偽史邪神殿

なんでも書きます

『文学少女対数学少女』を読んでなぜ鳥肌が立ったのか〈感想〉

 

文学少女対数学少女 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
 
「気持ちを証明するにはどうしたらいい?」
「さあね。それには昔からみんな悩んできたんだ」
 ──桐野夏生「独りにしないで」

  

 陸秋槎の推理小説文学少女対数学少女』を読んだ。鳥肌が立った。

 それはなぜなのか。

 以下、感想をつらつらと書いていく。

 まず本書におけるミステリ的技巧について概略した上で、それが具体的にどのような形で実行されているかを確認し、さらには作者が仕掛けたトリックがいかにして炸裂したのか、そしてその意味するところはなんなのかを本文の記述を拾いつつ実践的に観察していく。

 なお、作中のトリック・オチについて触れる箇所があるので、未読の方には基本的におすすめしない。

  また、本書には作者と同姓同名異性の「陸秋槎」が登場するが、区別のため、以下では作者の方を「作者」登場人物の方を「語り手」と呼称する。

 

1. エラリー・クイーン 対 陸秋槎  (EQ問題について)

 まず本書を語る上でぜったいに避けては通れない話題がある。

 犯人当て、そしてフェアプレイの問題だ。

 ここで取り沙汰されるのはいわゆる後期クイーン的問題というやつだが、この単語を出すと時と場合によっては命の危険が生ずる*1

 作者もそのことについてはおそらく自覚的であったはずで、事実として本書では「後期クイーン的問題」という語を正面から直接扱うことを巧妙に回避している*2

 しかしながら、本書を考える上で、この問題から目を背けることもまた不誠実だ。そこで、語を明確にするためここで一度再定義を行いたい。以下では推理小説において真相を推理するのに必要十分な情報が与えられたことが断言できるかどうか」という問題を、仮に「EQ問題」と呼称することにする。

 EQ問題が具体的に表面化するのはたとえばこんなときだ。(※この段落はややこしいので読み飛ばしても良い)。ある事件が発生して、探偵が手がかりを集める。Aという手がかりの集合から合理的に推理を展開した場合、A’という真相が明らかになるとする。しかしここで新たにBという手がかりが発見されたとき、このBがA’と矛盾するB’という真相を導いてしまう危険がある。このことを考え始めると、A’を否定しかねないB1とかB2といった手がかりの「不存在」を証明しないかぎりA’は証明できないということになってしまう。つまりこれは「悪魔の証明」になってしまう。

 A’の完全な証明が、すなわち悪魔の証明となってしまうときにEQ問題は発生する

 現実の犯罪事件でもEQ問題は生じうる。例えば殺人事件が起きたとして、現場から容疑者Xの髪の毛が発見されたとする。Xは被害者に常々恨みを抱いており、事件当時はアリバイがなく、その上現場近くで目撃されていた。さらにXの自宅からは凶器のナイフが発見された。こんなときXは限りなくクロだが、しかし「X=真犯人」を否定する証拠Bが存在しないという証明をすることはできない。

 もっとも、だからといってXを犯人として立件できないことはない。実際の犯罪捜査の現場においては、たとえXが犯人ではないという抽象的な可能性(つまり証拠Bが存在する可能性)があったとしても、Xが犯人であることについて「合理的な疑いを差し挟む余地」がなければ有罪の立証ができるのである。*3

 これは実務におけるEQ問題解決の一手法といえる。だから現実の世界でもEQ問題は生じるが、実際にそれによって困ることはほとんどない。

 

 ではフィクションの世界(特に本格ミステリ)ではどうか。

 まぁこの話を詳しくし始めると長くなるのである程度かっ飛ばすとして、ここで扱うべきは本格ミステリの中でもいわゆる「犯人当て」である。問題編の文章を読んで、さぁ犯人は誰ですか?と読者に当てさせるものだ。これらの作品にはたいてい「読者への挑戦状」が挿入されている。

 結論から云うと、犯人当て小説においてEQ問題は発生しない。なぜか? 作者が明確に答えを設定して書いているのだから、そもそもEQ問題は生じないのである

 ……とか適当なことを云うとクイーン問題と真剣に向き合っている怖い大人たちに絞め殺されてしまう危険性があるが、少なくとも『文学少女対数学少女』がそのような問題意識に立脚して書かれていることは間違いないと思う。

 犯人当てというのは、なぞなぞとかクイズの亜種だ。例えば「パンはパンでも食べられないパンはな〜んだ?」と聞いたとき、その答えがパンダなのかフライパンなのかはさておき「腐ったパン」みたいなつまらない答えはそもそも設問者から期待されていない可能性が高い。回答者に求められているのは「設問者の思い描く解答が出せるか」という点であり、問題に対して論理的に正しい答えを出すこととは必ずしもイコールではない。

 だから犯人当て小説においても作者の期待する答えを出せるかどうかが問題であって、その小説から論理的に導き出せる答えが作者の期待するそれとズレていた場合は、たとえその推理に瑕疵がなかったとしてもあまり好ましいとは云えない。云い換えると、犯人当てに関しては「作者の想定した解答として合理的な疑いを差し挟む余地のない回答」を出すことがゴールであり、そこにEQ問題が生ずる余地は本来ないはずだ。

 以上のような意味で、本書は作中作(犯人当て)を使うことによってEQ問題を回避している。*4

 

 ここで、作者・陸秋槎がこれまでEQ問題とどのように向き合ってきたのかを簡潔に振り返っておきたい。以下、ネタバレはないが、作品テーマに触れているので神経質な方は注意。

 デビュー長編『元年春之祭』においては、二度の「読者への挑戦」が挿入されていた。ただ、率直に云えばこの読者への挑戦は歪なものだったと云わざるをえない。漢代の中国を舞台にしたこの小説において、読者への挑戦で突如として現代人の作者が読者の眼の前に登場し、ミステリーの作劇の苦労を語り出すのはいかにも不自然である*5。本書において読者への挑戦は一定程度の演出上の効果があった一方、作品の虚構性を強調するという好ましくない効果をも齎していた。

 二作目『雪が白いとき、かつそのときに限り』においては物語の結末において、作者と同姓同名の陸秋槎が突如登場し、物語を総括するという構成が取られていた。いちおうこの点については物語的必然性・必要性があったのだが、やはり『元年春』にも見られた作者の介入による「説話っぽさ」「作話っぽさ」を感じずにはいられない。

 さらに三作目『桜草忌』(本邦未訳)において、作者は本格ミステリたることを半ば放棄する。この物語は少女の自殺を発端に進んでいくのだが、物語の中核をなす自殺事件の真相について、非常に強引な真相開示方法が採られている。作者は「ホワイダニットをいかにフェアに演出するか」という点について『元年春』以来、様々な趣向を試みているが、『桜草忌』の解決方法はある意味で本格ミステリの外に解決法を見出すものだといえる。

 そして四作目が本書『文学少女対数学少女』となる。ここにおいて作者は、これまでの作品で課題となっていた「作者の極度の介入によって強引に本格ミステリを成立させる」という点を、メタミステリの構造を持ち込むことによって回避する。

 ポイントは本格ミステリとしてのジャンルを保ちつつフェアプレイについてのEQ問題を回避した点にある。

 なおホワイダニットとフェアプレイの関係については、後述の通り本書の根幹に関わる問題でもある。ひとまず頭の片隅に留めておいて欲しい。

 

2. 犯人当て 対 数学少女 (数学とミステリについて)

 ……という感じで本書で描かれている犯人当てとEQ問題との関係は、数学の知識などいっさい無視してもこのように理解することができる。では本書の中での数学の知識は単なる虚仮威し/ページを埋めるための模様/不必要な論理なのかといえばそんなことはないはずだ

 

 皆さんも幼いころは砂場で遊んだことがあるはずだ。本書は譬えるなら「犯人当て」という砂山に対し、二人の少女が数学の側とミステリの側の両方から掘り込んでいって真ん中で握手するような構造を採っている。

 本書を手に取る読者は「ミステリマニア」的なひとがマジョリティだろうから、ちょっと注意の必要なところではあるが、本書は語り手が数学の知識を知る物語であると同時に、数学マニアがミステリと出会う物語でもある。その点が象徴されているのが「フェルマー最後の事件」だ。

 ここで韓采盧は語り手にフェルマーの最終定理を説明するために、あえて語り手にとって馴染みの深い犯人当て小説を比喩的に使用している。面白いのは、韓采盧が犯人当ての解法として設定された「色覚」のネタが、ミステリマニアである語り手にとってはある種タブー的なトリックであったという点*6

 韓采盧は「大して推理小説を読んでない」(p.123)のだから、彼女がこのトリックを使うことになんの躊躇いもなかったのは当然なのだが、ここで韓采盧と語り手の犯人当てに対する美意識の差が顕著に表れているのが面白い。

 つまるところ「フェルマー最後の事件」の作中作は本格ミステリとしては成立していない。探偵役と読者を同じ条件に置き、同じだけの情報から結論を導けるように作成するのが本格ミステリの基本であるところ、ここではフェルマーと読者はまったく別の方向から事件に切り込むことになる。清涼院流水の『コズミック』の終盤においても、様々な特殊能力を持つ「探偵」たちがそれぞれの能力によってまったく別の道筋から事件の真相に辿り着くという場面があるが、これはもはや本格ミステリの趣向というレベルから乖離しているのだ。*7

 しかしながら、たとえ本格謎解きの観点から「禁じ手」と見えるものであっても、「犯人当て」という記述形態自体は本格のルールから離れて成立しうるものであって、その可能性を追求することにも面白さはあるのではないか。韓采盧は非ミステリ者の立場から犯人当て小説に取り組むことで、その可能性を無邪気に提示してくれる。

 そしてそれは、ミステリ者である語り手、あるいは読者に対して投げかけられた問題提起でもある。このことが後述の内容に深く関わってくるので注意して欲しい。

 

3. 文学少女文学少女 (文学少女について)

 本書を読んだ読者の大部分が感じるであろう疑問について指摘したい。

この語り手は本当に『文学少女』なのか?

 という点だ。

 少なくとも、語り手は天野遠子的な意味での「文学少女」ではない。*8。なんなら文学的な教養に関しては韓采盧の方が上に見える部分もある。*9

 語り手はミステリ小説を愛し、自らも小説を書くことを愉しみとしているが、せいぜい「推理少女」とか「ミステリ少女」というのが正しく、「文学少女」というにはいかにも相応しくない。

 一説には、タイトルに書かれている「文学少女」は語り手ではなく、陳姝琳のことではないかという指摘もある*10。「グランディ級数」の展開を見れば、なるほど、この指摘は一定程度の合理性があると思う。ただ、ここで自分としてはもうひとつの解釈を書いておきたい。

 作者・陸秋槎が評価する日本のミステリ小説の中に、木々高太郎の「文学少女という短編がある*11。以下、この作品について、結末に直接触れることはしないがざっくりとしたあらすじを見ていく。

文学少女」は1936年に発表された作品だ。主人公の少女ミヤが文学に惚れ込み、家父長制の逆風の中で文学を志し、藻掻き苦しむ様を描いた悲劇である。精神科医・大心池(おおころち)が登場する連作のひとつだが、ミステリーというよりも女性の一代記としての側面が強い。

文学少女」にて描かれているのは、文学に対する無理解への嘆きと、自身の言葉が読者へと伝わり評価されることの喜びである。ミヤを取り巻く人間たちは、その大半が彼女の文学熱、創作愛を理解していない。無論、女性の立場が弱かった時代が背景にあるし、そもそも芸術家は常に周囲の無理解と戦わざるを得ない。

 そんな彼女の才能を理解できたのが、医者である大心池と小説家である丸山莠である。大心池はこの作品における「探偵役」に近い存在であり、また丸山は「莠」という名前が表す通り善性と悪性の入り混じるキャラクターとして描かれている*12。このふたりの対照的な「理解者」との関係が物語の鍵を握る。

 この短編の白眉は終盤の怒涛の展開とともに語られる創作論についての激白である。そして『文学少女対数学少女』に引き継がれている問題意識はこの点にあるのではないだろうか。物語の末尾において文学少女・ミヤはこう語る。

文学に懊(なや)んだものは、それを見出してくれた人に、生涯の一番の感謝を捧げる

 これこそ「文学少女」におけるもっとも切実な叫びである。思い出して欲しい。『文学少女対数学少女』における語り手の立場も、程度の差こそあるものの、やはりミヤと重なるのである。「連続体仮説」において犯人当ての瑕疵を指摘された語り手は「私の脳内に存在していた伽藍たちも、こうして音を立てて崩れた」(p.75)というほどのショックを受けている。

 しかしながら韓采盧はただ語り手の創作の瑕疵をあげつらったわけではなかった。韓采盧はミステリの読者ではなく、あくまで数学徒だ。韓采盧にとって「犯人当て」の評価基準は「ミステリとして優れているかどうか」ではない「数学的な示唆が感じられる」かどうかであるはずだ。だからこそ、韓采盧は「連続体仮説」のラストで「君がそう言ったとき、かつそのときに限り」犯人当ての唯一完全な解が成立することを語り手に伝える。

 韓采盧のこの言葉に対する直後の語り手の反応は記述されていない。だが、その後もふたりの関係が続いていることを考えれば、おそらく語り手は韓采盧に励まされたはずである。何より、数学を愛する韓采盧にとって語り手の書く「犯人当て」はそれなりに面白いものであったはずだし、語り手はそうした韓采盧の素直な反応を間近に見ていたのである。

 語り手は、ミヤが大心池に感じたような「生涯の一番の感謝」を韓采盧に抱いたのではないか。

 

4. 文学少女 対 数学少女  (陸秋槎と韓采盧について)

 さて。正直ここまでの話は前座である。あくまで本題の前提に過ぎない。

 本書で一番ヤバい短編はどれかといったら、それは間違いなく「グランディ級数」だ。

「グランディ級数」において語り手が書いた小説は、「明確な単独解を持たない犯人当て」であった。語り手はフェアプレイを徹底することを諦め、「より面白い答えを正答とする」という独自ルールを導入する。ここにおいて、語り手は本格ミステリとしての厳密さを放棄し、自らが行うべき労力をさぼるために気軽な手法を選んだかのように見える。

 しかし、本当にそうなのか?

 この短編においては、語り手が犯人当てを制作している最中の苦悩が描かれている(pp.266-267)。その途中、良いアイデアが思いつきそうになった瞬間に韓采盧からの電話が掛かってくる。この場面に注目したい。語り手は韓采盧が電話をかけてきてくる前の時点で、犯人当ての冒頭のシーンを死体発見の場面にすることや、犯人当てに複数解を設けることを思いついている。しかしこの段階では犯人当ての全貌を思いついたわけではないし、犯人当ては未完成だったはずだ。

 語り手は、韓采盧から電話がかかってきた後に、犯人当てを完成させている。

 この時系列は些末なようでいて非常に重要だ。なぜならば、この事実によって、語り手は韓采盧を犯人当て読書会に連れて行く前提で犯人当てを作成できたのであるから。

 このことから、ひとつの仮説が導ける。

「語り手は、最初から韓采盧の推理した結末を最適解とするつもりだったのではないか?」

 作中作に登場する「山眠荘」の見取り図を見て欲しい(p.245)。

 読者は「ぜったいに」この形に見覚えがあるはずだ。

 そう。「フェルマー最後の事件」の見取り図である(p.103)。

 いやいや。どっちも左右に三室ずつ部屋が並んでいるだけじゃん、と思うかもしれない。だが横に並んだ三部屋ずつの行き来がロジックに組み込まれていること、および、一方の列が三室すべて埋まっているにもかかわらず、もう一方の列は両端が空き部屋となっているという構造の一致を無視することができるだろうか。

 もっとも、ここまでであれば偶然の一致といえるかもしれない。だが「グランディ級数」の現実パートをよく読んで欲しい。喫茶店「小宇宙」における登場人物たちの席順が執拗なほどに正確に記述されていることに気付くはずだ。

 そしてこの席配置もまた、3×2の六人の配置なのである*13。作者は明らかに自覚的にこの配置を行っている。*14

 ここまで執念深く同じ構造を繰り返すのはなぜか。ここでひとつの仮説を提出したい。これらの奇妙な一致は、「山眠荘」の事件が「フェルマー最後の事件」での韓采盧の犯人当てに対するアンサーであることを暗示しているのではないか。さらにいえば、「山眠荘」は「韓采盧のための事件」なのではないか*15

連続体仮説」において韓采盧から作劇の瑕疵を指摘された語り手は、大きなショックを受けていた。しかし、物語が進むに連れて韓采盧と語り手の関係は変化している。先述の通り、語り手は韓采盧に「生涯の一番の感謝」の念すら持っていた節がある。

「グランディ級数」に至り、語り手は韓采盧を探偵役として接待するため」に犯人当てを書いたのではないか。そうだとすれば連続体仮説」と「グランディ級数」では語り手が犯人当てを創作した「理由」が見事に対になるのである。

 本書において韓采盧は李懐朴を犯人として指名する推理を行っている。だがもし別の犯人を指名したとしても、陸秋槎は韓采盧の推理がいちばん「面白かった」として褒め称えるつもりだったのではないか?*16

 この点について、明確な反証はないものの、かといってここに指摘した以上の有力な論証をするのは(少なくとも筆者の読解力では)難しい。だがもし、陸秋槎が冗談めかして語る「後期クイーン百合」というものが「そういう」意味なのだとすれば、この点まで含めて本書が記述されたとみるのは……あながち見当違いでもないかもしれない

フェルマー最後の事件」「不動点定理」においては、作中作の構造と現実の事件とが呼応するようになっていた。「グランディ級数」においても、陳姝琳の「間違った推理」の真意の不確定性がグランディ級数の特徴と重ねられている。だが本当にそれだけなのか。グランディ級数のアイデアはそのように局所的な推理においてのみならず、もっと大きな、作品全体のレベルで仕掛けられたものだと考えることはできないのか。

 韓采盧に対して語り手が犯人当てを出題したことの真意。それによって本書全体が語り手と韓采盧の交流の物語として再解釈される可能性。そこに作者の意図的な「余白」が用意されているように思えてならない

 

5. 読者 対 語り手  (陳姝琳について)

 だが、ここで終わっていればまだ「幸せ」なのである。

 真の問題はここからなのだ。

「グランディ級数」において読書会が無事終了した後、現実世界で本当に殺人事件が発生してしまう。そしてその殺人事件の真相は(いちおう合理的な説明はされるものの)最後まで明かされないまま終わる。

 これがこの物語のもっとも凶悪な点である。

 鍵を握るのは語り手のルームメイトであり、語り手と韓采盧との間で三角関係を担うことになる陳姝琳だ。

 まず前提として陳姝琳は語り手と韓采盧の仲が深まることについて、嫉妬に近い感情を有している。陳姝琳は語り手の親友であり、また唯一の理解者でありたいと願っているように見える。

「グランディ級数」の結末において、陳姝琳は語り手だけを警察の取調から解放させるためにあえて「間違った推理」を展開した(と語り手は解釈している)。これによって恋敵である韓采盧は蚊帳の外に追いやられ、思いがけず画面の端から登場した第三の女が勝利して終わる……ように見える

 だが本当にそれだけなのか。

 ここで問題となるのは、本書が語り手による一人称小説であるということだ。そしてまた、語り手と作者は同姓同名である擦れっ枯らしのマニアである作者がこの点について、なんの問題意識も持たなかったとは思えない

 ひとつの疑問がある。

 この「語り手」は「信頼できる」のか?

 

 p.258を見て欲しい。陳姝琳が大学に合格した後も予備校で英語の勉強をしている、という説明の場面である。陳姝琳の英語力について、語り手は「外国語学校の生徒に負けないレベルだったはずで、予備校になんか行かなくてもかまわないように思える」と述べている。

 p.304を見て欲しい。陳姝琳の服装を説明する場面である。「とても授業を受けに行ったようには見えず、パーティに参加するというほうがうなずけた」とある。

 そしてこの後、陳姝琳は驚くべきスピードで事件の全貌を理解し、(間違っているとはいえ)推理を展開し始める。事件発生当時その場にいた韓采盧や語り手よりも、早く

 これらの点を見れば分かる通り、陳姝琳の挙動は明らかに「不審」である。というより、これが通常のミステリー小説であれば「最有力容疑者」であるといって良い*17

 作中において陳姝琳が容疑者とされていないのは、予備校でのアリバイがあるから(p.305)だが、これについて警察は特段の裏付け調査をしていない。また、そもそも陳姝琳が口でそう云っているだけで、そこにトリックの入り込む余地があるかどうかすら読者には明示されていない。

 注意して欲しいのは、ここで「陳姝琳が真犯人だ!」と指摘しようとしているのではないということだ。*18

 あくまで、その疑いがあるだけで十分なのである。

 先述の通り陳姝琳には何点か不審なところがある。

 そして語り手である陸秋槎は、語り手だからこそこれらの不審点を知覚していたはずであり、陳姝琳が真犯人である可能性についても思考の片隅に浮かんでいたはずなのである。しかし、本文中では陳姝琳=真犯人の仮説がいっさい触れられていない。検討すらされていない。

深追いしないほうがいいことというのはある」(p.316)

 語り手は陳姝琳=真犯人とする仮説について、言及することすら、検討することすら避けている

 友人を疑ってしまうことそれ自体を恐れているのかもしれない。それによって友情が壊れてしまうかもしれないから。あるいは、もし陳姝琳が狂気の殺人者だった場合、真相に気付いた語り手を口封じする可能性を恐れているのかもしれない。「フェルマー最後の事件」における神の存在証明同様に、真偽を抜きにして「検討すべきではないから検討しない」という命題はあり得るのだ。

 無論、陳姝琳犯人説ならびに語り手の真意については、どちらも憶測の域を出ない。「どちらも正しい」、「どちらも正しくない」、あるいは「どちらか一方だけ正しい」……あらゆる可能性が想定できる。

 だが、ここで改めて、先ほどの言葉を繰り返そう。

「後期クイーン百合」というものがもし「そういう」意味なのだとすれば、この点まで含めて本書が記述されたとみるのは……あながち見当違いではないかもしれない。

 

 本書の巧妙な点は、これらの想像の余白を残しておきながら、見せかけのオチ(陳姝琳が嘘の推理によって語り手だけを連れ出したこと)によって余白の存在自体を隠蔽している点にある。

 読者は信頼できない語りのせいで、どこまでが信ずるべき記述で、どこまでが作中人物の真意なのかを測れなくなっているにもかかわらず、表面的には信頼できない語りの存在自体が隠蔽されているがゆえに、命題の存在にすら気づかないおそれがあるのだ。一見、作中作たる犯人当てにのみ生じていたかに見えるEQ問題が、その一個上の次元である作中現実のレベルでも成立し、さらに作者と読者の間にも発生している。ここにおいて読者=本書の謎を読解すべき探偵役は、一度作中作において(「連続体仮説」におけるロジックにおいて)無力化されたはずのEQ問題と再度向き合うことになってしまう

 このレベルまで掘り下げることによって、本書ははじめて真の牙を剥く

 

 ここまで考えると、語り手-韓采盧-陳姝琳の三角関係にも新たな意味が見えてくる。「連続体仮説」において語り手と韓采盧を引き合わせるきっかけを作ったのは陳姝琳だった。しかしそれゆえに彼女は、語り手の作った犯人当ての唯一の査読者としての特権的地位を失ってしまう。そしていつしか語り手は「犯人当て」を韓采盧のために創作するまでになる。「グランディ級数」における犯人当て読書会の場には陳姝琳が排除されていた

 なんたる皮肉だろうか。

 

 語り手から韓采盧に向けた「犯人当て」に込められた真意。

 そして、語り手から陳姝琳に向けた語られざる疑念。

 この二点について、本書は仄めかしをしつつ決定的な描写をせずに終わる。

 単に読者の「想像」に委ねられているだけではない。

 読者に求められているのは「推理」なのだ。

 この構造こそ、陸秋槎が作り出した究極のホワイダニットである。

 

 もし、この感想文で語った以外の手がかりがあるのならばぜひ教えて欲しい。

 かくいう筆者も、陸秋槎の仕掛けた迷宮の中に囚われたままなのだ。

 存在しないアリアドネの糸をずっと探しながら。

 

*1:具体的には淫祠邪教の烙印を押され、口から大量の水を流し込まされて火炙りにされる危険がある

*2:本文中ではクイーンは言及されど後期クイーン的問題は言及されていない。

*3:最判平成19年10月16日。参考

*4:もっとも、犯人当てにおいては別の問題が生じる。「作者がどこまで考えて作問しているのかわからない」という点だ。それこそ、小学生が作った問題と大学教授が作った問題とではその出来に違いがある。大学教授の作った問題にはちゃんとした正解筋が存在しそうだが、小学生の作った問題はそれ自体が破綻しているかもしれない。犯人当てにおいては作者が大学教授なのか小学生なのか、すなわち作者がどの程度の技量を持っているのかによって答えが変わってくる。このあたりは本書の問題意識とも重なるのだが、いずれにせよ犯人当てではEQ問題が生じない代わりに別の問題が生じている。

*5:同様の趣旨の指摘は他所でもなされている。

*6:別に色覚異常をミステリに使うことがタブーなわけではないが、いかんせん古臭い手法なのでこれが出てくると馴れたミステリ読者はちょっと背筋がゾクッとする。

*7:それはそれとして、二種類の合理的な推理から同じ結論に至るということ自体はあり得る。ここで問題となっているのは、探偵役が説明不能な推理方法を採っているにもかかわらず読者に合理的なロジックを求めることのフェアネスである。

*8:あるいは腐川冬子的な意味での文学少女でもない

*9:p.182 韓采盧は平然と『ジェーン・エア』をジョークに含ませているが、語り手はいかにも自信なさげだ。

*10:https://miniwiz07.hatenablog.com/entry/2020/12/25/065943

*11:https://twitter.com/luqiucha/status/605321565530554368?s=20

*12:莠 | 漢字一字 | 漢字ペディア

*13:ちなみに、席の配置は東南の角に座る陸の列が、順に陸、韓、凌。陸の対面に座る梁の列が、順に梁、段、袁

*14:注意すべきはこの配置を意図して行っているのが作者であるということ。語り手・陸秋槎は山眠荘が韓采盧の作った犯人当て見取り図と類似していることに気付いていない可能性もあるし、別に気付いていなかったとしても関係ない。大切なのは、作者・陸秋槎が意図的にこの構造を作出しているというという点である

*15:三門優祐氏のレオ・ブルース『ビーフ巡査部長のための事件』巻末解説を意識した表現です

*16:タイトルは挙げないが、実際に日本の本格ミステリ作品の中で、ある特定の人物の推理を正答とするために犯人当ての構造を捻じ曲げてしまうという話は存在する。

*17:ついでに云えば、喫茶店小宇宙は一見の客が簡単には来れないような場所にあるにもかかわらず、陳姝琳が迷ったかどうかが明言されていない点もトリッキーだと思う。陳姝琳がタクシーで現場に赴いたという点にも何か作為が感じられる。

*18:たとえば、陳姝琳には動機がない。ただし本文に書かれていないだけで、殺人の動機はいついかなるときも生じうる