偽史邪神殿

なんでも書きます

[少女庭国]とはなんだったのか

 

〔少女庭国〕

〔少女庭国〕

 

 

〔少女庭国〕 (ハヤカワ文庫JA)

〔少女庭国〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

 

 

 『[少女庭国]』とは、矢部嵩によって書かれた異形の小説ないし立川野田子女学院卒業試験の記録である。

 ホラーがメインではないのでさしてグロテスクではないものの、それなりにそれなりのエグい描写がカジュアルに出てくるので嫌な方は心した方が良いかと。文体の個性も結構あるので人によっては拒絶反応が起きるかもしれない。

 あらすじは以下の通り。 

 

  卒業式会場の講堂へと続く狭い通路を歩いていた中3の仁科羊歯子は、気づくと暗い部屋に寝ていた。隣に続くドアには、こんな貼り紙が。卒業生各位。下記の通り卒業試験を実施する。

“ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ。時間は無制限とする”

羊歯子がドアを開けると、同じく寝ていた中3女子が目覚める。またたく間に人数は13人に。脱出条件“卒業条件”に対して彼女たちがとった行動は…。扉を開けるたび、中3女子が目覚める。扉を開けるたび、中3女子が無限に増えてゆく。果てることのない少女たちの“長く短い脱出の物語”。 

 

 この本がデスゲームものへのアンチテーゼとして書かれたことや、思考実験としての要素を持つことは下のページなどで既に指摘されているので、今回は特に言及しない。適度に参照されたい。

(2019年6月21日加筆 以下の記述は原則的に初出のJコレクション版に対応し、文庫版において変更がある場合については註にて言及。引用箇所についても同様とする)

 

少女庭国 - ナナメ読みには最適の日々

 

※ざっくりと作品のネタを割ることになりますが、そこまで読後感にアレはないと思うので、未読の好事家の読書ガイドになれば良いと思います。

 

 作品は二部構成。冒頭1/4が「少女庭国」(以下便宜上「本編」とする)で、残りは「少女庭国補遺」(以下「補遺」)となっている。本編はあらすじの通り仁科羊歯子を視点人物としてゲームクリアまでを描き、補遺では新たに62人の視点人物が体験する同じルールの卒業試験が順番に叙述される。

 「n-m=1の達成」。これこそが卒業試験の目的であり、物語の肝だ。念のため書いておくが、「n-m=1の達成」とはつまり、「一度開放された部屋の内部にいる自分以外の生徒すべてを排除する」ことを意味する。*1

 曲がりなりにも真っ当なデスゲームものとして語られていた本編に対し、補遺においてはあらゆるゲーム展開が次々と提示されセルフパロディの様相を呈していく。これがこの本の特異性であり醍醐味でもあるのだけれど、今回はそうした特異な構図によって浮かび上がってくる「少女と現実の邂逅」について話したい。*2

 

[少女庭国](本編)

 

 「デスゲームものへのアンチテーゼ」とかそうしたごちゃごちゃした話の前に、もう少し初歩的な話をしていきたい。

 なぜ、卒業試験の課題が「n-m=1の達成」なのか。

 ここで注目したいのは登場人物が「中3」であること。ご存知の通り、義務教育制度下では中学校まで無試験で上がることができる。そして、中学校卒業後は高校・大学受験や入社・資格試験など、誰もが様々な形でテストされ合否を突きつけられることになる。

 それは同時に「他者を蹴落とす」ことを意味していて、だから「中学校の卒業」とは、誰もが「淘汰の仕組み」を受け入れることとなる通過点だ。

 もうお分かりと思うが、n-m=1」はこの「淘汰の仕組み」そのものであり、「n-m=1」を受容したものだけが中学校を卒業できるのは必然的といって良い。

 

 本編の主人公・仁科羊歯子は成り行きで「n-m=1」を受け入れることになるが、彼女同様自ら望んだ訳でもないのに「n-m=1」と付き合っている人は多い。他人を蹴落とさないとクリアできない、こうした類のゼロサムゲームはデスゲームものの常道だが、[少女庭国]はそれを卒業式という通過儀礼の装置に組み込んでいる。

 言い換えれば、[少女庭国]は「中学校」と「競争社会」の間に位置する分水嶺なのだ。

 

[少女庭国](補遺)

 

 さて。以上のようなことはこの小説の前提条件に過ぎない。補遺に突入すると、物語の構造はちょっと一筋縄ではいかない様相を呈してくる。

 仁科羊歯子個人の物語として書かれていた本編と違い、補遺においては62人の視点人物によって少女庭国の栄枯盛衰が次々と語られていく。時に彼らは庭国の開拓を進め、領域を拡大し、どういう訳かクローズドサークルの内部に新しい文明を築いていく。ここにきて、閉じ込められた生徒たちの目的は「脱出」ではなく「生活」へとねじ曲がっていってしまう。

 奇妙なのは、そうして現実世界での淘汰を受け入れられずに文明を作った生徒たちも、やがて奴隷制や食人のシステムを作り上げて庭国の内部に搾取の仕組みを作り上げてしまう点だ。そうなってしまうと、当然卒業試験は分水嶺としての役割を喪失し有名無実のものと化してしまう。

 

 こうした展開は一見、本編にて作り上げた構図を著者自らが破壊してしまう行為のように見える。

 

 しかし、こうして庭国がもうひとつの現実として拡大していくことも、卒業試験の一部として最初から組み込まれているのではないか。庭国の内部にはその他の部屋と明らかに異なる「無限の石室」が存在する。

 

 地上に出たかと見まがうほど天地四方にどこまでも続く広大な空間(P.147)    *3

 

 初読時にはこれもまた生徒たちの開拓で作られた部屋なのかと思ったが、「天地四方に広がる」という設定を踏まえると人力で作ることが出来るものとは考え難い。上の描写を踏まえると最初から庭国の一部として存在したと考えるのが自然だ。さらに言えば、「無限の石室」は庭国内部での文明発展の場として、試験の主催者たる校長から与えられたものに他ならないだろう。*4

 要するに、試験に参加しようと参加しまいと生徒たちは淘汰の仕組みに飲み込まれてしまう。そして、庭国は最初からこの事実を踏まえたうえで設計されている。

 

 話はここで終わらない。

 少し唐突ではあるが、一度補遺の「性質」について振り返っておきたい。

 補遺は62人*5の生徒によるそれぞれの体験を淡々と羅列していく。そして本編たる仁科羊歯子の物語すら羅列される全体の物語に飲み込まれ、客観化されていってしまう。

 そう、補遺において特徴的なのは客観の視点だ。

 直接的に明かされている訳ではないが、補遺の文章は庭国に住む生徒たちによって書かれた歴史研究そのものだ。彼らは「過去方向の部屋」を発掘して自分たち以外の生徒の試験結果を探索し、研究している。

 

四九番というのもここで便宜的な国分星子のただあったら読みやすいかなと思って付けた読書の目安であり(P.138)*6

 

 例えばこれは章題の番号についての言及。こうしたメタ的な描写は、補遺そのものが生徒たちによって書かれた歴史研究の書であることをさし示している。実際148頁*7などには、補遺の内容がそのまま庭国の文明世界において教科書となっている、と露骨に書かれている。

 なお、補遺では登場人物が試験に合格したのかどうかもロクに描かれない箇所が複数あるが、テキストが庭国内部にいる生徒によって書かれたものと考えれば、脱出につながる描写が欠落しているのも納得がいく。*8

 ここで話は戻ってくる。補遺が生徒たちによる歴史研究である以上、先述した庭国の仕掛け――淘汰の仕組みから逃れられないという仕掛けは、当然生徒たちにも認識されている。されているからこそ、物語は最後に一つの答えに辿り着く。

 

 話が煩雑になってきたのでまとめておきたい。

  • 卒業試験の合格は淘汰の仕組みの受容と同義
  • 庭国が文明に発展すると庭国内部にも淘汰の仕組みが形成される
  • 庭国は以上を踏まえたうえで設計されている
  • 以上のことを生徒たちも認識している

 

  ここに来て、生徒たちは避けることが出来ない「淘汰の仕組み」との対峙を迫られる。システムをいかに克服するのか、それとも現状を受け入れ続けるのか。

 補遺の叙述者である生徒たち、そして『[少女庭国]』の著者である矢部嵩の結論は最後の断章にて二人の少女に委ねられる。その答えがどういったものか、それをわざわざ説明するのも無粋という感じがするのでここには記さない。

 

 ただ一つだけ言えるのは、結局のところこの小説に通底するテーマが「百合」であるということだけだ。*9*10

 

※本記事作成にあたり、てんつく氏の手を借りました。感謝。

 

 

*1:一つの扉を開くと自動的に「開放された部屋の数n=2」となるのでその場合は誰か一人が死んで「m=1」としないと脱出は不可能になる。「n=1」となる状況は存在しないので、いかなる場合も誰かが死なない限り脱出は不可能となる

*2:本当は登場人物の命名の意味合いとかを掘り下げたかったが、諸々考えたところ完全に分からなくなってしまったのでこうなった

*3:文庫P.171 加筆修正なし。

*4:無限の石室が校長から与えられたものでなかったとしても、そもそも「部屋の壁を削って庭国を拡張できる」ことや「ドアさえ破れば過去方向の部屋を探索できる」ように庭国が設計されていることから、やはり生徒による開拓は庭国の設計に組み込まれていることが分かる

*5:文庫版では補遺の小節がひとつ多いため、63人である。なお加筆挿入されたのは「三九 [浮島茉莉子]」(文庫P.149)。

*6:文庫P.159 補遺の小節がひとつ増えたため「四九番」が「五〇番」に修正されている。

*7:文庫P.172

*8:先述リンクでは「全編においてこの最後の二人の少女(ラスト即ち62節──文庫版では63節──に登場)だけが、その『末路』を描かれない」と書かれているがこれは誤解

*9:……と、このときは書いたものの、2019年以降、本書が早川書房の百合SFコマーシャルに利用されるとモヤっとくるのも事実。早川に限らず、こうした"下品"な売り方は今に始まったことではないが、特に百合ジャンルに関しては定義論の難しさやジャンルとしての歴史の浅さゆえ、誤った商業戦略がジャンル全体の寿命を縮めるリスクを考えなくてはいけない……なーんていうことは明白だけど、下品な売り方で喜んでいる勢力が大きいのも事実なので苦しいところ。まぁ何を云いたいのかといえば、「百合かどうかはお前が決めろ」という話であって、そんなことより何より、『[少女庭国]』が傑作であるということが重要だ。

*10:若干この感想文も投げ出し方を失敗してる感があり、なんとなく自分でも思うところがあるので、もしかしたら今後もうちょっとちゃんとした感想文をリライトするかもしれない。もしかしたら。