偽史邪神殿

なんでも書きます

小説/テキサス・タイプライター

 

 バチバチバチバチバチバチ
 カシャッ。
 バチバチバチバチバチバチ
 カシャッ。

 その頃の名残は、一葉のセピアの写真と、そして無数の赤茶けた紙片から見て取れる。


Type A, Please

 テキサスタイプライターと正式に呼ばれる道具は存在しないのだが、テリー・ハートフィールドと彼の用いたタイプライターはたしかに実在したし、彼がそれをテキサスタイプライターと呼んでいたことも事実である。彼の残した物語を信じるならば、事実といえるという意味なのだが。
 文献の信憑性について至らぬことを考えてみる。それはあるいは疑いだせばきりのないことであって、ゼリーの上でダンスするくらい見た目には不安な動きだ。でも、こんなことを云ってしまうとこの文章を読んでいるあなたにもいらぬ疑心を求めてしまうかもしれないし、本当はこんなことを書くべきではないのかも。
 だがテリー・ハートフィールドならばおそらくこんな弱気なことは書かないに違いない。彼は自分の文章を信じていたし、それを読む誰かの視線など恐れていなかった。だからテリーに敬意を表して彼の記述を信じようと思う。

Type B

 テリー・ハートフィールドという名前にはおそらく聞き覚えがないと思うが、これでも彼は一斉を風靡した作家だった。とても多作でセールスのチャートには毎年のように名を連ねていた。最近では似た名前の別の作家が有名になったこともあって、彼の名前はほとんど聞かないし書店でも見ない。テリー・ハートフィールドは多くの作家の例に漏れず自分と同世代の読者のために本を書いていたのであって、見たこともない電子機器を操る未来人どもの相手をする気なんてさらさらなかったに違いない。
 テリー・ハートフィールドは非常に多作だった、というのは先程書いた。彼は二週間に一冊の長編小説をものした。ストーリーを考えるのに三日。キャラクターを考えるのに三日。そしてやる気を出すのに一日挟んで、あとは六日で書き上げた。残りの一日は出版社に原稿を送るための予備日である。ハートフィールドは慎重な男でもあった。
 テリー・ハートフィールドは多作だった、ということは分かってくれたと思う。これはつまり小説家にとって天下無敵であることを意味している。しかしながら、テリーにはひとつだけ弱点があった。
 彼はタイプライターを打てなかったのである。

Type C

 タイプライターには二度驚かされる。一度目はその大きさ。両の掌に収まるサイズに縮められた機械工学の叡智。その精巧な大きさに驚かされる。
 二度目は音。そのけたたましい音に驚かされる。小さな子どもほど声が大きいのとよく似ている。いくつもタイピストを並べて合唱させたならば、それはもう耳が割れんばかりだ。
 タイプを早くやるのは難しく、それなりに根気のいる作業だ。打ち損じるわけにもいかないし(直すのは打つのの何倍もめんどうだ)、キーはそれなりに重いからずっとやっていると両手が攣ってきてしまう。
 めんどうな作業なので、当然それを仕事にする者たちがいる。馴れればそこそこ楽だという説もあるが、本当だろうか。

Type D

 ハートフィールドはタイプができなかった。正確に書けばできないこともなかったが、彼のおそるべき執筆スピードにはとうてい追いつかなかった。
 そのため、彼はタイピストを雇わざるをえなかった。口述筆記というものだ。彼が物語の筋を喋り、それをタイピストがライターに乱打する。
 さてここで、先述のスケジュールを振り返ってみよう。ストーリーを考えるのに三日。キャラクターを考えるのに三日。そしてやる気を出すのに一日挟んで、あとは六日で書き上げる。残りの一日は出版社に原稿を送るための予備日。
 長編を書くのにテリーが使う日数は実質六日間。この間、彼は夜通し喋り倒し、タイピストがぶっ倒れるまでタイプをさせる。
 休めばいいじゃない。ある記者はかつてテリーにそう云ったが、テリーはこう答えたという。
「六日間。それは僕が作中人物に感情移入していられる限度なんだ」
 この答えは若干、的を外しているといえた。なぜならばテリーの問題は感情ではなく身体にその本質があったためだ。
 テリー・ハートフィールドは三十三歳にして口述筆記中に卒倒し緊急搬送された。医師の診断は睡眠不足だった。このときハートフィールドのキャリアは十年目であり、ついでに云えば掛りつけ医師のキャリアは三十年だった。
 テリーが倒れるまでに腱鞘炎を起こして辞職したタイピストは五十人だった。

Type E

 マギンティ刑事シリーズはテリー・ハートフィールドの代表作だ。マギンティ刑事(このチャーミングな名前は彼の妻が考えた)は無頼派だがユーモラスな男で、どんな困難な状況も頓智とトンカチで切り抜ける。トンカチを持っているのは彼が大工の家に生まれたからであり、これがテリー作品ならではの聖書的モチーフであることは今更説明するまでもないだろう。
 マギンティ刑事シリーズ第三シーズンの十五巻(あまりに巻数が多いので通しナンバーで呼ばれることはほとんどない)、『マギンティと不機嫌な嘱託殺人者』にはこんな一節がある。

『「おい、マギンティ」アルフレッドは云った。かれの眼は嘱託殺人に失敗した死に損ないのように冷たい、というのがマギンティの第一印象であり、実際これは当たっていた。「おれの邪魔をしたということが、どういうことかわかってるよな」
「邪魔?」マギンティは不敵に笑った。「すまねえな。母親には人の家の食卓にあがりこんじゃ失礼だとは習ったんだがな。あいにく嘱託殺人中にあがりこむなとは習わなかったでね」』

 原文では「食卓(Dining)」と「嘱託殺人中(Dying)」で押韻している箇所である。
 マギンティ刑事はどんなときもユーモアを忘れぬイカした男だったが、テリーはどこか物憂げな芸術家肌のベジタリアンだった。

Type F

 過労で倒れたテリーは強制的な療養生活に突入した。彼の妻子と編集エージェントはテリーを病室に監禁し、鉛筆や紙といったものをすべて没収した。いざとなればテリーは自分の血で小説を書き始めることもできたわけだが、それをしなかったのは彼が他の物事に気を取られていたからに過ぎない。
 それはまだ見ぬ彼にとっての相棒。彼の執筆を手伝ってくれる相棒だった。
 マギンティ刑事シリーズにはナッシュという相棒の刑事が登場する。彼は第五シーズン十八巻で立て籠もり強盗に射殺されるまで、マギンティの公私での親友として活躍した。彼が射殺されたのは、ドラマ版でナッシュを演じた俳優が薬物問題で降板をしたからである。
 テリーはその後、ローグという名前のキャラクターを新たに登場させてマギンティの相棒にあてがったが、このローグという青年は少々完璧すぎてマギンティとはあまり仲良くできないようだった。マギンティは教師と仲良くなれない身勝手な問題児タイプだったから。
 それはテリー自身も同じだった。

Type G

 療養三日目。テリーはテレビを見ることを許可された。キャリア三十年の医師としてはテリーをできる限り外界から遠ざけておきたかったが、テレビというのはいわば最大限の譲歩だった。その当夜、マギンティシリーズのドラマ第八シーズン二十五話が放映されていたのは想定外だった。
 この回の原作は『マギンティのシカゴ旅行』という本である。スポンサーにはシカゴの旅行社がいたことは云うまでもない。テリーはなんの気もなしにテレビ画面を眺めていた。

『おい! 待ちやがれ、マギンティ。てめえのバッジも北部じゃ通用しねえぜ』(目出し帽を被った男が人質に銃をつきつける)
『それはどうかな』(ここで無言で人質犯を射殺するマギンティ役の役者の顔が大写しになる)

 なお、このシーンの原作での描写は次のようであった。

『「おい! 待った方がいいんじゃねえか、マギンティ。人殺しにはなりたくねえだろ」
 男の手にある拳銃が娘のウエストに食い込んだ。マギンティは片眉を上げる。
「おれが殺しをやったことがないと思うか? おれはどんなときも上手くやってきた(原文ではI always go great guns, men.)」』

 テリーは些細な原作との違いなど意に介さなかったが、一点に興味を惹かれた。それはテレビの中の人質犯が手にしている銃であり、それはテリーが書いたような拳銃ではなくトミーガンだった。
 その出会いは銃で撃たれたように鮮烈だった。

Type H

 トミーガン、つまりトンプソンサブマシンガンはある時期まで非常に一般的な銃であったし、今でも昔の映画の中で沢山見ることができる。その迫力ある造形と機能美に魅了されたギャングも多いはずだ。
 トミーガンは連射性能に優れ、その特徴的な銃声からある愛称で呼ばれた。
 シカゴ・タイプライター。

Type I

 それはシカゴ・タイプライターにとても良く似た外見をしている。シャープな銃身も、スマートなグリップも。
 でもそれは銃ではなくタイプライターだ。
 銃の内部には弾の代わりに玉が込められていて、銃口を上下させればこの玉が内部でゆらゆらと揺れる。引き金を引くと弾倉からは薬莢ではなく紙片が飛び出す。紙片には発砲時の玉の位置によってさまざまな穴が開く。
 連射をしてみる。するとトイレットペーパーのように細長い一連の紙が銃身から溢れだす。そこには無数の穴が開けれれている。銃を傾け、撃つ方向を少しずつ微調整していく。するとまた何種類もの穴が紙にえんえんと開けられていく。穴あけの残骸である極小の丸い紙片もついでに空中に舞い散る。
 穴の種類をそれぞれアルファベットにあてがう。そうすれば一連の紙は突如、アルファベットの文字列に変わる。そこには文章が生まれる。
 サブマシンガンの連射速で繰り出される多量の文字列。それを可能にするのがこの道具だった。

Type J

「こんなものを作って何になる?」
 いいからいいから、とテリー・ハートフィールドは云った。
 退院したテリーは真っ先に知り合いのエンジニアに会いに行った。マギンティシリーズのテレビ撮影で小道具を作っている男で、ドラマに出てくる改造モデルガンを用意しているのもこの男だった。
 マシンガンのように早いタイプライター。テリーがほんとうに欲しいものはこれだった。そうこうしている間にもテリーの脳内には無限の言葉と物語が湧き出ていた。
「金なら用意できる。だから作ってくれよ」
「できないことはないが……、そんなもの作っても使いづらそうじゃないか」
 それがどうした?という顔をテリーはした。彼が求めていたのは速さであって可用性ではなかった。

Type K

 完成したその銃を、テリーは愛しげに触った。手に取り、構え、撃った。
「片手で持てるな。もう一挺あれば両手で使えるのに」
 エンジニアの仕事が増えた。
 テリーはその日から再び仕事に取り掛かった。

Type L

 作家がほんとうに書きたいことがなんだったのかを推し量るのは難しい。それはきっと作家自身にもわからないに違いないし、そもそもそんなものがあるのかわからない。岸辺から見える金字塔の蜃気楼と同じで、信じようと思えば信じられるがチンチロと同じで芽(目)が出るまでわからないのが創作のT字路というものだ。
 彼がマギンティ刑事を愛していたかというとたぶん愛していたし、その愛は母親が子にかける愛と割と近しいものであった。つまりちょっと過保護ちっくの愛だったということである。だが彼にとって自分の書いた小説は子供であってもファムファタルではなかった。
 キャリア三十一年目に差し掛かった医者はキャリア十一年目に差し掛かったテリー・ハートフィールドにこう云った。
「引きこもって本なんて書いてないで、外に出たらいいじゃないか。旅に出るのがいいだろう」
 テリーはこの発言を誤解した。医師の「ないで」という言葉は「引きこもって本なんて書く」という部分に掛かっていたが、テリーは「引きこもって」の部分のみに対応しているものと誤読した。
 良い作家が良い読者であるとは限らないことと同じくらいの蓋然性で、患者というものは医者の発言を誤解するものだ。

Type M

 テリーは大地を踏みしめた。両手には銃。撃ち出すのは言葉の弾。彼はけたたましい音を立てながらトリガーを引き続け、四方に銃口を向けながら歩いた。文字は際限なく紡がれた。
 たぶんきっと彼には迷いがあったのだと思う。彼の人生はご存知の通り物語そのものだったし、彼の頭はいくらでも言葉を生み出し続けた。彼は神速のタイプライターでそれを文字にし、右手ではドラマを、左手ではジョークを綴り続けた。でもそれで良いのかという思いはずっとあった。ほんとうにそれは自分がやりたいことなのかどうかはもうわからなかった。それは彼らしくもない弱気だった。
 彼はテキサスの実家から歩みだし、幹線道路沿いを歩み、草原を越え、やがて渓谷まで来た。その間に彼は三冊の長編小説と十五の短編をものした。
 渓谷の崖淵に立ち、彼は足を止めた。そこから先にもはや道はなく、わずかに足を滑らせれば赤茶けた石がぼろぼろと崖からはるか下の大地へと吸い込まれるのが見えた。足がすくんだ。このとき彼は自分の両の腕が震えているのを感じた。その震えは銃把に伝わり、銃の中の玉に伝わり、そして打ち出される文字へと伝わった。それは彼のそれまでの著作の中でもっとも真実らしい言葉だったかというと決してそんなこともなかったし、優れた文章表現があったかというとそんなこともなかったし、個性的でも普遍的でも高踏的でも良識的でもなかったが、でも彼にとっては小説の女神と目があった瞬間だった。

Type N

 彼はそれをテキサス・タイプライターと名付けた。

Type O

 彼は二挺のテキサス・タイプライターを手に世界を巡った。時には戦場で、本物の銃声の中で言葉を綴った。あるいは滝壺に落ちるまでに水がすべて蒸発してしまうほど高い滝の頂上からそれを連射した。遠い国で彼そっくりの小説家と面会したときもそのグリップから手を離さなかった。
 彼が書いていたのはリアル志向の社会派小説でも私小説でもエッセイでもない。ずっとずっと小説であり、どこまで行っても小説であり、形はどうあれ小説だった。ある種の真実は嘘の物語によってしか著述できない。高速の著述はフレーム単位で彼の内心の思考を切り取り続け、それによって彼は限りなく真実に近いトーンで法螺を吹き続けた。
 戦場で命がファストフード的に食い散らされる様を見ながら、彼はマギンティ刑事の物語を書き続けた。砲声を間近にしながら、マギンティはやはり以前と同じくスマートな軽口を叩いていたが、しかし決定的に以前とは違っていた。

Type P

 それはいわば完璧な法螺であった。速さを増すテリー・ハートフィールドの小説は、ひたすら濃密になっていった。登場人物の思考、挙措、筋肉の痙攣。すべてをハイスピードカメラで捉えるように著述し、その場で目撃したかのような臨場感で描いた。その言葉は映像より鮮明に動きを追い、コンピューターより正確に本質を捉え続けた。
 書き続けなければならないという執念が、テリーをここまで連れてきた。
 彼は世界をめぐり、新たな景色を目にしてはそこで得たインスピレーションをすべて創作につぎ込んだ。彼の物語は誰かに読ませるものではなく、書くこと自体が目的であった。書くという行為がすべてであった。
 テキサス・タイプライターはテリー・ハートフィールドの言葉を撃ち出し続けた。

Type Q

 ここに一葉の写真がある。テリー・ハートフィールドを語るうえで必要な写真はこれだけだろう。
 それはテリーの著作の裏表紙に必ず印刷されていた顔写真の、その原本だ。椅子に座った大男。無精髭の生えたその顔は当然ながらカメラマンを見ていない。なんでもいいから早く撮ってくれ、こっちは忙しいんだよとでも云いたげだ。
 テリー自身が写真というものについて書いていることを引用しよう。マギンティシリーズの後期の作品だ。(この頃になるともう作品数が多くて誰もが数えることを放棄していた)。

『写真は嫌いだが、写真を撮るひとのことは嫌いじゃない。』

 テリーの遺影にも使われたこの写真について妻はこう証言している。「とても良い写真じゃない?」

Type R

 正直に書くと、退院して以降のテリー・ハートフィールドの作品についてはほとんど眼を通すことができていない。あまりに全体の量が多すぎるのと、加えて例のテキサス・タイプライターの穴で著述された文字列を文字起こしするのがそれなりに面倒な作業だからだ。
 だからそれらが本当に小説の形式を取っているのかどうか確認することも正確にはできていないわけだが、それについてはテリーのことを信頼したいと思う。
 晩年の作品『マギンティ刑事のクリスマス』、それ一冊だけで、彼が真の作家であることは証明できるからだ。

Type S

『マギンティ刑事のクリスマス』は彼が六十八歳のとき、世界放浪の末にテキサスの自宅に帰り、孫たちにクリスマスプレゼントを手渡したときに書き始めたものだ。プレゼントは特大のケーキであり、それがもっとも喜ばれるものであることを年老いた賢者である彼は知悉していた。
 ハートフィールド家のクリスマスは三つのサプライズとともに祝われた。一つはテリーの帰国、一つは二番目の息子に三番目の子供が出来たこと、そして最後に一つは十二時に玄関ホールに現れた闖入者であった。
 それはサンタクロースではなかった。

Type T

 いつの日か、テリーにはテキサス・タイプライターの速度すら緩慢に感じられるようになってきていた。だが年老いた彼はそれより速い領域に手を伸ばそうとは思わず、ただ祈る時間が増えた。彼にとっての信仰は虚構への祝福であった。
 玄関ホールに現れた闖入者はトミーガンを片手に持ち、目出し帽を被っていた。銃は実物であり、彼の犯意も現実であった。
 闖入者が最初に眼にしたのは幸せなハートフィールドの家庭であり、次に眼にしたのは両手に銃を持った白髭の小説家だった。
 小説家は無言で闖入者に銃を向け、それを発砲した。文字が紡がれた。穴の開いた長紙が次々と繰り出され、丸く切り抜かれた紙片が宙を舞った。玄関ホールに雪が降り積もった。
 闖入者が発砲する。しかしテリー・ハートフィールドにとってはそれすら水の中でもがくように遅滞した動きだった。彼の身体へと実弾が向かってくる間も、テリーは物語を綴り、そして彼の虚構へと祈りを捧げていた。
 やがて弾はテリーの腹部に到着し、その衣服と皮膚を切り裂く。
 闖入者は足を踏み出すが、その足は玄関ホールに降り積もった紙雪の上を滑ってもつれ倒れる。

 テリー・ハートフィールドが彼の生涯で最後の傑作を書き終えるのと、テリーの次男が床に倒れた闖入者を取り押さえるのはほぼ同時であった。

 バチバチバチバチバチバチ
 カシャッ。
 バチバチバチバチバチバチ
 カシャッ。

Type U,


and end