どうやら世間では中国の現代小説というのがひそかなブームになってるらしい。華文ミステリというジャンルもここ数年やたらもてはやされるようになったし、『三体』もようやく和訳されて中国現代小説の面白さというのがいよいよ浸透しつつあるのかな、と思う。
でもそうはいっても華文ミステリの日本への紹介はあまり進んでいない。作家単位でちゃんと訳される動きがあるのは香港出身の陳浩基とか日本在住の陸秋槎くらいなもので、バリバリに本土で活動している作家は島田荘司チルドレン数名くらいしかまともに訳されていない。ちょいちょい訳されるとしても一作家一冊くらいが限度だ。
きっと日本の本格ミステリジャンキーたちはこう思ってるはずだ。「もっと華文ミステリ寄越せよ!!」。そういうあなたのために、本記事は書かれた。
読めばいいじゃん。原書で。
しかしいきなり中国語の本を原書で読むというのは、なかなか心理的ハードルもあるし、どうしたら良いのかわからないとこだと思う。そこで、今回は華文ミステリを原書で読むハードルをひとつひとつ突破する方法を書いていく。これを読めばあなたも「だましだまし」で華文ミステリが読めるようになる!
もちろんミステリに限らず、他の中国現代小説を読む上でも応用できる話だけど、いちおう焦点はミステリに絞っておく。
あと注意点として、この記事を書いている筆者も、べつに大して中国語の本を読んでいるわけではない。半年前に原書を読み始めて以来、丸々読んだのは三冊だけだし、あとはせいぜいネットで中国語のサイトを巡回してるくらいしか中国語に触れてない。
なので中国語玄人のひとには本当に申し訳ないけど、これはあくまで初心者による初心者へのアドバイスということで。
①語学力
なんといってもこれ。
中国語をすでに習ったことがあるひとはこの項目を読む必要はない。さっさと原書に手を伸ばしてほしい。
中国語を習ったことはないひとも焦ることはない。なんせ中国語というのは、日本人にとって非常に学びやすい言語だからだ。文法は英語に類似しているし、漢字はもはやお馴染み。簡体字さえ憶えてしまえば、見たことのない単語であってもだいたい意味が類推できる。これほど楽なものはない。
唯一にして最大の難所はピンイン(発音)だが、読書に関してはこれを無視できる。もちろんウォアイニーくらいはわかってたほうがイメージとしても良いのだけど、無理して憶える必要はない。
初学者が中国語の本を読むためには、とりあえず文法書と単語帳を一冊ずつ用意すればこと足りる。巻末に発音CDがついてる分厚い本を買う必要はない。
なお筆者は一年弱中国語を習っていたが、テストでは毎回カスみたいな点数を取っていたし、発音に関してはほとんど雰囲気で乗り切ってるだけでロクに憶えていない。それでも、文法と最低限の基礎単語さえ把握していれば本は読める。本を読む上で言語力のさらなる向上も期待できるから、実は語学力はあまり問題にならないのだ。
華文ミステリを読むうえで語学力の心配がいらない理由がもう一つあるのだけど、それは後で説明する。
②本を入手する
意外にも面倒なのがこっち。本の入手法。
ベストの選択肢は、実際に中国本土へ渡航して現地の本屋で買うことである。
何をバカな、と思うかもしれないけど、真実だから仕方ない。中国のペーパーバックはだいたい日本の文庫本と同じかちょっと安いくらいの値段だ。ただしそれは現地の書店での話であって、日本の書店で中国語の輸入書を買うとなると2000円とか3000円とかふっかけられることになる。筆者も神保町の東方書店や内山書店にはよくお世話になってるけれど、この値段の高さだけはなかなか厳しい。
それに、輸入本は種類が少ない。日本人作家の中文訳とかはやたら揃えてあるわりに、中国人作家の作品はよほどの売れ線以外は置いてないというのが通常である。あたりまえといえばそう。
しかしだからといって中国の書店に日々通うというのも現実的じゃない。中国に友達でも住んでいれば良いのだが、そう都合良くもいかない。中国からの通販を依頼するという手もないわけではないが、やはり割高だし、しかもいつ届くか信用できないという問題もある。
そこで役に立つのが、電子書籍だ。
中国語の書籍はkindleみたいなサイトにはあまり出回っていない。代わりに何を使うかというと、豆瓣(douban)というサービスを使う。
豆瓣はかんたんに説明すると「kindle+読書メーター」みたいなサービスで、中国の電子書籍業界においては覇権を握っているアプリだ。日本からでもアプリストアからかんたんに入手できる。iOS版はこれ。しかも中国のめぼしい現代小説はたいていこれで手に入る。
何よりうれしいのが値段。中国語の本が現地で安価なのは先述の通りだが、電子書籍はさらに安い。セールが組み合わさると一冊180円くらいはザラにある。これは中国語の本が基本的に日本の本よりちょっと薄いのと、編集がわりとざっくりしてるのと、まぁいろいろ理由はあるのだけど、とにかく安い。
買うときもアプリ内課金でかんたんに購入できるのでレートを気にする必要もない。少なくともAppleが中国アプリを規制するまではこの調子で使えるはず。レスト・イン・ピースTikTok。
ちなみに豆瓣ではkindleについているような機能はだいたい使える。メモ機能や辞書機能はあるし栞も使える。欠点は本文検索機能がないことくらい。
あとひとつ困ったことに、電子版だと元の本に載っていた図面が省略されていることがある。館の見取り図とか。館ものや密室ものじゃなければ何の問題もないけど、トリックの図解があったりすることもあるので、これは要注意ポイントというか、覚悟して買わなくてはいけない。200円足らずで買えるのだし、よく本文を読めば図がなくてもなんとかなるので、ここらへんで妥協しなくてはいけないのかもしれない。
③華文ミステリを読むうえでの注意点
さて、では実際に華文ミステリを読む段階で注意すべきことはなんなのか。
ふつう馴れない言語の本を読むときに使われるテクニックとして、「わからない部分は飛ばす」という手法があると思う。いちいち辞書なんて引いていたらいくら時間があっても足りないし、物語の大筋を捉えるためにも飛ばし読みはある程度有効だ。
でもミステリについてはこれはあまりオススメできない。特に本格ミステリだと一文の描写が物語上重要になってくることなんてよくあるし、細かい論理は拾い読みだと理解しきれない。できる限り丁寧に読まないと意味がない。
じゃあ華文ミステリを原書で読むのは難しいってこと……?と思うかもしれないが、そういうわけでもない。
なぜなら華文ミステリは日本の推理小説の「お約束」に強く縛られているからだ。
中国語圏では東野圭吾、宮部みゆきのようなベストセラー作家や、綾辻行人、島田荘司のような本格謎解き作家が非常によく読まれている。したがって華文ミステリの多くもそれらの作品の強い影響下にあり、展開が日本のミステリと酷似したものになりやすいという性質がある。
特に本格ミステリではある種の様式美といっても良いようなお約束展開がいくつもある。たとえば「探偵役がワトスン役の誤推理を一刀両断する」とか「脇役のなにげない一言から真実が明らかになる」とか。華文ミステリにはそういうお約束展開が沢山出てくる。
だから、日本のミステリ読者にとっては非常にわかりやすい。作者の意図を読み取りやすいのだ。「館」とか「密室」が出てくるような、いわゆる「本格推理」ものほどこういう傾向は強く、だからこそ華文ミステリは日本人にとって非常に読みやすい内容だといえる。
他に華文ミステリを読むうえでの注意点としては、特殊な語彙とかだろうか。「绑匪(誘拐犯)」とか「阿里比(アリバイ)」とか「约翰·迪克森·克尔(ジョン・ディクスン・カー)」とか、ミステリ以外ではめったに見ないような語彙が登場する。そのあたりに不安があれば、日本のミステリ作家が書いて中文に訳された本とかを練習がてら読むと良いかもしれない。和ミステリの中文訳はやたらと充実しているので、中国語初学者には格好の教材になる。日本に限らず世界の短編ミステリを集めてきた傑作集とかも売ってるのでオススメです。
④で、何を読むか?
せっかくなんだから日本で紹介されていない作家を読みたいところだ。
どうやら華文ミステリの中には翻訳権ごと中国の出版社が掌握しているものがいくつかあって、そのあたりは日本で紹介される予定がまるで立っていないらしい。まぁ陳浩基とか陸秋槎とかはほっといてもいつか訳されるだろうから良いとして、やはり日本にぜんぜん紹介されていない作家を読んで「通」ぶりたいところ。
そんなあなたに良質な情報をくれるのが阿井幸作さんのブログだ。華文ミステリの有名所を網羅的に紹介していて、おそらく日本語で読めるもっとも詳細な華文ミステリ紹介記事だと思う。ちなみに阿井幸作さんは翻訳ミステリー大賞シンジケートでも毎月華文ミステリ事情を紹介する連載を持っていて、こちらもヘッズ必見の内容になっている。
そのほかにも、先ほどの豆瓣に書き込まれた感想コメントを辿っていくという方法もある。豆瓣は読書メーター的機能もあるので、中国のミステリオタクたちが何をどう面白がっているのかを読むことができる。中文版の青崎有吾作品を読んでるオタクがどういう華文ミステリを普段読んでるのかとか、そういうふうに調べていくと学びがある。
あとこれはミステリの話じゃないけれど、中国のSF界隈とかになるとネットで連載している雑誌があったりして、業界の先端を行く作家たちの作品が無料で読めたりする。興味があれば調べてみると良いかもしれない。
などなど。とっかかりは色々ある。とりあえず筆者はここで紹介されている本格ミステリをぼちぼち読んでいこうと思ってる。
ちなみに個人的にオススメの華文ミステリは『凛冬之棺』。次から次へと密室が登場して、それぞれに驚愕のトリックが仕掛けられているというザ・本格推理という感じの一冊だ。国内本格好きだったらかなり高い確率で盛り上がれる内容なので、ぜひ読んで欲しい。
……いかがでしたでしょうか(呪言)
華文ミステリは日本に比べるとまだ歴史も浅く、エンタメとして成熟しきっていないような作品もある。それは事実だ。しかし一方で華文ミステリを読んでいると、日本の国内本格とはまったく違う方向へとその芽を伸ばしていっているような気配も感じられる。ジャンル黎明期のフレッシュなパワーを直接肌で感じたければ、原書で読むのがうってつけだ。
既訳の華文ミステリに満足できないあなた。国内本格には毒が足りないと感じているあなた。そしてなんでもいいからとにかくヤバい本格ミステリ寄越せ!と思ってるそこのおまえ!
だましだましでいいから、華文ミステリ読んでみませんか。