補遺において特徴的なのは客観の視点だ。

 直接的に明かされている訳ではないが、補遺の文章は庭国に住む生徒たちによって書かれた歴史研究そのものだ。彼らは「過去方向の部屋」を発掘して自分たち以外の生徒の試験結果を探索し、研究している。

 

四九番というのもここで便宜的な国分星子のただあったら読みやすいかなと思って付けた読書の目安であり(P.138)*6

 

 例えばこれは章題の番号についての言及。こうしたメタ的な描写は、補遺そのものが生徒たちによって書かれた歴史研究の書であることをさし示している。実際148頁*7などには、補遺の内容がそのまま庭国の文明世界において教科書となっている、と露骨に書かれている。

 なお、補遺では登場人物が試験に合格したのかどうかもロクに描かれない箇所が複数あるが、テキストが庭国内部にいる生徒によって書かれたものと考えれば、脱出につながる描写が欠落しているのも納得がいく。*8

 ここで話は戻ってくる。補遺が生徒たちによる歴史研究である以上、先述した庭国の仕掛け――淘汰の仕組みから逃れられないという仕掛けは、当然生徒たちにも認識されている。されているからこそ、物語は最後に一つの答えに辿り着く。

 

 話が煩雑になってきたのでまとめておきたい。

  • 卒業試験の合格は淘汰の仕組みの受容と同義
  • 庭国が文明に発展すると庭国内部にも淘汰の仕組みが形成される
  • 庭国は以上を踏まえたうえで設計されている
  • 以上のことを生徒たちも認識している

 

  ここに来て、生徒たちは避けることが出来ない「淘汰の仕組み」との対峙を迫られる。システムをいかに克服するのか、それとも現状を受け入れ続けるのか。

 補遺の叙述者である生徒たち、そして『[少女庭国]』の著者である矢部嵩の結論は最後の断章にて二人の少女に委ねられる。その答えがどういったものか、それをわざわざ説明するのも無粋という感じがするのでここには記さない。

 

 ただ一つだけ言えるのは、結局のところこの小説に通底するテーマが「百合」であるということだけだ。*9*10

 

※本記事作成にあたり、てんつく氏の手を借りました。感謝。

 

 

*1:一つの扉を開くと自動的に「開放された部屋の数n=2」となるのでその場合は誰か一人が死んで「m=1」としないと脱出は不可能になる。「n=1」となる状況は存在しないので、いかなる場合も誰かが死なない限り脱出は不可能となる

*2:本当は登場人物の命名の意味合いとかを掘り下げたかったが、諸々考えたところ完全に分からなくなってしまったのでこうなった

*3:文庫P.171 加筆修正なし。

*4:無限の石室が校長から与えられたものでなかったとしても、そもそも「部屋の壁を削って庭国を拡張できる」ことや「ドアさえ破れば過去方向の部屋を探索できる」ように庭国が設計されていることから、やはり生徒による開拓は庭国の設計に組み込まれていることが分かる

*5:文庫版では補遺の小節がひとつ多いため、63人である。なお加筆挿入されたのは「三九 [浮島茉莉子]」(文庫P.149)。

*6:文庫P.159 補遺の小節がひとつ増えたため「四九番」が「五〇番」に修正されている。

*7:文庫P.172

*8:先述リンクでは「全編においてこの最後の二人の少女(ラスト即ち62節──文庫版では63節──に登場)だけが、その『末路』を描かれない」と書かれているがこれは誤解

*9:……と、このときは書いたものの、2019年以降、本書が早川書房の百合SFコマーシャルに利用されるとモヤっとくるのも事実。早川に限らず、こうした"下品"な売り方は今に始まったことではないが、特に百合ジャンルに関しては定義論の難しさやジャンルとしての歴史の浅さゆえ、誤った商業戦略がジャンル全体の寿命を縮めるリスクを考えなくてはいけない……なーんていうことは明白だけど、下品な売り方で喜んでいる勢力が大きいのも事実なので苦しいところ。まぁ何を云いたいのかといえば、「百合かどうかはお前が決めろ」という話であって、そんなことより何より、『[少女庭国]』が傑作であるということが重要だ。

*10:若干この感想文も投げ出し方を失敗してる感があり、なんとなく自分でも思うところがあるので、もしかしたら今後もうちょっとちゃんとした感想文をリライトするかもしれない。もしかしたら。